教鞭3 汚泥の魔狼
鼻先をこちらに向けたのは、犬のナスだった。
「感づかれたぞ」
犬の号令を始まりに、新野たちの屋上へと五体のナスが登り始める。
登ってきたのはヒト型。しかし全てが四肢で這い、奇妙な形を体のどこかにそなえている。
奇形ともいえる闇の人形は、二人を囲むようじりじりと動いていく。
「せっかくだから、ナスシュまでのお見送りといこうか」
「なに?」
「シトスツ!」
狼王が吠える。すると彼の牙、赤い柄の双剣が瞬時に握られた。
それはほんの軽い動作に過ぎなかった。
とん、と蹴った一足で一番近くのナスが血を噴き地に倒れていた。
新野が一呼吸をおいた時間でもう一人の肩が宙に飛び、旋風のごとく回転した王の剣は続けざまに胴体を斬り分ける。
腕を伸ばしたナスの下をかいくぐり、零距離から交差に斬り結ぶ。その頭を蹴って飛び込んだ先で、最後のナスの頭が縦にかち割られた。
またごく軽く着地をした狼王は、うっすらと笑っていた。
まさに圧倒的。
動体視力の向上した新野の眼でさえも、動きを追いかけただけ。
反応などなにひとつできない。棒立ちしている間に完結していた。
それに感嘆の声を上げる前に、旧駅前で動きが起きる。
残りのナスたちが先ほど号令をとばしたイヌ型のナスへ集結している。
「なにしてんだあれ……」
見下ろす視界の中で、イヌの口が巨大に膨れ上がった。
そのまま近くのナスたちを、飲み込む。ふぞろいの牙で影の体をむさぼっていく。
唐突に仲間割れを始めたのか驚愕する新野の襟首を、狼王が拾い上げた。
突然の衝撃に声を上げる。狼王は新野を片手で引き、屋上を飛び降りた。
直後頭上に影が降りる。
「なん、だこれ!?」
屋上へと伸びていたのは、大木のような影だった。質量のある影はナスの体と同じ。
旧駅前へと降り立った二人の前には、よだれをこぼすイヌの頭が牙をむき出しに唸っていた。
その体はしかし最早イヌではない。
大木はそのナスの胴体だった。
「仲間を食って合体……? そんなんアリか?!」
大樹型の化け物と変化したナスの幹に、埋め込まれたイヌの顔が狂ったように新野に吠え立てる。
その声に続いてしなる幹が鞭となって二人を襲う!
身をかわし避けた瞬間で、冴龍の脚甲はそのうちの一本を踏みつけた。
「つかまえ――!?」
足裏の幹は膨張し、新野の足を跳ね返す。触れた際踏み潰すほどの勢いだったはずが枝には傷ひとつない。
「こいつ、固いぞ!」
新野の横から飛び出した狼王の剣先が、その膨張した枝を斬りつける。
狼の牙は堅固な影を斬ることに成功する。
しかしばっさりと開いた傷口は、すぐに時を戻すように接着され元通りの形に戻った。
「修復した?」
「いや、それだけじゃないな」
冷静な声とともに見せられたのはシトスツの刃。
鋼のそれは黒く変色していた。
「黒化?! 剣が?」
「こいつは毒の塊のようなもんらしい」
その言葉を聞いて、眼前の巨体が更に大きさを増したような錯覚を覚える。そんな新野とは裏腹ににやりと笑む狼王は、双剣から手を放す。
「つまりは一瞬で消せばいいだけのことだ」
地に落ちた双剣はかき消え、狼王は空手のまま大樹に対峙する。
無策でぶらりと立つ男を、新野はぎょっと見る。しかし狼王の声は軽い。
「ちょうどいい。そんなちゃちな装備じゃ心元ないところだ。一度だけオマケで見せてやる」
「なに言ってんだ、あんた?」
直後、狼王から不可視の重圧が溢れだす。
地面の小石が狼王から風に飛ばされたように離れ出す。無風の中、新野もなにかにどっと押されたようによろめく。
後退した足はなんとか踏ん張り、おどろおどろしい重圧に耐えてその波動の中心に立つ彼に声をあげた。
が、その声が出ない。叫んだはずが耳に届かない。
今この瞬間はおそらく一瞬のことだ。だから自分の声もまだ発せられる段階にいっていないのだ。
いやそれほどに、この瞬間を支配しているのだ、この王の吐き出す気配が時間をもゆがめるほどに。
新野は自身の額が急激に熱くなるのを感じた。
共鳴している。
「借りるぞ、我がテュラノス――!」
狼王の眼光が赤色に染まる。掲げた右手の甲に光が灯った。
新野の額と同じ輝きを放つそれは、牙のしるし。
「四肢を絡めるその鉄鎖で、敵の五臓を引きずり出し、血花をさかせるその牙で、空の陽月を食い破る。こいつの後には影もないぞ」
狼王の右手周囲の空間が、這うように動き出す。奇妙でいびつな、背筋を逆立てる唸り声があたりに響く。
「来い、隷獣。『悪行と悪評』」
主の呼声に応じ、その悪狼が現界する。
地面がどろりと形を崩し、突如現れた紫色の沼からその巨体が這い上がってきた。
人の頭を軽々と潰せそうな足からは、長い黒爪が伸びている。
唸り声を発し、よだれを垂らす口腔には凶暴なまでの牙が並ぶ。
顔面を血色の仮面で隠し、太く頑丈な鎖がその屈強な全身を拘束している。
陰気で重いくすんだ霧を連れた、魔狼。
汚泥に棲まう者。ヴァナルガンド。
数々の名を持つその怪物は、最も知られている名を持っている。
神話にて終末に最高神を飲み込んだ狼、フェンリル。
仮面で表情はうかがえないが、その怨嗟を伴う声から怪物が今にも飛び出しそうな暴力を抑えていることがわかる。
濃厚な負の気配に、新野の全身は自然とすくむ。肩にずっしりとした重みを感じ、呼吸も喉の奥でつまる。
そんな化け物が、狼王の横で身をかがめた。
巨体の額に手が届くようになり、王はその忠心を撫でる。
しかし次には、しるしを浮かべた右手が魔狼の額を貫いた。
怪物の凶悪な口腔から苦痛の呻きが放たれる。
「五月蠅い黙れ」
笑みを浮かべた王の命令が下れば、怪物はぴたりと悲鳴を飲み込む。
震える額から手を抜きとる。不思議と怪我はない。
「さあ、神話の狼よ。踊ってこい!」
楽しそうに高々と言い放つ。
呼応して、怪物はその真価を発揮するかのごとく、巨体を更に倍に膨れ上がらせ、鼓膜を突き破る咆哮を上げた!
大樹のナスが無数の枝を一斉に狼王へと殺到させる。
それを怒号とともに飛び出した魔狼が一身に受ける。
突き刺し、薙いだ傷口から毒の波が急速に染みこむ。
しかし体を貫かれても全く気にとめず、魔狼は吠えたて大樹へと体当たりをかました。
巨体通しがぶつかり合い、地面が揺れる。幹に向かって鮮血の赤に染まる口がかっと開き、牙をたてる。
痛みを感じているのか大樹は横に大きく揺れ、魔狼の体を引きはがそうともがく。滅多打ちにされてもなお、狼の牙は深く突き立っていく。
漆黒のナスと同じ色に魔狼の体毛もどんどん染まっていく。
もはや半身を黒化させた狼はしかし牙を放さない。
まるで一歩もそこからナスを動かすものかと、しているように。
「いい子だ」
その魔狼に、狼王の冷徹な声が落ちる。
「拘束!」
牙のしるしを掲げて、その号令のもとに魔狼の体を包んでいた鎖が解き放たれる。
次の瞬間にはその鎖は再び巻き取られる、大樹と魔狼をいっしょくたにして。
「捕縛!」
鎖は限界まで引き絞られ、二対の怪物を大地に縫い付けた。
そして掲げられた右手は握り込まれ、
「潰れろ――殴打」
一切の慈悲はなく振り下ろされた。
地面が隆起し、巨獣どもを隙間なく囲み尽くす。
集結し凝縮し完全に怪物を包み込んだ土の塊は、一瞬の静けさの後、
中心へと向かって小さく小さく、まるで見えない巨人の手に殴り続けられるように、破壊されていく。
土の破壊される爆音の中、時折怪物の短い悲鳴が小さく耳を通り過ぎた。ナスシュのものなのか、魔狼のものなのか。
悪夢を見させられているようだ。
断続する破壊音は弱まっていく。
悲鳴などもう聞こえない。
そして最後には、ヒトの拳大程度の塊へと化した。
それがこつんと地に落ちる。
狼王はそれを拾い、手中でもてあそんだ。
彼は怪物を殺し尽くしただけなのに、新野は冷や汗を流して声を出すことがしばらくできずにいた。
やがて飽きたように土くれを地面に放り捨てた狼王は、そんな新野を見てひっそりと嗤った。
「どんな奴であれ、そいつが狼と名乗る限りは俺の隷属だ」
だから好きにしていいのだ、と言外に聞こえて、新野はおののいた。
「その目はなんだ、新野。お前も今じゃ同類だろうに」
「俺も……?」
全くそんな自覚はない。
だがそれを完全否定するように、狼王は微笑む。
「龍を束ねる龍王のテュラノス。まずは冴龍から極めるんだな」
「冴龍、から」
呑まれて反復することしかできない。
それでもなおぼんやりと、想像をする。
冴龍以外の龍たちの姿を。
それを全て今のように従わせる自分を。
まったくもって、笑えなかった。




