感染
「ナス!? なんでここに!!」
目の前で一人の男が異形の者と変わり果てた。
黒に染まった顔に広がる無数の複眼、それが一気に辺り一帯を睥睨する。
森でナスに襲われた時の恐怖が新野の背中を駆けのぼった。
街は依然平常のまま、道はヒトでごった返している。
新野が叫ぶよりも早く、ナスが跳ね跳んだ。
「え? あ……」
すぐ近くに立っていた警察の一人が、呆然と声を漏らす。
その肩に漆黒の怪物は乗り込み、首根っこにかぶりついた。
「い、痛い! いた」
ぶつりと首が切れる音に悲鳴はかき消され、どっとその場に倒れる。
ナスが夢中でしゃぶりつくそこから、少し離れた先に転々と首から上にあったものが転がった。
「うわああああ!!」
「た、隊長が!」
残された部下の悲鳴と混乱に、ようやく街を通りゆく人々が異常事態に気が付きはじめる。
頭を失ったヒトにまたがって首をすするナスが、そのざわつきに顔を上げる。
その動作には最早隊長と呼ばれた男の面影はない。野生の動物に似たそれだ。
「逃げろ!!」
新野は雑踏に向け叫んだ。
ナスが野生動物と同じようなもので、そしてそれが獰猛で貪欲な思考だとしたら、次の行動は決まっている。
飛び上がったナスは逃げようと背を向けていた警察の一人にまたも覆いかぶさる。
狂乱の悲鳴を上げもがく男に再び巨大な口を開けられた。
その黒い怪物に向かって、新野は渾身の体当たりをかました。
全く意図していないところからの攻撃をくらい、ナスは地に転がる。しかしすぐさま体を起こし、傍のビルへ跳んだ。
手足を蜘蛛の足のように動かして、怪物がビルの壁面を登っていく。
街の雑踏はそれを見上げ、大騒ぎになった。
「無事か!?」
襲われた警察の男を助け起こす。
男は恐怖に震えながらも頷いた。
「あ、ありがとう……」
男の無事を確認するや否や、新野はナスを見上げる龍王に並ぶ。
「追うぞ、いいよな?」
「ああ。しかし君は……」
「なんだ?」
橙の上目づかいに首を傾げた。龍王はふっと笑みをこぼす。
「勇敢で、嬉しいよ」
目を見開く新野の手を龍王はとり駆けだした。
ナスはどんどんビルを登っていく。
二人はそのビルの中に入った。
元渋谷では本屋だったガラス張りのビルは、今はホームレスの住処と化しているようだった。
怪しい露店を尻目に駆ける龍王は、非常階段を見つけ登っていく。
その素晴らしい脚力に追随しながら、新野は声をかける。
「どこ行くんだ!」
「屋上! あのナスを先回りして止めよう!」
「それはいいが、走ってかよ! あんた龍だろう?!」
「あんな大勢の人前で、龍態にはなれない! 建物の中は狭くて飛べないし走ったほうが早い!」
上へ上へと階段をひたすら駆け上る。息が切れないのはテュラノスになったからなのか。
「龍を見せられないって?」
「長くなるけど、事情があるの! それより新野がぴょんと跳んでいってくれればいいのに!」
「ぴょんって言われてもな……」
確かに何度か不思議な能力の片鱗なのか、高いところへ跳んだりもできたが、残念ながらどうやってやっているのか見当もつかなかった。
行き着いた先の扉を乱暴に開け、二人は屋上へと飛び出した。
そこには怪物の姿はない。
「やばい、どっか行かれたら……!」
「いや、大丈夫」
龍王のまっすぐ見つめる視線の先。屋上の端の縁にそれは現れる。
漆黒の指先が縁をつかんだ。
刹那飛び上がって、コンクリートの屋上に怪物は着地した。
その姿に新野は息を飲む。
獣のように這いつくばる、元人間の背中が洋服を突き破ってでこぼこに隆起していた。
手足の関節は原型をとどめず、動きは虫のそれに近い。
異様だ、吐き気がするほどに。
「なんだこいつ、今まで見たのと違う……! それにこれ、あの隊長さんなのかよ……」
畏怖しそうになる感情を堪え、拳を握りしめる。
ナスはこちらを警戒している。複眼が荒々しく動きまわっていた。
「これは森にいるナスよりも強い感染力で黒化したんだ」
龍王の声は冷たく、抑えた怒りがかいま見える。
「ナスシュが、この街に侵攻しているということ」
「ナスシュって、猪の王を化け物にした奴か?! ナスを生み出す悪魔だとか言ってたな」
「本来なら森で死んだ人間をナスにする程度の感染力だったはず。猪の王を黒化させられたから、まさかと思ってた……」
龍王は悔しそうに唇を噛んだ。
「でも街に来れるくらいにまで回復してたなんて。新野気をつけろ、ナスシュの影は感染する。傷を受けるとそこから黒化がはじまる」
「それじゃあさっきの殺された人は?!」
「ナスにはならないよ、頭が……無いから…」
龍王も新野も後悔の念がよぎっていた。目の前で命が失われたことへの、果てのない喪失感が二人を襲っていた。
眼前にいる怪物も、数分前までは会話をしていた相手だったのに。
「ナスシュを止めないと。こうしてる間にもどこかから感染しているかもしれない」
たとえば森のナスに襲われたが逃げのびた鼠がいたとする。その鼠が黒化して街で人に噛みついたとしたら。
ぞっとするような想像だった。霧のかかったような現状の危機に不安感がつのる。
新野は肩につかまる鼠を人差し指で撫でた。
「ブラウとロット、それとできるだけ街中にこのことを伝えられるか?」
「もちろんだ、まかせて!」
「気をつけろよ」
青いリボンを巻いた鼠は、新野の肩から一目散に駆けてゆく。その小さな姿を見送って新野は怪物へと振り向いた。
その新野を少女は手で制す。
「……まさか俺にさがってろ、とか言う気じゃないだろうな?」
わざとらしく悪役のような笑みをして新野はその手を押しのけた。
龍王は困惑する。
「だ、だって君、見ただろう? 彼はさっきまで君と話していた人間なんだ。それを、君は……」
「戻らないんだろ? あの人は」
龍王は口をつむぐ。
「どうしたってもうあの人は元の姿になれないんだろ? だからあんた、あの時あんな顔をしていたんだ。それで、死んじまったのか、人間としての意識はあるのか?」
少女は首を横に振る。
いつもの泣きそうな顔になって、それからごまかすようにへらりと笑う。
新野はその顔を見ると無性に腹が立った。
「ならいい。いけすかない男だったが、ヒトゴロシは俺も嫌だしな。でも今は見ろよ、醜悪な怪物だ。害虫だよ。猪を殺すより、はるかに気が軽い」
思わず龍王は新野を見上げた。口端をあげて笑んでいる新野の目は昏い。
まるで自分に言い聞かせているようだった。
これが彼なりの「龍王のテュラノス」となった自分を認める儀式なのかもしれない。
本能でわかっているのだろう、彼が彼であり続ける限り、龍王と同行する限り、戦いからは避けられないということに。
慣れなければいけないということに。
「手を出すな。俺が殺る」
新野は龍王よりも一歩前へと、踏み出した。




