龍王と幕間
地球は穴だらけの星となっていた。
誰が思うだろうか、その穴をのぞけば、もうひとつの世界があるなんて。
混沌『シブヤ』。
その大穴から落ちればそこには弱肉強食の街がある。
ザルドゥ首都と呼ばれる異界の街には、ナワバリヌシの狼王を筆頭に曲者揃いの住民がいる。
新参者として、その住民に加わった二人がいた。
………
三日前。
いったい何度目の後悔をしたら気が済むのだろうか。
龍王はその時、新野の胸が貫かれるのを、ただ見ていることしかできなかった。
人間は力なく倒れ込み、そのまま渋谷の穴を落ちていく。
奴の嘲笑を背景に、龍王は迷わず新野に続いて深淵へと飛び込む。
地を横断する闇の旅路。
終わりの見えない落下の中、伸ばした指先が新野に届いた。
そのままたぐり寄せかき抱く。
うっすらと開いた目に光は無く、鼓動はごく小さい。
終わりへと向かっている腕の中の命に、龍王は悲痛な叫びをあげた。
ああくそっ! くそっ! どうしてこうなる、どうして。
初めて新野と会話した時。
サラマンカと聞いて驚愕に固まった彼の口元はわずかにほころんでいた。
それを見て龍王は新野がサラマンカに対しての情を忘れていないことを確信したのだ。
ああこの人間も、優しい人間なのだ、と嬉しくなったのに。
その人間はこうしてあっけなく人生を強制的に終了させられる。
龍王はためらう。
この男の人生をつなぎとめることが龍王にはできた。
しかしそれは彼の人生を破壊させることに等しい。
理不尽な死か、理不尽な生か。
新野自身に選択させることはできないこの今、龍王が判断するしかない。
考えても考えてもなにが正しいかなどわからない。
胸をかき乱される耐えられない苦痛に、龍王は泣きそうに顔を歪めた。
そしてその橙の瞳に光が灯る。
少女の腕ではない、轟然と顕現した黒龍の腕が新野を支えた。巨大な翼が保護するように包み込む。
息も止まった男の胸の穴に、龍は口元をそっと近づける。
何も声には出さなかった。しかしその双眸からは一筋涙を流し、龍はこの命をつなぎとめる奇跡を祈った。
大穴から落ちた衝撃ではぐれはしたものの、確かに新野の命の灯を感じていた龍王は、草原に膝をついた。
幸せを願う人間の生命をまたももてあそんでしまった事実が、容赦なく龍を責めたてる。
後悔と自責の念は、少女の小さな手に地面を強く握り込ませていた。
………
ザルドゥ首都に住むのに住民登録もなにもいらない。
寝床を探し、食い物を得る手段を探すくらいの最低限のことさえ出来ればいいのだ。
果てしなく続くかと思われた戦いの日は、終わってしまえばたった一日のできごと。
しかしその一日という時間で新野の人生は劇的に変化した。
109には新野を忌み嫌う狼がいないわけではない。
新野が109を離れる際ブランカが引き留めてくれてとても嬉しかったが、あの旧シブヤの廃墟には落ち着くことが到底できそうになかった。
行くところといえばそれではザルドゥ首都しかなく。そこに住むのだろうなと頭ではわかっていたが、新野の足はまっすぐそこに進むことはなかった。
狼王との話合いも終わり、龍王はそんな新野を昼過ぎに見つけた。
獣王とテュラノスには不可視のつながりが存在する。
龍王にしたら、新野がたとえ星の反対側にいようと、生死の有無やだいたいの位置は把握することができた。
ただ危険であるかどうかなどは近くにいなければわからない、今回の戦いでも烏が知らせに飛んで来なければ、龍王は今でも新野の危機を知らずにいただろう。
渋谷動物園内にて、緑色のつなぎに着替えた新野は耐圧ホース片手に息をついていた。
「よし、完了」
どうやらサラマンカの行き来する獣舎と展示場の清掃を終えたらしい彼は、後片付けを始めている。
龍王は若干呆れた。
異世界に落ち、命危ぶまれる危機が連続した後に、彼はというと休むでもなく地上にいたころの生活をしているのだから。全く不可解である。
その新野を寝そべったサラマンカが見守っている。
龍王はそんなサラマンカの檻に鍵を開けて入り込んだ。
豹は龍王の顔を見るや否や嬉しそうに尾を伸ばし先だけを揺らした。
「掃除してもらってるんだ?」
「ええ。管理ロボットが入っているから別に汚いわけじゃないのだけど、やらせてほしいって。龍王、あなたも無事でなによりだわ」
「僕なんかほんとに全然、なんにもしてないんだ。新野は、頑張ったけど」
「……そうね」
額に汗を浮かばせながら、新野は片付けに精を出していた。
不意に訪れた沈黙をごまかすように龍王は声をあげる。
「そういえば、ティカも無事だって聞いた?」
言うと母親はほっそり目を細める。笑っているのだ。
「さっき新野が連れてきてくれたわ。元気そうで本当にほっとした」
「そうか、会えたのか、良かった」
「今はライオン舎を見に行ってるんだと思うわ。あの子昔から恥ずかしがり屋だから、新野がいなかったらもう会えることもなかったかもしれない」
あくまで豹であるサラマンカにとっては、大事な一人息子を心配はするものの傍につなぎとめようと思うことは無いらしい。
精悍で強靭な大人の豹へと成長しているティカを見れば、さぞ満足できたことだろう。恥ずかしがり屋という点は身内以外にはよくわかりそうもないが。
それにしてもあのクロヒョウをどうやって無理矢理連れてきたのだろうか。
「新野はすごいなあ」
心から感心して自然とそう呟いていた。
突然降り落ちた異世界での生活は、相当な辛苦であったはずだ。その中でも大きく自分を歪めることなく、しかも恐怖に耐え祈りを叶えようと奮闘していた。
哀しみに悲嘆するのら優しさの裏返しだ。
その尊い性を彼は失っていなかった。
「お前ら仲良くなに話してるんだよ」
作業を終え戻ってきた新野は汗をぬぐっていた。
龍王は笑う。
「そこは女子の秘密だ」
「見た目女子なだけの雄なくせに……」
じとりと睨む新野。平然とした調子だ。
人間でなくなり、地上の世界にも戻れない現状に慌てることも狂うこともない。
いや内心ではどうかわからない、その心の波を平穏にするためあえてこの作業に従事したのかもしれない。
「よし、んじゃ行くか」
つなぎを脱ぎながら、新野は龍王を促した。
「ん? どこへ?」
「それはあんたが決めることだろ」
呆れた様子の新野に龍王は首をひねる。
「俺は龍王のテュラノスなんだから、あんたについていくよ」
新野にとっては何気なく吐いた言葉だったかもしれない。
しかし龍王は一瞬息すら忘れた。
あれだけ悩み、実際テュラノスにしてしまってからは何度も後悔し謝罪し続けた。
せめて平穏な日常でいて欲しくて傍を離れたのに、気がつけば戦いの渦中にいた。
莫大な哀しみを共感したのだ。
彼は傷ついている。
しかし今は前を向こうと必死に立っている。
狼王に言われた言葉がまた龍王の胸を刺す。
ザルドゥで新野に日常を与えようと狼王に願ってから、去ろうとした龍王の背にかけられた。
「わかってるのか。逃げてもそいつは、もうお前の半身なんだぞ」
(わかってなかったのかなあ……)
「おい、どうした?」
急に停止した龍王を新野は訝しんだ。
「あ、ううん。そうだな、いろいろ……話そう」
ずっと心中で謝り続けていた。
今もそうだ。
龍王はそんな自分に首を降る。
もうやめなければ、立ち上がらなければ、新野が先で待っている。
いつか声に出して謝ることがあるかもしれない、だが今はその時ではない。
罪を感じないわけでは決して無かったが、龍王は目の前の人間だった相棒の強さを今一度強く感じていた。




