ノーロンガーヒューマン
翌日になって、新野は一人瓦礫を背に晴天を見上げていた。
狼王と猪の王の争いにひとまず終わりが訪れ、疲れのままに意識は飛んでいたようだが、
「……この歳になって、ここまで泣くことが何度も起きるとはなあ」
ぼうっと、口を開けたままゆっくり流れる雲を見送る。
誰でもその姿を見たら、どこか悪いのかと心配されそうだが、生憎そんな心遣いのできる奴などこの世界に来てから出会えていなかった。
もう何度も思ってきたが、こちらの世界の住人はたくましい。
新野などは未消化な感情や今までの出来事に頭がパンク寸前で、防衛装置が働いてこのようにぼーっと空を眺めているにもかかわらず。
鼠の獣人兄弟はもう109をあとにして家に戻ってしまった。
「で、お前これからどうするんだ」
流石真面目なブラウだ、新野の予想通りに一番聞いてほしくないことを聞いてくる。
「お前夏休みの宿題初日に全部終わらせる派だろ」
「なんだって?」
「いや、いい」
「ごたごたも終わったんだし、ぱーっと遊ぶんだろ?! 俺も混ぜろよ!」
「お前は間違いなく宿題とかしないな」
呑気極まりないロットは晴れやかに笑っている。
新野は息をついて肩の力を抜いた。
「お前ら二人にはなんだかんだで世話になったよな、ありがとう」
「まあな。もうお守りは必要なさそうだ」
「お守りって言うな」
「コートとダガーは忘れてないぞ」
「うわわ! 申し訳ございません!」
全力で平謝りをする新野にブラウは笑みをこぼす。
「まあその格好もそんな悪くねえよ。バス代も込めていつか返しに来てくれればいいからな」
「バスまだ覚えてた?! 怖いよその執着!」
肩を抱いて震える新野に「当然だろ!」と罵倒してくる青年は、自分のコートが跡形もなくなったことはたいして気にしていないらしい。
ちなみに今初めて新野は自分の格好について他人の評価を受けたが、真っ黒で陰気極まりない全身に本人が一番慣れていない。
そんな二人がもめている間も、ロットは終始からからと笑っていた。
「ま、珍しいもんいっぱい見れて、珍しいダチもできたし。いつでも遊びに来いよ!」
「お前もうちょっと働く気ないのかよ」
「無いね!」
「無いなら飯も出ないからな。ニイノ、なんか困ったらなんでも屋アンファをよろしく」
まさかの宣伝を入れてきて、いつか見た悪戯を考えた子どもの笑みを、二人は並べる。
そうしてそっくりな獣人兄弟とは別れた。
続いては飛燕の王のテュラノスである少女。
朝方彼女は大慌てといった様子で狼王の階を降りてきたのだが、
「私、帰るわ! みなさん御機嫌よう!」
と言って文字通り飛び出して行こうとしたところを、急にすっころんで床に顔面を打ち付けていた。
「ふ、ふぐぅ……」
「まあそう慌てるな」
顔をおさえて震える少女に優雅に狼王は手を差し伸べる。
「話が途中だろう?」
差し伸べられた手を極大の憎しみを持って睨みつける。まるで今転んだのも、狼王のせいだと言いたいように。少女は大きく、だから! と声をあげた。
「わ、私は龍王には会わないって言ってるじゃない!」
「なにをそう恥ずかしがることがあるんだお嬢さん」
王の手を乱暴に払い、少女は一転して澄まし顔。ただしほんのり赤くて痛そうではある。
「なにも難しいことを言っているんじゃない。今後情報を鴉の奴から聞き出しては逐一こっちに教えてくれと頼んだり、遊びに来いと言ってるだけだ」
「本音が前に出すぎ! いたいけな少女を労働力としてしか見てないわ、これだから下衆な大人は!」
「お前、ひとを下衆呼ばわりするとか、恐ろしい少女だな……」
あからさまに演技がかっているが、狼王は困ったように唸ったのち、ちらりと傍観していた新野を見つけた。
視線に「?」となる新野から目線を外したのち、
「お前龍王が好きなんだろ」
「ふぎゃっ!?」
狼王の言葉に神子は仰天する。赤みを帯びていた顔が瞬時にゆであがった蛸状態。
「しばらくザルドゥにいるから顔を見に来ればいいじゃないか。好き好き大好き! なんだったら」
「す、す……!」
少女はわなわなと全身を震わせる。狼王はいたって冷静な表情。新野は意味わかりませんと目を白黒させている。
「だから帰る前に会えと言ってるだけだ」
「だ、だって、まさかあんなになってるって知らなかったもん!」
神子は混乱気味なのか見栄も忘れて年齢相応の幼さで訴える。
「まさか龍王があんなになっちゃってるなんて……!」
くしゃりと少女は泣きそうに顔を歪めて、今度こそ晴天に飛び出して行った。細くしかし力強い翼が風をとらえてたちまち雲の影に入っていってしまう。
新野がそれを見送っているうちに狼王は飽きたように階を登っていく。来た時と同じように、少女はさっそうといなくなってしまった。
同じテュラノスとして聞いてみたいことが山ほどあった新野としては残念だ、と思うくらいしかなかった。
そうしてすぐやらなければいけないこともなく、109の住人である狼たちも、森の中で宴と称して猪の肉を片づけている最中であることから人気のなくなった廃墟で一人空を見上げていた。
小鳥のさえずりが聞こえる。
風のそよぐ音がときおり通り抜ける。
青と白のコントラストが眩しい晴れ渡った空。
「平和だ……」
「馬鹿そのものの台詞だな」
唐突な罵倒は背後にかけられた。
瓦礫からひらりと新野の前に降りてきたのは若いクロヒョウ。新野は渋い顔をした。
「今度はお前か……」
「何がだ? 馬鹿」
不満気に尾は強く揺れる。しかしティカのほうから会いに来てくれたことに新野はわずかばかりに喜んだ。
「そうだ、サラマンカのところに行こう!」
「却下だ。一人で行けよ」
「なんでだよ! それじゃあ意味がないだろ、俺はサラマンカに約束したからにはお前の元気な姿を見せないといけないんだよ」
「知っているか? 約束は破るためにあるらしい」
「そんなよく聞く言葉を何故お前が知っている……」
ティカは大きく口をあげて間延びした欠伸をした。新野の話に聞く耳を持つ気は全く無いのだろう。
新野は諦めて、というよりこのやりとりにいい加減飽きたので黙ると、豹は足元で丸くなって寝る。
また穏やかな空気が戻ってきた。
地上では基本的にこんな空気だったが、地上にいた頃には重視することはなかった。だがこちらに落ちてから慌ただしく生きてきて、しばらくぶりにこの空気を実感すると、ほっとしてとても居心地が良かった。
「こっちに来てから、今さら気が付くことばっかりなんだ」
独り言のようにぽつりと落ちる言葉。
ティカはなんの反応も示さない。いい話相手だ、と新野はのんびり考えながら独白する。
空の青さに感銘しながら。
「ずっと俺、あっちでは怒ってるばっかりだった」
あの日渋谷が混沌と化した日の空は灰色だった。あれからなにもかもがくすんでしまった。
「俺にはどうしようもできない状況で、嫌なことばかりが起きる。俺はそれに怒ってるばっかりで、そのうち……わからなくなった」
豹の耳がぴんと立つ。新野は続ける。
「俺にはどうしようもない、俺にはなんにもできない、俺は……無力だ。っていうのが、事実なのか言い訳なのか、どっちかわからなくなった。俺は本当になんにもできないのか。なにかできたんじゃないのか。それをせずに、安全地帯で怒ってるだけ」
渋谷の変わりように怒り、他人が変わらず日常を謳歌していることにも怒り、しかしそうして怒る自分も変わらず毎日仕事に行き休日を過ごしていた。
「最低だ」
渋谷の慰霊祭で、大切な家族や友人を失った人々を見て思ったのだ、自分は汚点なのだということに。
悲しむ資格がないから怒っていた。だが怒る資格もなかった。
陰で愚痴を言うだけで、現実には背を向けていただけなのだ。
どうせ現実に立ち向かったところで、なにもできないから、と。傷つくばかりなのだ、と。
最低な臆病者。
新野の無言にティカの尾は不快に揺れる。
しかししばらくして続いた声に、揺れはおさまった。
「でもここに来て、無力なのは変わらないけど、なにもできなかったけど、できない奴ができないなりにあがくことはできた、と思う。怒ってるより、なんでだろな、そっちのほうがすっきりするってわかったよ」
息をついて空を見上げる。
そのすがすがしい情景と混ざり合って、自分の胸の中を洗おうとするように。
ティカはそんな新野の視線を見て、同じく空を見上げた。
獣は空を見ることが少ない。そこに飛んでいる鳥もいないのに、見上げている豹を見て新野は嬉しくなった。気持ちを共有しているような気がして。
「だがお前はもう無力じゃなくなったぞ」
「ああ……」
新野は額に意識を集中させてみせる。
とたんに額の一点が熱を持ち、龍王のテュラノスのしるしである翼が広がる。
感知できる音、匂い、気配の範囲が急速に広がっていく。
そこはもう静けさのある世界ではない。
あらゆる動物たちの息遣い、鼓動が新野に届く。そのひとつひとつに意思があり想いがある。
この多くの生きているものたちを強く感じる力、それを得たことがこの世界に来て新野に訪れた大きな変化だ。
ティカは空を見上げたまま言った。
「俺は人間のことはよく知らない。だが大抵の無力な生き物は、そのまま変わることなく無能は無能のまま生きているんだろうさ。どうにか工夫してな」
まるで他人事のように言うが、この豹にとっては実際他人事なのだろう。驚異的な実力と豪胆さを持っているこの豹にとっては。
「ニイノ、お前は強くなりたいんだろう? 強くなったが、どうするんだ?」
そう問うティカの瞳は出会ってから初めて見た、澄んだものだった。純粋な疑問をぶつけてきたのだ、このなにを考えているのかわからない豹も、新野がなにを考えているのかわからないのかもしれない。
だから言葉を選ばず、新野は思いついた言葉そのままで答える。きっとそれが自分の一番純粋で、混じりっ気のない想いなのだと思った。
「突き通すんだ。自分のわがままを」
「わがまま……」
「みんな、優しいままでいられるように。途中で死んだり、しないように」
累々たる猪たちの非望。彼らも通したい意見があった、それを聞くこともできず、その死を傍観してしまったことへの多大なる後悔と嫌悪を新野は忘れられない。
生きていたらこの晴天の下で彼らも草を食んでいたのかもしれない。
「そんな光景のほうが、俺は良いって思うんだ」
こうして日向の下で、風を受けよう。
友と語らって、これからを夢見よう。
みんなみんな、そうなればいい。
そんな自分のわがまま。
豹は嘲ることも同意することもなく、けれど新野と一緒に空を見上げていた。
「そんなわがままが通ったら、きっとすごく幸せなんだろうな」
ふわりと耳に届いた声は少女のそれだった。
長く軽やかな橙の頭髪はひとつに結われて風に揺れている。
小柄な体躯に新野と同じ全身黒衣。だのに真夏の太陽を思わせる決して陰鬱でない気配。
対面する彼女に目を見開いていた新野は、立ち上がった。
少女ははにかみ頬をかく。
「なんて言ったらいいのかな。その、本当に、ごめん」
「ごめん?」
少女の謝罪に新野は首をかしげる。
「巻き込んですまない。君をテュラノスにしてしまってすまない。日常を奪って、ごめん。辛いことをたくさん経験させて、ごめんなさい。来るのも遅くなって本当に」
謝りながらへにゃりと力なく笑う。
泣きそうな顔だな、と新野は思う。
こんな泣きそうな顔をさせているのは自分なのか。
「あんたに会ったら……絶対一発殴ってやろうって思ってたんだ」
「え?! そ、そうか、それくらいはそうだよな。ど、どうぞ……」
目をつむっておそるおそる頬を差し出してくる少女を、新野は冷ややかに見下ろす。
右手を固く握り、拳を振りかぶった。
――ひたり、と柔らかな頬に拳がよりそう。
痛みを予想していた少女は目を開けた。その驚いた顔が間抜けで新野は吹き出す。
「でも龍王のくせに、あんな生き物のくせに、こんな可愛い女の子になられたら殴る方が馬鹿みたいだろ。これで勘弁してやる。今さら出てきやがって、どうもありがとよ。生まれ変わるチャンスを頂きまして、もっと早く助けに来い馬鹿野郎」
「本音とかっこつけが交互に出てるんだけど。君の本心はどっち?」
「人間の心は、複雑だってことくらいしか特徴無いんだよ。人間の唯一の個性なめんな」
「はは、これだから人間って」
少女は破顔し、愛おしそうに新野を、「人間」を見上げた。
「新野、よろしく。僕が龍王だ」
「どうもよろしく。そういや訂正だ、俺はもう人間失格だったな、あんたのテュラノスってやつらしい」
自分でも驚くほどにすんなりとそう自己紹介できた。
「やっと認められたみたいだよ。自分のこと」
肩をすくめると同時に胸がすっとする。
ああなんだか、この晴天にどうにかなっているようだ。
現状はそう良い展開ではないのに、自分の心はピーカンを予報している。
さてでは始まるだろう、困難と辛い日々が。だがそれに立ち向かう役目になったのなら、こなしてみせるのも悪くない。できないことをしなかった日々を覆すために、できないことをしてみよう。
「いろいろ聞きたいことが山ほどあるぞ」
「もちろん答えるよ! あでも、寝る時間くらいはいただきたいな」
主のくせに許可を請うような上目づかいで龍王は新野を見上げる。
これがあの黒龍だとはまだ全く実感が無いが、そういうこともひとつひとつ解消していこうと思った。
先のことは全く予想できない新野だったが、ひとつだけ言えることは、この目の前の少女とは長く濃い付き合いになりそうだと、いうこと。
「あ、ちなみにさっき殴るの躊躇したの、僕オスだから構わないよ。ほら一発どうぞ!」
「え? ……オ、ス?」
もしかしたら少女ですらないかもしれない奇妙な相手との、はじまりだった。




