母なる
牙と角が激突する音が森に幾度もこだまする。
お互いに人間の枠を超えた闘いを繰り広げる狼と鹿は、頭上を巨大な影が滑っていった時同時にその剣戟を止めた。
「来たか……」
鹿の王はすっと攻撃態勢を解き、上着の土汚れを払い、胸ポケットから眼鏡を取り出しかけ直した。
その瞳からはテュラノスのしるしは消えている。
真白の鹿の王もその傍に寄り添い、ねぎらうようにいくつか傷を負った彼に鼻をすり寄せた。
そんな唐突な終わりの態度に狼王は眉をひそめ、やれやれと肩をすくめる。
「相変わらずなに考えているかさっぱりな野郎だ、お前は」
「…………」
無言で去ろうとする背に、
「おい、行く前に奴に会わないのか」
「その必要はない」
即答をする横顔は冷徹なものだった。
「……龍王のテュラノスを諦めたわけでは無い」
言い置いて鹿の王とそのテュラノスはその場を後にした。
その背中をしばらく見送っている狼王に、眷族ニ頭が走り寄る。
舌を真横に垂らし荒い息の狼たちの瞳は明るい。
「我が王よ、猪どもの掃討はあらかた完了しましたぞ」
「猪どもめ、王がそばにおらねば気勢も弱く、腰がひけておったわ。ほうほうに逃げおる者はどう致します」
「放っておけ」
狼王は二頭を見下ろしにやりと笑んだ。嬉しさに狼たちの尾が振れる。
「皆によくやったと伝えろ! 龍王が来た、森を片付けたら宴だ、急げよ!」
「おお! それならば猪の王はひとたまりもあるまい!」
「皆に伝えねばな! 狼の勝ちだと!」
跳ねるように二頭は走っていく。
「さて……」
狼王も握る双刀を消失させ、ぶらりと森を歩きはじめた。
大きな影が飛び去った方向へ。
◆◆◆
それは、美しい満月やどこまでも続く海原を見つめるような静けさを心に染み込ませる生き物だった。
茜色を背負った黒龍。
御伽でしか知らない神秘の姿。
全員が言葉も発せず、豹も狼も警戒を忘れて見上げる。
なにもかも見透かしたような双眸。
新野はそれに見下ろされるととても暖かい、ほっとするような錯覚を覚える。
流れた涙の跡に触れられた気がした。
黒い靄が新野を覆う。それは形を成し、新野の衣装へと変じた。漆黒の上下に、フードのついたコート。
新野の胸中をまさに表した姿に苦笑する。
これは新野自身が望んだ姿そのものだった。
影のように、外界を拒絶し、汚なくて残忍な暗殺者のような容貌。
「はは、は……」
乾いた笑いを、目は笑っていない嘘の笑顔が浮かべる。
新野の感覚が今までとはまるで違った。聴覚も触覚も、空気の震えや動物たちの息づかいを直に感じることができた。
音のしないテュラノスの心臓がそこにあるのもわかる。
頭上の龍とのつながりも、橙色の靄のようなもので感じる。
身体からみなぎる得体の知れない力も。
ああ自分は、人間ではなくなったのだ、と確信するには充分なくらいに。
鋭敏な感覚が、猪の王だったものの気配を伝えてくる。
そのおどろおどろしい怨嗟と、哀しみと、苦痛が伝わってくる。
なんと哀れな生き物だと。
しかしもうそれが新野の個人的な感情なのか、龍王の想いなのかは判然としない。
疑うまでもなく、獣王とそのテュラノスは共通していて、新野の望みは龍王の望みで、龍王の願いは新野の願いだった。
「可哀想に……」
うわごとのように新野は呟く。
新野は自分の記憶を龍王に渡した。
龍王はそこから、猪の王の顛末を知る。
その記憶には、猪の王を殺そうと決めた新野の苦痛がまざまざとある。
助けてあげたいという不可能な願いを、自ら滅殺し、歯を食いしばって守りたいものをひとつに絞るしかなかった新野の限界。
血のにじむようなその想いに、龍王は小さく唸る。
(休んで、いて)
新野は頭の中のその声に目を見張った。
(新野、お前も、可哀想な子)
慈悲深い声を残し、龍は飛んで行く。
猪の王のもとへと。
新野はたまらず、自らの顔を覆った。
もうなにもしなくていいと龍王は言ったのだ。
そう下された、あまりの安堵。
しかしそれは膨大な自責の念だった。
龍王は、あまりにも優しく、新野と同じく誰も傷つけたくないし助けてやりたいのだ。
なのに。
(なのに俺は龍王に全て託した)
全てを包み込む燐光と、破壊の爆音が森を一瞬包囲した。
遅れてやってきた衝撃と爆風に、全員が吹き飛ばされそうになる。
しかしすぐさま、不可視の膜が彼らを囲った。
皆ブランカの背の上でうずくまる彼を見上げた。
ほのかに橙に光る龍王のテュラノスと、その膜は共鳴を起こしていた。
「あ、ありがとう……お兄さん」
神子のためらいがちな声と、全員の注視を肌に受けながらも、新野は顔を上げなかった。
衝撃が去り、風がようやく穏やかさを取り戻した頃。
猪の王がいた場所は、半円状になにもかも、無くなっていた。王の遺骸も、森すらも消失させそこには黒龍が一頭寂しそうにうなだれていただけだった。




