朦朧の中の龍
羽音は特徴的なものだ。
現実の世界を生きていた頃には聞いたことがなかったかもしれない、燕の羽音。
耳がそれを拾って目を覚ましたようだ。
細い少女の腕に両脇をかつがれ、新野は宙をぶらぶらと揺れる自身をまず見た。
世界は半分しか映っていない。
まあ鏡など見なくとも現状は理解できる。自分の体なのだから自分でよくわかっている。
こうなると、わかっていた。
巨大な猪の突進に真っ向から立ちはだかったのだ。この身体は砕け散っている。
(わかってたからか、脳がどっか無いからなのか、結構ショック受けないもんだ)
などと呑気に思っていると視界は地に落ちる。
手を離されたらしい。乱暴粗雑極まりない、と口があったら一言文句を言ってやりたいところだったが、生憎今の新野にはそれが無理だった。うつぶせのまま、息が出来てないヨ! などと助けを求めもがくこともできなかった。
(最早生き物ですらねえな)
だがそう考える頭は本物だ。
ごろんと転がって新野は見た。
少女のびっくりした目と見つめ合う。
直後に蹴られて体がびくびくと痙攣する。
「い、今、見たでしょ!?」
いや、だからといって蹴ることは無いのではなかろうか。テュラノスといえども、人心というものが欠片でも残っていたのならば。
まあ見たけどね、可愛らしいパ○ンツをな。
「くそ、不覚! 不覚!」
少し離れたところで草っぱらを蹴り飛ばしている少女の姿はあまり見ていて楽しいものではなかった。
一息おいたあと、少女は戻ってくる。欠けた新野の視界に顔を出し、
「言ったとおり生きてたでしょ、お兄さん」
頷くこともできない。だがなんとまばたきが出来たのでひとつそれをして、肯定の意を返す。
顔の皮膚はいくらか残っているようだ、良かった、と少し安堵したところに、
「いやあそれにしてもすごい姿よ今、グロいとかそういうレベルじゃないわよ、とりあえず人体の70パーセントは欠損してるわよ」
安堵を破壊するような言葉をかけられる。
具体的に説明をし始める言葉を極力聞かないようにする。しかし少女の熱心な様子から察するに、もしかして好意から行われているのかもしれない。
猪の王を倒す方法を考えているときに思い立った疑問があった。
龍王のテュラノスなどといったモノになった自分の体についてである。
それを知ることは非常に重要だった。
その時幸運の女神かとばかりに舞い降りてきた神子によると、
「テュラノスの能力は王との距離が重要なんだけど、世界の反対側にいても確立されていることは、まず死なないってことね。人差し指のさきっちょでも残れば再生しちゃうのよ」
「指の先だけでも?! きも!!」
「もう自分のことだからね? ま、ほぼ不老不死みたいなもんよ。すごく頑丈だし。でも体が全部無くなったら、死んじゃうみたいだけど」
少女の目に陰りが入ったのでそれ以上聞き出すことは無かったが、それだけで新野はこの作戦を決行しようと思ったのだ。
そして作戦を完遂した新野の知りたいことは一つしかない。
訴えることもできないが、神子もその意思はわかっていたのだろう。
「お兄さん、ほんっとに無茶したわね」
賞賛など一番いらないと新野は思う。褒められることはしていない、侮蔑されることはした。
「私の動体視力なめないで、大丈夫、喉元からまっすぐ、猪に潜っていったわ。心臓は馬鹿でかいんだから絶対到達してるわよ! 今頃猪の王は――!」
少女の喝采を遮るように、地面がひとつ揺れた。
いやわかっていたことだ。即死などさせられない。普通の猪ですら心臓を一突きしても死ぬまで数分かかったのだ。
かすめる程度でも生き物としては致命傷だが、相手は「獣王」だ。
体を半分以上欠損しても意識のある「テュラノス」を隷属させられる生き物なのだから。
「違う、これは……!」
新野の諦観をなのか、否定した少女は力を込めて新野を引っ張り上げる。その背中に翼が広がる。
再び空を駆け、風にさらされる中細めた視界に映ったのは猪の王だった。
胸から流れた血の海でのたうち回っているように見える。
奇跡的だ。新野の決死の突きが獣王にあそこまで苦痛を与えられたとは。
しかしやはりすぐさま死んでしまうような傷ではないらしい、苦しそうに暴れるたび、周囲に地震が起きる。
「違う、これ違うわ! ナスシュ、あいつ、なんて悪趣味!」
怒りのまま少女は滑空し、その流れる景色の中新野はブランカの眩い巨体を発見した。
ブラウ、ロット、ティカの無事な姿も見て取れて今度は全力で安堵する。
「お兄さんちょっと揺れるわよ!」
少女の唐突な警告のあと、急激な旋回を何回も行われる。右に、左に、回る視界の中走るのは黒い影。
燕の翼ではない、みみずに似た形状の管、漆黒のそれから連想されるものは森で出会う影の怪物だ。
しかしヒト型だったはずなのに、と思った時地面に滑り込んだ。そのすぐ上をみみずが飛空していく。伸び切ったところで急速に戻っていった。
「神子! 無事か!」
「とうぜん!」
駆け寄ってきたのはさっきの仲間たちらしい。
一同が新野を見て息を飲む気配が遠慮なく伝わってくる。
「ニイノ!? お前大丈夫なのか、そんな……」
「うっわやばいなこれ! パイの中身みたいになってんぞ、絶対不味いけど!」
かなり非道な感想が聞こえたが激怒するにも口が無いようなのでなにも返すことができない。どうにか怒りを眼光で表現しようした。
「そんなことよりあの化け物はどうした」
ティカの冷静な声が全員に聞こえろ、と新野は願うばかりだった。そんなことより、という部分は除外して。
ブランカが鼻面にしわをよせ、毛を逆立てる。低いうなり声の先で、森の中から黒いみみずが何本も立ち上がっていく。
あれは猪の舌で見た血管に似ているが、分からなかった。
「カラスの情報はほんっと、悪いことだけ当たる! 鹿の王はいないとか外したくせに、天魔の情報は当たってるなんて!」
吐き捨てる少女は全員に振り向いた。
「猪の王はもう魔に堕ちたわ、あれは猪王の影、ナスよ」
「はあ? ナスって落ちてきた人間の影だろ?」
「だからそのナスを生む悪魔がナスシュよ。とりあえずここから逃げましょう!」
少女の一喝に押されるように行動を開始する。
ぼろきれとなった新野はブランカが優しくくわえてくれている。ぞっとするところもあるが今はそれどころではない。
それを威嚇しながら追ってくるのは木の幹ほどはあろうかという漆黒のみみず数本。
「おい神子! なんなんだよあれ!」
怒号を飛ばすロットの横でブラウがマガジンを交換している。銀色に輝く銃身をみみずに向けた時、急制動したみみずの一本がティカの足元を抉り取る。
しかしそこはさすがのクロヒョウ、強襲にも慌てず回避をする。
猪の舌よりも身軽で、はるかに速くなっていた。
「影だから重さも無いってか? 撃っても弾の無駄か、何本いるんだ!」
「猪の王はもういないわ! お兄さんによって瀕死になったところを悪魔につかまったのね」
「だから悪魔ってなんだよ!」
「いるもんはいるのよ! とにかく私たちじゃ王のナスに敵うはずない、狼王のところへ行くわよ!」
一人走っていない新野の頭はクリアな状態だった。
わさわさと集まってみみずが集合してきている。
これは逃げられるのか? 狼王が移動をしていないとして、そこに戻るまでの距離を進むうちに必ず追いつかれる。
(まただ、また)
なんとかしなければならない時が来た。
連続する慈悲の無い選択。
殺した相手をもう一度殺さなければいけない。
だがクリアな分、選択は容易だった。新野は放棄した、なにかすることを。
こんな満身創痍を超えて死体に半分足かけた奴が、どうこう出来る状況ではない。
頼りになる周囲の面々に期待して、じたばたせず静かなるお荷物と化そう、と目を閉じようとした。
その時右手の感覚が戻ってきていた。
(あれ?)
続いて左手が、
「ニイノ!」
気が付いたブランカが、顎を揺らす。
一瞬宙に浮いた新野は白い大きな背中へと乗り移った。
しかと復活した両手が振り落とされまいと毛をつかむ。
「なんで、だよ」
今全てを放棄したはずなのに。
新野は皮膚を泡立たせ、蒸気をあげながら、五体満足の体へと復元していた。
「もうなにもしたくないのに……!」
左目が修復され、視界が一気に広がる。茜色の空、夕焼けを背負って大きな影がこちらに向かってきていた。
「もう殺したくもない、死んでほしくもない! もう哀しいことなんて消えてなくなれ!」
新野はその急速に空に染みていく漆黒に向かって、哀しみの叫びを上げた。
涙でにじむ視界にそれは顕現する。
漆黒の両翼を真横に広げ、隆々たる筋肉を伸び縮みさせてその生き物は空で止まった。
たくましい四肢と長く振るわれる尾。全身濡れ光る黒の鱗に覆われ、背中から尾先までは青白い燐光を淡く放つ背鰭。
乱食いの牙の奥に真紅に染まる舌がちらつき、その上には静謐をたたえた橙色の双眸。
どんな宝石とも違う輝きを放つそれと同じ輝きで、新野の額の文様も光っていた。
やがて文様の光は消え、広がる翼のしるしが残る。
針のごとく細まった瞳孔に、主と同じ橙の双眸をした新野は、ついに対峙した王を見据えた。




