絞り出す殺意
「いた!」
ロットは白い毛並みに半分覆われた視界の中、相方の姿をすぐさま見つける。
指示が下るや否や白狼の巨体は跳躍し、その樹の根本に降り立つ。小鳥が頭上から飛び去っていく。
ひらりと降りて、ロットはブラウの頬を叩いた。
「おい起きろ!」
「痛……いったいわボケ!」
平手打ちに怒号とともに起き上がったブラウは、瞬時に辺りの様子に気がついた。
「ニイノ、あいつ……!」
「いいえ、まだ捕まってはいないようよ」
ブランカが低く鼻を鳴らしながら、ある方向で足踏みをしてみせた。その行動に二人は顔を見合わせる。
白狼と長い付き合いである彼らには言葉以上に彼女の意図がわかるようで、
「ニイノは逃げたのか?」
「いや、音がしない。猪の王が追ってないとしたら……」
「まさか、迎え撃っている?」
ブランカの愕然とする推察に二人もいきあたったのか、すぐさまブランカの示した方角へ走り出した。
並走する白い毛並みにつかまり、二人は乗り込む。背中に重みを感じたと同時に、白狼は煌びやかな体躯をしなやかに動かし、森の中を駆けた。
茂みを歩く新野の歩調は遅々としていて、少し先を行くティカが溜息をついた。
「追いつかれるぞ、龍王のテュラノス」
「うるせえ! 全速力だ!」
ひきつるふくらはぎや脱力感に襲われる全身、加えて気味の悪い痛みをときたま発する背中。
満身創痍とは今の自分にふさわしい言葉だ、と胸をはれるくらいの新野は鬱蒼とした森の中を進む。
猪の王と平行線上に歩き、大きく円を描いている状態だ。あちらが突進をしてこない限り急に襲われることはない。
「本来猪は障害物には突進しないんだ。あいつが冷静に俺達を狙ってる今なら、突進してこない……はず」
「はず」
「うるさい」
「しかしそんなもの、この森が消えたら終わりだ」
「だから、それを待ってるんだよ」
不可解そうにクロヒョウが振り返る。説明するにも非常に億劫な新野は黙る。
新野の考える方法を実践するための「場所」に向かって、彼は進んでいる。
(だけどそれだけじゃ、だめだ)
胸中は焦りで押しつぶされそうだ。
その耳に羽音が届いて、ぱっと顔を上げる。
それは新野が待ち望んでいたものだった。
◆◆◆
猪の王は林の合間合間に見える憎々しい標的の姿を見失い、歩を緩やかなものにした。
敵は、いや獲物はどこへ行った?
ぐちゃぐちゃにしてやらないと気が済まない黒い小さな猫と、少し蹴ったら折れてしまいそうな脆弱な人間。
逡巡してまた進みだす。
進みながら、巨大な鼻が地面に密着しうごめく。
どこにいようと構わない。捕まえる、捕まえて差し出して、完了だ。
わが一族の再興の鍵なのだ。
カラカミ、コモロカミ、スンダイノカミも喜ぶだろう。死海で先代の王とともに祝杯をあげるであろう。
ニンゲンなどと弱弱しい、誇りの欠片もない生き物を、捕まえるだけだ。猫は確実に殺そう。あれはいらない、もう絶対に許すことなどできない。わが一族を殺しすぎたのだから。
同胞の血が導くであろう。どこに隠れようとも匂いを追って絶対に捕まえるのだ。ツカまえて、殺して、ひきちぎって押しつぶして、完全だ。
絶対に。絶対に。絶対に。
血肉を狼王の前にさらし、一笑してやる。
ぐるぐると異常に動く眼球が唐突に動きを止めた。
猪の王の視界に黒い点が入る。
ティカは猪の王の前に飛び出し、目が合った瞬間飛び上がった。
けたたましい咆哮を上げて、猪の王はその舌で地面を削る。ティカの立っていた地はつばにまみれ、掘削機で破壊されたような姿と化した。
土の味しかしなかったのか、猪の王は血走った眼球を動かし樹上のティカを捉える。
鼻の孔を広げ咆哮をあげ、舌をひきずりながら猪の王はティカを追った。
巨大な怪物に追われ、クロヒョウは木の枝を飛び交う。
突進よりも破壊力は少ないながらも、邪魔をする樹をなぎ倒しながら猪は追ってくる。
蹂躙されていく森を背負い、クロヒョウは大きく跳んだ。
追った猪の王の視界が一気に開く。森を抜けたのだ。
森の中に大きな獣道として、巨木が途絶えた直線があった。
その直線上に真横から乱入してきたのはティカと、それを追う猪王。
木々は破壊され、爆音とともに怪物が躍り出てくる。
新野はそれを確認して、立ち上がる。短い休憩の時間は終わりだ。あとは全てをこの瞬間のため浪費する、酷使する。
逃げ場のない地面に降り立ち、ティカは新野の方へと走る。それを追い、直角に猪王も曲がる。急激なカーブに草原は粉砕され、猪の王の周囲に冗談のように吹き飛んでいく。
新野は直線上に一人立っていた。
両手にはダガーが一本。ズボンのベルトを外し、切って短くしたもので、ダガーをしっかり自分の手に巻き付けている。
まるで、両手がどうなろうともダガーが手を離れないように。
突っ込んでくる、暴走した戦車が、巨大な猪の怪物が。
罠を作るという案は、物資も時間もないから却下だ。
まず思い出したのは、仕事で知ったコト。
どう動物を殺すかということ。刺殺か、撲殺だとしたら、この巨体に撲殺は到底空想に終わる。
だとしたらこれしかない。
喉元からまっすぐ刺せば心臓だ。
刃が通るのはもう実証済み。力が無い新野にも、ならば刃に向かってきてもらえばいい。
猪の王は憎しみに没頭しティカしか見えていない。
突進してくるんだから、待ち構えているだけでいい。
あとは恐怖を捨て去る、だけ。
馬鹿な作戦だ、作戦にもなってない没案だ、と思いついた時は自嘲の笑みすら浮かべた。
しかしそれを後押しする事項が、新野の待ち望んだ者が現れた時に得てしまったのだ。
(やるしかない)
心臓が早鐘を打つ。猪の王は直線に乗った。
(ヤるしかない)
全身から血の気が失せる。猪の後ろ脚が、膨大な加速の為に地を破壊して蹴り込む。
(殺るしかない!)
一息でティカは新野の横を跳んでいき、新野の視界は猪の体毛に覆われた。
突風が全身を襲い、力を込めて開いたままの目はすぐに衝撃で潰れた。
全ての感覚が轢き殺される中、突き出した両腕への意志だけが最後まで脳裏に残る。
ティカは茂みに転がりこみ、その背後で暴風が吹き荒れる残響から体を守った。
猪の王が突進を開始した時、恐れを知らぬ若き獣ですら走る足の感覚を見失うほどに血の気が引いたものだった。
振り返りたい衝動をこらえ、全速力で駆け抜けた。
新野の真横を通り過ぎる時にも迷いは無かった。
森の中を並んで歩いた時に聞かされた、馬鹿気た作戦を新野は押し通してきたのだ。
たかが人間の瞳が、どんな屈強な者にも負けないようなそれに変じる瞬間だった。
ティカは顔を上げ、背後を確認して目を見開く。
ひらけた草原の直線だったはずのそこは、最早荒野と化していた。
地面は総じてひっくり返り、一帯茶色の景色。もうもうと立ち込めるどんな濃霧よりも濃い土煙。
ここは、いったいどんな地獄だ?
自身の四肢が震えている。さっきまでの走りに痙攣している。疲労からだろう、だが、それだけなのだろうか。
呆然と立ちすくむティカの後ろに、大きな気配を感じ。反射的に振り返る。
それは巨大な白狼だった。ここまで近くに来られていて気が付かなかったことに舌打ちする。
その狼の背から降りてきたのは見知った獣人二人だった。
ロットもブラウも、ティカを発見したことよりも、眼前に広がる光景に言葉を失っていた。
「ニイノは……どうした」
ブラウが唖然とつぶやく。問われたティカは崩壊した直線へ視線を向ける。
「まさか……」
ブランカも鼻をしきりに動かすが、混ぜ込まれた匂いがあたりには立ち込めている。
その中に新野の血の匂いもしっかりとあって、狼は沈黙した。




