真白の鹿の王
ついに両軍の王が対峙した。
眷属を何頭もやられたが、兵の数は未だ無数な猪の王。
対するは側近の狼三頭を連れた狼王。
猪の兵に囲まれた絶体絶命の雰囲気の中、狼王は開戦からの微笑みを失くさずにいた。
唸るブランカが狼王に寄り添う。
その鼻を撫でつつ、狼王は猪の王を見上げる。
猪の王はそんな狼王とは真逆に迸る殺意と興奮を抑えつけて、鼻息荒く睥睨してきた。
「おとなしく龍王のテュラノスを引き渡せ。さもなくば全軍が貴様の都を蹂躙する」
狼王は鼻で笑う。
「おいおい現状が見えていないようだな。カラカミからはじまり、コモロカミ、スンダイノカミと貴様のとこの眷属はあらかた死んだぞ。先代から受け継いだ屈強なる眷属を失い、残ったのはその足元の有象無象だ。それで俺の後ろを攻められる自信がおありか?」
「同胞の恨みは全てこの猪の王が払う!」
憤る相手の様子に、狼王は肩をすくめた。
「てんで駄目だな。これだから猪とは馬が合わない。ものも考えずに真正面からぶつかってくる、その先に大穴が開いていようともお構いなしに」
不意に狼王が手を上げると、次いでブランカが短く吠える。
その呼び声に応じて、一斉に茂みから顔を出したのは狼の群れだった。
皆一様に舌を出し息をしている。その場所は猪の王とその兵たちをさらに囲む位置。
唐突に狼たちに包囲されている事実を知った猪たちに動揺がはしる。
「そんなのだから、自分の家族が減ったことにも気が付かない。たまには後ろを見ろ、なまじ数が多いと苦労をするがな」
急展開だ。包囲されたと思っていたのは、狼たち以外だけだったのだ。
新野は鮮やかな展開の取り込み様に狼王を凝視した。
彼は常に余裕をもっている。一頭の猪に慌てふためき命からがら抜けた自分とは雲泥の違いだ。
嫉妬や羨望を感じられる領域にも入っていない。ただただ感心していた。
しかしこの展開にほっとしたら、新野は膝をついたまま立ち上がれなくなった。
疲労感に加え空腹感も実感しだす。
両足はじんじんと痛みを訴え、喉も乾いていた。
体が重い、もう動きたくない。
新野を渡せと脅迫してくる猪の王も、今や狼王しか見えていないようだ。
(今のうちに戦場を離れる)
ティカもこの場にいるのだ、なんとかして離脱しなければいけない。
だが疲れて、それ以上頭が動かない。
そんな新野の背後にいつの間にか神子が忍び寄っていた。
「ちょっとお兄さん! しっかりしてよ、今逃げるチャンスでしょ」
「それはわかってるけど、いったいどうやって行けってんだ」
「そこは……、きっと狼王が合わせてくれるわよ! 今話してるのももしかしてチャンスをくれてるんじゃない? こっそり抜けるの」
「そうかあ……?」
武装も解除して、王同士は会話を続けている。
しかし今にも火ぶたが切って落とされそうな緊張感だ。
猪の大群は少数の狼によって蹴散らされたのだろう、今や囲む狼の数は猪の王を守護する残存兵とほぼ同数に見えた。
大群を相手に勝利をおさめ、生き残った狼兵たちの強靭さを信じるべきか。
大群と戦い疲弊しきった狼兵たちの戦力を心配するか。
だが新野には狼王の敗北する姿が想像できない。
(猪の眷属もこのヒトにとっちゃおもちゃみたいだったしな。でもそれとこれとは別だ、俺が生きるか死ぬかは)
乱戦になれば先刻のように猪兵と対峙するかもしれない。
そうしたら今度こそ一突きであの世逝きだ。
新野は安全な場所に行かなければいけない。
(だがティカをどう連れていく……?)
好戦的なティカのことだ、これから起こる乱戦に参加するにきまっている。
そんな相手を無理矢理戦場外に連れていくことは難しい。
「お前テュラノスの力でなんとかならないのか?」
「お兄さん一人なら運んで飛べるけど、あの豹もなんとかしろってのは無茶な話よ。か弱い少女を頼りにしないでよ」
成人男性である新野一人を運んで飛ぶというのも、新野には想像し辛かった。一瞬少女におんぶされる自分を想像してしまって軽く目まいがする。
なんとか方法をひねり出そうとする。
「――だめだ、やっぱり戦いがはじまったらばれないように出ていくしかない。ティカは……ブランカに頼んでみよう、彼女ならティカをつかまえられ、て……え?」
神子にそう話しかけていた新野は、途中で自分の頬が地面についていることに唖然とした。
驚いて起き上がろうとしても体はびくとも動かない。
背中にわずかに圧力を感じる。その背中に、聞きなれない冷徹な声が落ちた。
「猪の王、予定通り龍王のテュラノスは確保した。私はこれで離脱させてもらう」
その声に困惑しながら、目を必死に動かして声の主を探る。
ノンフレームの眼鏡を押し上げる、男がいた。
スーツのような堅苦しい服装の彼は白い靄を従えていた。
その靄が新野に覆いかぶさっている。
男の前触れない出現に全員が目を見開いた。
「お前……」
狼王のはじめて聞く剣呑な声色に、顔も見えない新野ですらぞっとした。
おどろおどろしい気配を向けられても尚、男の表情は少しも乱れない。
「立て、龍王のテュラノス」
「え、なんで……」
命令された刹那、新野はゆらゆらと立ち上がる。自分の意識は関係なしに体が動く。
背中にはりついた靄が原因だととっさに思った。
この靄によってむりやり体を動かされていると。
このままでは男の言うとおりこの場を後にしてしまう。
しかしそれを是としない狼王、ひいてはロットとブラウまでもが男の前に立ちはだかった。
「…………」
「腕は衰えてないだろうな、鹿の王」
狼王はにやあっと喜びと怒りのまざった可笑しな笑みを浮かべる。
それに合わせて、男の後ろから幽霊を彷彿とさせる、無音でぬうっと現れる影があった。
真白で静謐を連れた、巨大な大鹿。
男は無言でまた眼鏡を直した。




