キャッチアップ・チャリオット
その空気を浴びたと同時に両の翼が総毛だった。
それくらいの衝撃を与える気配。
人間の感ではなくテュラノスの勘が警告する。
大いなる力の及ぶ危険をその身が感じる。
しかし同時に懐かしい。
「龍王……」
地上から、変貌した新野の気配を一瞬だけ感じた神子は、自分を我知らず抱きしめた。
懐かしさと苦しさから自分を守るように。
そっと細い指が鎖骨の間を撫でた。そこでは彼女のテュラノスの徴がほのかに輝いていた。
頭上で小鳥が一斉に飛び上がっていき、その男も顔を上げた。
静かなたたずまいの男だった。二十代後半の容貌は涼やかで、ノンフレームの眼鏡の奥に光る瞳がある。
眼光の奥で浮かび上がるのは槍のような痣だった。それが幾重に枝分かれしている。
顔を上げて動きを止めた男をいぶかしみ、そばにいた鹿の一頭が首をかしげる。
その頭から生える立派な角。まさに男の眼球に浮かび上がった徴はその形状だった。
つぶらな眼をくりくりと動かす鹿に、男は気づいて立ち上がる。
男は眼鏡を人差し指で上げながら、静謐な目を輝かせる。
「出てきたか、龍王」
直後男の背後から現れたのは、男の三倍はあろうかという長身の巨大鹿だった。
白毛に全身を包むその姿は美しく、頭からまるで大鷲の翼のように広がる角を持っていた。
大の男一人分以上はあろうその大角を堂々と天に向ける鹿が、男の後ろで轟然と直立する。
「では行こうか、鹿の王」
ティカを抱え荒い息を吐き出し新野は必死に走る。
流れる森の景色を並走して、次から次へと猪たちが新野たちの路線に割り込んできた。
そのたびに赤い軌跡を残して狼王の刃が閃いていく。
「走れ走れ! そして死にたくなければ俺から離れるな!」
哄笑をともないそうな陽気さで狼王が叫ぶ。
新野の左右前後を灰色の兄弟が守り、狼王を追うが、
「死ぬ…! 味方の速さに殺される!」
ティカの重量にさえ音をあげそうなのに、狼王の容赦のない速度が新野には辛すぎる。
ブラウの銃弾が発射される音に右耳は殺され、左耳からはロットの笑い声で満たされている。
「くそっ、しんどい!!」
肺から息を吐き出し無駄に叫びつつ、足を動かす。
新野の前方に突如現れた猪を瞬時に反応した狼王が斬り刻んだ。
先刻見た刀とは形を変え、双刀を両手にひっさげている。
口端を吊り上げてまた跳び、次の猪に距離をつめる。
人間離れした身軽さと速度につい視線をもっていきそうになるがそれを自制して走ることに集中する。
すると腕の中でティカがわずかに身じろぎをした。
「ティカ、起きたか?!」
声をかけた直後新野の腕をはじいて黒い獣は跳んだ。ティカは樹上に上がり、新野はそれを見上げる。
「止まるな新野! お前もついてこい!」
狼王の指示に体が一瞬すくむ。あらがえない命令に感じた。一瞥すればティカもついてきている。
ティカを離したことで幾分楽にはなったが、すぐ足が重くなる。疲労が限界をとうに超えている。
その時ふくらんだ木の根につま先がひっかかった。
(あ、やばい)
自覚した直後前に倒れこむ。しかしその新野の襟をブラウが無理矢理引き上げた。
「ニイノォ! ふんばれ馬鹿野郎!」
「あ、ありが、ありがと」
「ハハハ! 舌まわってねえ! ダイジョブかあ!?」
「お前よりはな」
既に両足に感覚はなく、なにも考えることができなくなってきていた。
とにかく走る。それしかできることがない。
ロットの大剣が猪の頭を両断し、ブラウの銃が火を噴いても、その情景がどんどん遠くに感じられていく。
地面の起伏にだけ集中した新野の視界が狭まっていく。
だから気が付くことが遅れた。
「頭を下げろ新野!」
踵を返しこちらに飛び込んできた狼王の刃が、新野の眼前に並んでいた。
「へ」
ブラウの足刀が新野の足首を払い、新野は強制的に倒れこむ。
新野の髪の毛を切り裂いて、刃が振りぬかれるが、甲高い音ともにそれは弾かれた。
狼王の攻撃が弾かれたことに驚き顔を上げた先では、髭を揺らす巨大な猪。
「スンダイノカミ! お前に用はないぞ!」
「その獣を置いて行け! 狼王!」
憎悪に濁った猪の瞳にはティカが映っている。
視線に気がついた狼王たちは眷属の意図を知り、思わず新野に目をやった。
「や、駄目だからな! 絶対だめ!」
ティカを渡すなどもってのほかの新野は盛大に首を振った。
「だそうだ。断られたな」
「許さんぞ! 息の音止めねば気が済まぬ!」
咆哮をたたきつけ、スンダイノカミは前肢を高々と振り上げた。
振り下ろしたひづめが地を割り、立っていられない地揺れを引き起こす。
膝をついた新野に影がおり、スンダイノカミの前肢がまたも振り上げられる。
踏み潰される一瞬後の未来に目をみはっていた新野のコートを、滑り込んだ獣がくわえた。
引きずられた刹那、足先で地面が踏み砕かれる。
コートを放した獣は、真白の巨大狼。
「ブランカよくやった!」
賞賛の声は頭上から聞こえた。
宙で回転を加え、狼王は直滑空をする。
大剣に変貌した赤い軌跡が、スンダイノカミの脳天から股までを断ち割る。
怒りに歪ませた表情のまま、猪はその場で完全停止した。
スンダイノカミが将であった猪兵たちは一斉に後じさる。
「すげえ……」
陶然と呟いたロットがスンダイノカミに手を触れようとしたが、ブラウがそれを制した。
彫像と化して立ちすくむスンダイノカミは、触れればおそらく分断されて倒れこむだろう。
「燕のお嬢さんがうまく誘導してくれたおかげね。みんな無事でなりよりだわ」
言ってブランカは鼻先で新野の頬を撫でた。慈母の言葉に現状を忘れ少しほっとする。
「さあここから離れましょ……」
ブランカの促しは途中で切れた。
重く響く足音とともに、地面が脈動していたから。
不吉な揺れとともに、葉が押し出され、木々の倒れる音も聞こえる。
ついにそれは姿を現した。
まるでそれは家だった。見上げて首が痛くなる。片眼にえぐられた傷跡をもった、鉛色の猪。
いや、もはや猪の枠を超えている。これは超重量級の戦車だ。
寸胴の体躯は鼻先にかけて細まり、突撃すれば進路上全てのものを貫くことだろう。
「ようやくおでましか、猪突猛進王」
臆せずことなく戦車に立ちはだかる狼王の手から、双刀が消えた。
武装を解除した彼はただのヒトに見える。
それが怪物に対峙している光景はなんとも奇妙だった。
ブランカの手をかり立ち上がった新野を、猪の王は見下ろす。
しかしすぐさまそれは狼王に移る。
荒い鼻息とともに地を這う低い声が聞こえてくる。
「ここで死ね、狼王」
シンプルで憎悪が煮え立つ言葉だった。
両者の間には静謐が降りる。
猪兵と狼兵の戦闘の音だけが森の中で際立っていた。




