激情覚醒
「やめろ!」
紙袋の口を握りこむくらいの簡単な動作で、クロヒョウの首も締まろうとしていた。
ヒトには想像力があり、幾度も動物の死を目の当たりにしてきた新野にとって、ティカの死は想像に難くなかった。
苦しむ暇もなくきゅっと締まってしまえばそれで終わりだ。
首がだらりと力をなくして口の中から舌がだらりとのびてくる。
生きている時には極限まで出てこないから、舌がこんなに長かったのかと驚くくらい。
それは気味が悪くて、死を直視させないようにしているようで、
(ティカ……!)
死んだらどう謝るのだろう、母のサラマンカに。
いやそんなことよりも。ティカが生まれた時に流した涙と可愛い漆黒の綿毛に初めて触れた時の喜びが、
全て塗りつぶされてしまう。
生きていたことなどなかったかのように。
死が全て思い出を土足で踏み荒らしていくことだろう。
それはすごく「哀しい」。
新野の額が急激に熱くなった。
全身を内側から包み込むように膨れ上がるなにか。
黒と橙の奔流が新野の皮の下を荒く駆けまわる。
それが手の先、足先から額へ一斉に集っていく。
哀しい哀しいと涙を流しながら、走ってやってくる感覚。
立ち上がった新野の額が光る。亀裂から漏れた橙の光はひし形に輝いていた。
その下に並ぶ双眸は瞳孔を針のごとく細め、普段とは違う橙の色味にナスを映す。
大気が新野に触れ怯えるように脈動し、木々が震える風にざわついた。
ナスの無数の複眼が一斉に新野に集中する。ティカを持ち上げたまま怪物の挙動は停止をした。
額一点に集中した熱が煌々と輝き、颶風をまとった新野が異様な瞳で黒のヒトガタを睥睨する。
ナスの両腕が、吊った糸が切れたかごとく唐突に力を失くしティカは地面に落ちる。
橙に揺らめく双眸はどんな獣も畏怖するような憎しみに輝いていた。
(消えろ!)
瞳は強く念じる。汚泥となった憎しみを溢れさせて。
(お前なんて、消えてしまえ! 消えろ、いらねえんだよ!)
その汚泥が口からついに出る。
「消えろっ!」
憎しみに震えた低い声が叩きつけられる。
怪物の剛腕が関節すら無視をして自らの首を絞めた。
ぎりぎりと力が加わっていき、くいこんだ爪先からナスの真っ黒な体液が染み出ていく。
ナスの巨大な口が苦渋に歪み、呪いでも吐いているように醜く動く。
その必死な表情は新野の憎しみに対抗しているようだった。
新野の瞳にそれをねじ伏せんと更に力がこ込められようとした時、
すっとその手に切先が滑り込んだ。
ナスの首がなんの抵抗もなく切り離されて、新野の足元に落ちた。転々と地を転がり、視界から消えていく。
首を失った胴体が奇妙にそのまま立ちすくんでいる。
切り落とした刃を手元に返す姿をみとめて、新野の肩の力が落ちていった。
「狼王……」
赤い柄の刀をぞんざいに回す彼がいた。
「ニイノ!」
唐突に自分の体を支える手が出てきた。ブラウだった。ロットもいる。
皆一様にこわばった表情をしている。
新野はまず寒さを感じた。体から力が抜け、忘れていた疲労感がまいもどってくる。
額に手をやってもなんの変化もないが、先刻までの熱はたしかに覚えていた。
ブラウに支えられながら呆然とする。
「お、俺、本当に……」
手を見る。震えていた。
実感はじわじわと自分を責める。哀しみに支配された直後の自分の変化をまざまざと思い出そうとする。
それを狼王が制した。
「それは後だ。テュラノスの気配は目立ちすぎる。まずはこの囲いから抜けなきゃいかん」
狼王は少し上向いて周囲を見回す。動物が高鼻で探っているような仕草だった。
「ブランカたちが穴をあけてくれてるぞ。お前らはそっちへ走れ」
「お前らは? おっさんはどうすんだよ」
とげとげしいブラウの言葉を狼王は鼻で笑った。
「決まってんだろ、猪王とダンスのお約束を済ませに行ってくるさ」
言ってふざけて軽く小躍りする様にブラウは余計に顔を歪ませ、ロットは逆に目を輝かせた。
「俺もそっちの方が合ってるな」
「お、来るか?」
「エスコートしてくれよ!」
「誰がお前みたいなガキと踊るかってんだ」
状況をわかっていないのか、と疑いたくなるくらいの陽気さで二人は笑い出す。
それにぽかんとしているとブラウは盛大に溜息をついていた。
「行くぞニイノ、動けるか」
「ってちょっと、まじで別行動? このヒトたちだいじょーぶなわけ?」
どうみても大丈夫じゃなさそうな二人を指さす。
猪の兵に囲まれた薄闇の森の中、二人だけで戦うなど絶望しか新野には感じられなかった。
「お前この馬鹿二人を心配してるのか? それとも俺だけじゃお前の子守はつとまらないってか? どっちだ」
「どっちでもねえよ! いや、どっちでもあるよ! 全員で逃げる、それが一番安全だろ」
「なんだよそれオモシロクないー」
「オモシロクないなー」
「ちょっとあんたたちは黙ってて!」
ふざけた二人を一蹴した新野は気を失っているティカを抱え込みながら、
「俺は、さっきみたいな――なんか変な感じになる自信はない!」
「断言した……かっこわりい」
「だからブラウを守れないし、ティカを運ぶのも途中でくじけるかもしれない。でも俺は死にたくないから誰かに守ってもらわないとなんだよ! どうだ、これを二人だけでやれってか!」
「そこで自信満々になるなよ……」
胸をはるもティカを担いでよろめく新野は、確かに守らないと簡単に死にそうな気配を持っていた。
新野の背中を支えながら、ブラウはこめかみをおさえる。
しかしもめている暇などありはしない。
全方位で木々が揺れ、進撃してくる力強い足音が迫ってきていた。
「よし、わかった」
凛と声を張ったのはやはり場を取り仕切る王のものだった。
「では各自、好きにやるってことで!」
その王の一番無責任な決定に、新野は目を丸くする。
サムズアップまで添えて、爽やかな笑顔とともに放たれた言葉に、新野の中でヒビが入る音がした。
それは狼王への畏怖とかそういう類の感情。
「あんた話聞いてたか、おっさん!」
全力で突っ込んだその怒号は、猪たちの咆哮によってかき消されていた。




