不解
絶体絶命だと自覚して、呼吸もおかしな音になる。
武器はなく、新野を簡単に踏み潰せる巨体が眼前に迫っていた。
もったいぶったようにゆっくりと近寄ってくる猪のひづめが鋼鉄のそれのようで恐ろしい。
頭はどうこの窮地を乗り切るべきかフル回転しているようで、答えが出ることはないとどこかで諦めているようにも感じる。
混乱だ。冷静さなど欠片もない。
まばたきを忘れた必死な視線があたりを揺れながら見回す。
そこに、ことり、と落ちてきたのはダガーだった。
(?!)
どこから落ちてきたのか一体なにがどうしたのか、そんな疑問は一瞬だけだった。
体が動く。のびた手がダガーの柄をしっかり握った。
心の中では絶叫を上げていた。全力で立ち上がり、踏み込み、猪に真正面から突っ込んだ。
腰あたりに構えたダガーを両手で突き出す。
もう逃げられない。
殺される前に、
(頼むから――、 んでくれ!!)
身を固めた猪の鼻面から横に外れ、ダガーの切先は厚い皮膚に弾かれた。
切れ味は悪くない、皮一枚はうっすら切れている。それでも突き出した時のバランスのとれていない体は最悪だった。渾身の一撃はものの見事に外れ、前のめりの新野は猪へと倒れこんでしまった。
剛毛が新野の肌に触れ、新野の頭はさらに混乱に喫した。
自分の馬鹿さ加減に怒りと絶望が駆け抜ける。
慌てたまま猪を押し、不恰好に立ち上がろうとして、
「わあっ、あ………………あ?」
猪がふらついて後じさりしていた。自分の目と頭を疑い、思考が働かない新野の前で、猪はゆっくりと膝をつきそのまま横倒しになった。
倒れたことで、その猪の腹部がばっさりと斬られているのが見えた。よくよく見れば猪の進んだ草腹には血の川ができていた。
新野を襲う前から、この猪は重傷を負っていたのだ。
その事実がわかっても、目を見開いたまま動かない新野の頭上からくすくすと笑いが落ちてきた。
声をたどれば、樹上でクロヒョウが尾を揺らしている。
「お前……」
そうか、と合点がいく。この猪の傷はティカが負わせたものだ。
降りてきたティカは新野を見下ろしながら周りを歩き始める。
「気分はどうだ、ニイノ」
「なに……?」
含み笑いをしながらティカの眼は細まっていく。
「仲間を危険にさらしたあげく、自分の身も満足に守れず、助けようとした相手に逆に助けられる、その気分さ。俺にはわからないからね」
腹立だしいが、図星でぐうの音も出ない。黙り込むも新野はティカをにらみつける。
「ダガーもお前が落としたのか? なぜ」
「弱いニイノにも、動物を殺せると教えてやろうと思って。お優しいお前のことだから、殺すくらいなら殺されるほうがいいって選択もあるかもと思ったが、違ったな」
たしかにそうだ。ダガーを手に入れた時迷わず殺しにいった。
(そうだ、俺は思った。頼むから、死んでくれって)
「だけど、勘違いするなよ。俺は……」
新野は苦痛に顔を歪めた。
「俺はなあ……、殺したくないんじゃない! 死んでほしく、ないんだよ!!」
すぐそばで絶命している猪が視界のすみにいた。
怒りが漏れて、新野は拳をきつく握り締める。
その姿にティカは面白くなさそうに息をついた。
「そんな意見が通る世界だと思ってるところが、甘いんだよ」
「なに?」
「くだらない思想を相手にも強制させたいのなら、強くなってから言うんだな。龍王のテュラノスとかいうものらしいが、宝の持ち腐れだよ。実際のところ怪しいが」
「そんなのは俺が一番思ってるよ……!」
「なら尚更だ。ニイノが本当に龍王のテュラノスだとしたら、その思想を言ってまわればいい。でもお前が今のままの雑魚なら、俺が殺してやろう」
「なに言ってんだ、お前……」
クロヒョウは新野の真横で足を止める。
静かになった空気が重い。
「土壇場で、隠れた力ってやつが発揮されるかもしれないな」
冷え冷えとした口調の中にわずかに愉快さが含まれている。
「ほ、本気か?」
狼狽した問いに、獣は答えない。
一足で新野の喉笛に牙が届く距離だ。
殺されるとしたら、一瞬のことだろう。
(距離を、とらなければ)
わかっていても体は動かなかった。猪から逃げ、対峙しただけで新野は疲労困憊になっていた。
「今の状況わかってんのか!? 猪との戦争の真っ最中だぞ」
「ああ。ここらは完全に包囲されているぞ。俺にもお前にも、どのみち逃げ場はない」
落ち着いた返答に逆に新野が息をのんだ。囲まれている、逃げられない。
「どうする気なんだ」
「お前たちを囮にして逃げるかな」
本気で言っているのか皆目見当がつかない発言だ。獣の視線は外れず、新野が少しでも動いたら襲ってきそうな不穏な気配をまとっている。
蛇に睨まれた蛙と同じ心境な新野は動けない。
息のつまる数秒が流れた。
不意にティカが真横に顔をそむけた。新野の背後へと。
新野はとっさに土へと手をのばし握りこんだ、目くらましにもならないかもしれないが、いちかばちかとティカに投げつけようとした時、
自分の真後ろにぼうっと立つ真っ黒な影に気が付く。
「!」
音も存在感もない。
つい先日会ったはずだが、天災並に出会いに驚愕する者。
「ナス!」
多大な恐怖に体が弾けた。脱兎のごとく新野は体の疲れも忘れ走り出した。
その背中に短い悲鳴が届く。ティカだった。
「ティカ……!」
黒い影に殺されるクロヒョウの姿を絶望がイメージした。振り向き、地面でもがいているティカに手を伸ばす。
抱えてどこまで逃げ切れるか。成獣と化したティカは大の男一人よりも重いだろう。
黒の柔らかな毛並みに手がつく前に、ティカは飛び上がって新野に覆いかぶさった。
地面にしたたかに背を打ち、胸にティカの体重を感じる。
肋骨がきしみ、数秒の呼吸困難。
ティカはナスに襲われたフリをしたのだ。新野をこうして追い詰めるために。
ナスのことなどお構いなしのティカが赤い口腔を大きく開く。眼前にそれが迫って新野はぎゅっと目をつぶる。
しかし次にきたのは痛みでなく、胸の解放感だった。
目を開いた新野は、見えた視界に叫ぶ。
「やめろ!」
ナスの漆黒の腕がクロヒョウの首をがっちりと絞めていた。
首を持たれ、宙に浮いたティカがつぶれた苦鳴をもらす。
そのもがく様子がさっきのような虚偽のものとは思えない。
ティカが殺される!




