騒然
「ちょっとあいつら、なにしてんのよ!」
上空で大きな翼をたくみに操り、神子は怒鳴っていた。
原因は予定外の行動を起こした新野たちである。
急停止し、その藍黒色の翼を広げた。
「ツバクラメ、行って!」
彼女の号令とともに、翼から二羽、藍色の光が飛び出していく。それは燕の輪郭となり、滑空して一方は狼王のもとへ知らせに、一方は新野のもとへ止めに行った。
再び旋回を始めた彼女に、奇妙な声がかかる。
「十二時より接近」
無機質な報告は翼から発せられ、神子は従いその方角を見た。
真正面から飛んできたのは、漆黒の二羽。すぐさま彼女に並び飛ぶその二羽に驚きの声をあげる。
「フギン、ムニン! あんたたちなにしに来たのよ!」
少女とほぼ同じ大きさをした大鴉が二羽、笑いだすのと怒りだすのと。
「お嬢ったらまた好き勝手に動くんだもん、龍王のファンだからってさあ!」
「シェンツよ、てめえヌシ様に報告もしないでなにしてやがる。勝手に戦争に参加なんぞ、ヌシ様の意向と相違があったら困るだろう!」
「うるさいなあ! あんたたち私を迎えにきたわけじゃないんでしょう!? さっさと用件すませて消えなさい!」
とたん怒り口調のカラスのほうが神子にぶつかる寸前まで近寄る。
「おうおう、それが我らがカラスの王、シルバースポット様の大眷属フギンとムニンへの言葉かい? 飛燕の王のテュラノス様よう!」
「お嬢、王と離れてるあんたにはこの戦い分が悪いよ。さっさと帰ってきなよ~」
「余計なお世話よ!」
急旋回してカラスの上にまわり、神子は声を張った。
「私は龍王に借りがあるの! このまま龍王のテュラノスが殺されるのを許すわけにはいかないのよ! だから帰らないし、逃げもしないわ!」
翼をはためかせ、カラスは神子の左右に再び並ぶ。
「やれやれお嬢が強情なのは知ってたけど、でも本当に今回はやばいよ? 猪と狼の小競り合いで済まないんだよ」
「鹿の王がいるんでしょ?」
「そいつはナワバリから離れていなかった、今回は参戦してない。けどこの軍勢に七大天魔がいやがるらしいぞ」
「うそ?!」
「黒いカラスはウソをつかないもんだ。邪龍王に組する悪魔どもの中でもトップクラスに厄介なやろうたちだ、ザルドゥは鼠の王のナワバリだった頃から「虚偽」の天魔ドゥルジに狙われてたって話もある。としたらその配下、ナスシュあたりだろうな。ここらの森にはナスがうようよいやがるから。本当に面倒な話だ!」
「だからお嬢、無理せず戻ってきなって。狼王なら天魔にも対抗できるよ」
「で、でも新野が……」
天魔と戦えるというなら、なるほど狼王くらいしかこの場にはいないだろう。自らの王と距離がある神子は実力の半分も出せない。自身のふがいなさを感じつつも、少女の胸にしこりを与えるのは、いまだ猪の軍勢に突き進んでいる龍王のテュラノスの存在だった。
「私がテュラノスになりたてだった時、龍王のおかげで何度も生き延びたわ。なのに……」
飛ぶこともままならない雛の自分はもういない、しかし立派な翼を持っていることも知らない龍の雛はではどうなるというのだろう。
想像した。猪の王に、もしくは残虐な天魔の手にかかる龍王のテュラノスの姿を。
神子はそのイメージを捨て去るために強く頭を横に振った。
「やっぱりだめ! フギン、ムニン! あんたたち龍王を探してきなさい!」
「はあ!? 急になに言ってやがる!」
「新野がもし殺されたら、一番悲しむのは龍王にきまってるわ! あのヒト知らないのよ、新野が戦いの渦中にいるって、知ってたら飛んでくるもの。テュラノスを失って、悲しんで後悔してほしくない。探して、伝えるのよ!」
凛と命令してくる彼女の強い瞳の前で、二羽の鳥は狼狽する。それに向かって、神子は大きく羽を風に打ち付けた。衝撃が突風となって二羽を襲い、フギンとムニンはあわてて必死に風に乗った。
「わかった、わかったから! 行くよ行く行く!」
「ただしヌシ様に報告してからだぞ!」
「いいわ! さあ、行きなさい!」
もう一度燕の翼が打ち付けてくる前に、二羽はその場を急上昇して去っていく。
「どうか、間に合え……」
それを見送りながら、少女は空に呟いた。
慎重に森の中を進み距離をつめていた新野たちが、どれだけ深くまで入り込んだのかわからなくなった頃、突然に猪は目の前に現れた。
茂みからそっと顔を出した新野の眼前に黒い双眸が並んでいた。
「うわあ!」
間抜けな声をあげて茂みから転げ出た新野の背中をロットが飛び越える。
新野の出現に目を丸くしていた猪の目線がロットを呆然と追う。
「邪魔するぜ、ノロマ」
振り下ろした大剣が猪の脳天を割り、眼球を噴出させその体は地に沈んだ。
その向こうにたむろしていた猪たちが皆仰天して振り返る。
全く予想だにしていなかったところからの奇襲に猪たちは反撃が遅れた。
躊躇なく飛び出したロットが今しがた潰した猪の頭を踏み込み、宙に跳ぶ。
そのまま宙で前転、勢いをのせた大剣を振りぬく。一番近くにいた猪の背中を襲い、着地した流れのまま二頭をつづけざまに断ち斬る。
口元を意識なくにやつかせたまま、ロットが軽やかに舞っていく。
奇襲の衝撃が薄れ、周囲を猪たちが取り囲みはじめた時、ブラウは舌打ちした。
「あんの馬鹿、目的忘れてやがる。ニイノ! ティカも近くにいるはずだ、探せ!」
「お、おう!」
確実にティカの後を追ったのだ、新野たちと猪の遭遇が奇襲として成立したということは、ティカはいまだ猪を襲っていなかったといっえる。
とすれば、ティカの狙いは奇襲ではない。
(じゃあ、なんだってんだ?)
思考する新野に影が下りる。猪の巨大なひづめが視界に入る。
顔面をぐちゃぐちゃに踏み潰される直前、そのひづめをブラウの剣が弾いた。
前肢を上げられ、傾いだ体を一気に袈裟斬りにする。どっと倒れた猪との間に入りブラウが怒鳴りつけてくる。
「集中!」
「す、すいません!!」
青年に本気で謝る二十五歳は目を皿にして周囲をうかがう。押し寄せる猪たちの猛攻の騒ぎを無理矢理気にしないようにして、回る視線に黒い影が映った。
一瞬クロヒョウの欠片と思って見直したが、それはもっと小さく速いものだった。藍色の空飛ぶ光が新野に迫る。
近づくと燕の輪郭をした光であり、新野の肩に降り立つ。
「神子の燕か! 伝達だ!」
猪の突進を刃で受け流し、横っ腹を蹴り上げながらブラウが叫ぶ。
「アンタタチノゼンポウスグ、イノシシノケンゾクアリ。チュウイ! チュウイ! キョウテキ、ソッコクニゲヨ!」
小さな翼を振りながら燕はおかしな声で騒ぎ立てる。
戦闘の喧騒の中でもひときわ目立つそのアラームに怖気を通り越して笑いそうになった。
その時視界の奥で樹上のティカを発見した。
「いた!」
燕の忠告も忘れ、目をみはる。
葉影から身を乗り出し太い枝に立つ獣、その漆黒の姿に猪は顔を上げた。
鼻の上に生えた髭が特徴的な眷属、スンダイノカミが警戒の鳴き声をあげる。
「なにか紛れ込んでいるぞ!」
多くの猪兵たちがその樹上を見上げ、樹に近い猪が怒号とともに頭突きを浴びせる。
大きくしなった樹からバランスを崩し、黒い獣は地面に落ちた。
わっとその獣に猪の牙が集まり、鮮血が噴水のごとくその場に散る。
スンダイノカミはもちろん、猪兵たちはそれを一瞬にして命を失った哀れな獣のものだと思った。
が、集まった猪たちが皆一様に頭から地面に伏し、そのまま起き上がらないこと。そしてその中心でゆったりと立ち上がった黒い影がいたことに一瞬驚愕の静謐がその場を支配した。
仲間をやられたことに憤慨した猪が咆哮を上げて標的に突進する。
黒の獣は這うほどに姿勢を低くし、今まさに絶命したばかりの猪の死体を頭でもって持ち上げた。
猪兵はかつての仲間だったものに渾身の突撃をかまし、直後混乱に陥る。
その衝撃を緩和してくれた死体の影から黒い風となって獣は猪兵の横をすり抜ける。刹那、猪兵の横腹が大きく裂け、噴血を上げてどっと倒れた。
「同胞を盾に!?」
獣の憎々しくも鮮やかな防御方法に誰かが驚き、また猪兵が突撃に走る。しなやかな動きでもってそれを獣は軽々とかわし、飛び越え一直線にスンダイノカミめがけ跳びかかった。
スンダイノカミを囲む兵はおよそ一頭が立ち向かって逃れられる数ではない。
一目でそうわかるはずのこの状況で、獣は迷いなく死地へ走ってきた。
あまりにも無駄のないその動きに、猪兵たちは反応ができない。獣の両前肢の鋭利な爪が眷属を襲う直前、群れから飛び上がった一頭が獣と宙で交差した。
スンダイノカミの前に着地したのは小型で足の長い猪。
「ダヤク!」
「スンダイノカミ様ぁ! 油断しちゃダメですよ~!」
妙に可愛げのある声でその小型の猪は眷属に忠告する。
対峙する獣も着地し、その漆黒の優美な体をさらした。
無数の猪兵たちに囲まれてなお焦りも見せないクロヒョウをダヤクは鼻息荒く睨みつける。
「狼でもないし、こんなやつの首をとっても手柄にはならなそうだけどお」
深く息を吐き、ぴんと短い尾を起立させ、ダヤクは土を掻く。
「生意気だから殺しちゃっていいですよねえ?!」
残忍で愉快気な声色に対するクロヒョウはふっと笑みを返した。それをきっかけにダヤクが飛び出す。
猪兵の突撃よりも鋭い飛び出し。クロヒョウは樹上に上がるため飛び上がるが、その長い尾の先をダヤクのかっと開いた口が捉えた。
「つかまえたあ!」
猪の双眸が狂喜にらんらんと輝く。しかし次の瞬間にはそれは見開かれた。
尾が捕まった豹は素晴らしい体幹でもって尾を軸としてダヤクの顔面めがけて落下してきた。
捕えられたところから跳ね返ってきた豹の四肢を避けられるわけもなく、猪はしたたかに蹴りつけられ悲鳴を上げた。
目を傷つけられよろめく猪の束縛から逃れた豹は着地と同時に地を蹴りダヤクの喉笛に噛みつく。
猪の甲高い苦鳴がその場に響き、周囲の兵たちの足を凍り付かせる。
痙攣する猪の体をくわえたまま、クロヒョウは樹上に飛び乗った。
枝に伏せ、ダヤクの遺骸から口を離す。そして悠然と猪の群れを見下ろした。
小型といえど一回りは自分より大きい動物を窒息死させ樹上に運んでみせたその獣に、スンダイノカミが一歩巨体を近づける。
その体は怒気に包まれていた。
一部始終を見ていた新野は言葉を失っていた。
「やるなああいつ!」
ロットが賞賛を浴びせていた。
たしかに強い。豹は自然界においてさほど強い動物とは言えない、しかもティカは動物園生まれだ。
それがいったいどういうことだ、あの強さは。
ティカの驚くべき実力と豪胆さを目で見て、新野はもはや呆然とするしかなかった。
幼かったあのクロヒョウはいないのだと感じた。
今は猪の王の眷属と相対している、頼もしい黒豹へと成長していた。