開戦
猪の王の咆哮を皮切りに、軍勢が大音量の咆哮の渦となる。
その声だけでも森を覆いつくすほどの数がいるように思えた。
鼓膜が悲鳴を上げるほどの大騒ぎだ。
その気迫を受けて、狼たちも興奮しきっていく。
前脚で地をかき、鼻面にしわを寄せ皆唸り、短く威嚇の声を出していく。
今にも両者飛び出して突進しあいそうな雰囲気である。暴発寸前だ。
しかし狼王が微動だにしないので狼の群れはまだ統率がとれその場にとどまっている。
猪の軍勢は止まらない。沢に入り、水面が猪の行軍で見えないほど。
新野たちがいる大木の地は少し小高く、沢を下る者を一望できる。迎え撃つには絶好の場所といっていい。
明らかに攻め込む側が不利なのだ、この首都は。だが猪の軍勢に迷いは見えない。余裕でいていいはず側の新野も、今までに体験したことのない空気に胸がつまっていた。
これから多くの獣が死ぬのだろう。
両者ともにそれに恐れるふうはない。隣のクロヒョウも、全く物怖じした様子がない。
新野などは息をしてまっすぐ立つだけでも大変な有様だというのに。
「ティカ、よせよ」
声を出すのも辛かった。しかし止めずにはいられない。
ティカは無反応でじっと前を見つめている。振り絞った声などこの騒ぎの中では届きようもなかったのか。
先頭の方からブラウとロットが戻ってきた。
二人も開戦前の興奮に目を輝かせている。抜き身の大剣を背負うロットなどは新野が声をかけられないような顔をしている。ポークマンの一件でもそうだが、こういう時の彼は抑えきれないように口元がゆるんでいるのだ。
「俺達は始まっても待機だそうだ!」
ブラウが掻き消されないようにと声を張った。新野にとってはほっとする言葉だ。
「あくまでも狼が迎え撃つ腹らしい」
「まあこの数の差だぜ? 取りこぼしがここにも来るにきまってる、最後の砦として十分ヤれる!」
ロットの言葉は自分に言い聞かせているのだろう。
「神子は?」
「上だ」
上空を見上げる。雨が降りそうな曇天だ。昨夜の天気予報は大外れといっていい。
「上?」
「そりゃ燕だからな」
少女が飛んでいるのか、と思い至って一瞬混乱しかけた。だが飲み込む。どう飛んでいるのかなど想像もできないし余裕もない、今すぐにでも始まりそうな展開の中混乱していたら危険どころの話ではない。
「ニイノ、隠れてろよ」
「そうしたいのはやまやまだがな、お前たちの近くのほうが安全そう! それに離れてる場合じゃないんでな」
自分を鼓舞しようと無理矢理笑おうとしたが、ぎこちなく頬がひきつるだけだった。ここで一人さがったら、ティカの安否もわからなくなる。新野にはどうするかなにも策は無かった。
「だからってそのままじゃ無謀だろ」
唐突にブラウは青紺のコートを脱いで新野に放った。受け取ったそれは見た目よりも重く固い。
「特別製だ、ちょっとやそっとじゃ外も中も切れないぜ。それ着て俺たちの近くで逃げてろ」
「わ、わかった」
着てみると腰あたりに固い感触がある。手をまわしそれを取り出した。
映画でしかみたことのない、拳銃のごつごつしたグリップが新野の手に握られる。
「おまえ! こんなもんまで持ってんのか!」
「当然だろ。撃ち方わかるか?」
「い、いらない!」
コートの重さの大部分をしめていたそれを新野はブラウに突き返した。
「お前が持ってたほうが絶対いい! そんなの撃てるわけがないだろ」
「手ぶらってわけにいくか」
がんとして受け取らないブラウを前に新野は苦しまぎれに彼の太ももに差してあるものを指さした。
「じゃ、じゃあそれくれ」
ホルダーに差さる無骨な柄を、ブラウは引き抜く。厚い直刀で手のひらの長さはあるダガーだった。その率直とした刃に若干後悔をしつつ、銃とそれを無理矢理交換する。
「知らねえぞ」
ブラウは拳銃を腰にねじこむ。新野はコートの左胸のホルダーにおっかなびっくりダガーを入れた。
「似合ってねえなあ」
ロットの笑いにも全力で同意する。唯一の武器を抜く自分すら想像できない。気づくとティカが目だけをこちらに向けていた。目が合うとあからさまな嘲笑を受ける。
「そろそろ始まるな」
ブラウの声にはっと顔を上げた。猪の咆哮は止まない。
沢の中で猪の先頭が止まり、軍勢はその足踏みを一時中断した。その距離はもはやお互い正面に敵をとらえられるほど。
威風堂々とした体躯の猪の王が一歩踏み出す。周りを取り囲む部下たちが大海が割れるように王の道を作った。
頭から背中にかけて立つたてがみに、口の真横から突き出す巨大な牙。
轟然とこちらを見上げてくる。殺気が風をなぶりイエロウとジャイアントは体毛を二倍に膨らませ歯をむいた。
静寂が森を包んだ。
猪の王と狼王が見つめあう。片方はおさえきれない殺意と闘志を当ててくる。片方はそれを受け止め余裕気に微笑む。
開戦だ。
猪の王の甲高い一声に先頭の一団が飛び出した。行軍の速度とはけた違いの突進。
狼王に寄り添う三頭の狼も同じくして走り出した。
それをみとめて、狼王は背後を振り返った。荒くれ者ぞろいの狼たちの視線を一身に受ける。
「暴れろ!」
そうかかった一声に、狼たちは喜びいさんで四肢に力をためた。一頭が興奮の極みで天空に遠吠えを放つ。それに周りがどんとんと続いて、やがて大合唱となった。
その開戦の序曲を背に、狼王は赤い刀を握って地を蹴った。
真白の四肢で駆けブランカは斜面をかけ下りる。前方から厚い壁となって猪たちが突進してくる。
勢いを殺さず跳び、宙で身を反転してその猪の背中に思い切り着地する。
爪が肉をとらええぐり、熱い血潮を腕にあび、とどめとともにまた跳ぶ。
一瞬の上空から見えたのは地面を覆う猪たちの群れ。
また一頭に飛び降り踏み潰し、横から怒声とともに突き出された牙を前脚で払いのける。体勢を崩した猪の首を上から牙をたてる。肉厚な筋肉を噛み破り、力任せに放り投げた。
仲間の死骸とともにどっと倒れた何頭かとは逆の方へ強力無慈悲な爪を振り上げる。
切先に肉を裂く感触をたしかに受けながら、周りを睥睨する狼の眼は狂気に包まれていた。
自らの激しい呼吸と猪たちの動きをとらえて視界が旋回する。
途中黄色と闇色の仲間が上と下に分かれて猪たちを倒していくさまが見えた。
一角から猪の巨体が宙に放られる。ボールのように投げ出されていく猪たち。ブランカはその方角へと向かい駆けた。進路を阻む敵を力任せに蹴散らしていく。
向かってくる猪どもを次々と斬り上げているのはやはり狼王だった。
それに並ぼうと力をためたブランカに影がおりる。
ブランカが見上げるほどの巨体を有した赤茶色の猪。鼻のまわりの白いひげに紛れて異様な牙を何本も生やしたその獣はくぼんだ瞳でブランカを見下ろした。
「コモロカミ!」
カラカミに並ぶ眷属にブランカは背中を逆立てた。
名を呼ばれた猪は突進を行う。ひらりとそれをかわし着地したところで方向転換した猪がまた突撃をしてくる。
ブランカが避けたところにいた猪兵がその突進に吹き飛ばされた。
コモロカミは平然とまた突撃の姿勢。頭を下げて後肢をつっぱねる。
この突撃は止められない、触れれば最期はじかれた衝撃で体はずたずただ。
間隙を狙うブランカは目を丸くした。
コモロカミが飛び出した直後地に倒れ、
「こいつ!」
そのまま転がってきた。方向転換の隙は消え、ブランカを執拗に追ってくる。跳んでは着地した瞬間に轢き殺される。周りの猪の隙間をぬってブランカは走った。姿勢を低く、地を這う白い狼の後ろを巨大な岩にも似た猪が転がってくる。
避けられなかった猪兵を多く巻き込み通過した後に生きた者はいない。
ブランカは目の端にとらえた者のもとに一直線に走る。
真白の狼が正面から走ってくるのを狼王は刀を振りかぶって待ち構えた。
野球のバッターのごとく構える。
刀が突然赤いもやに包まれ、それが払われると姿を変えて狼王の手の中にいた。シトスツは狼王の牙だ、王の意思のまま自由に姿を変える。敵を駆逐するという目的のもと。
狼王の真横をブランカが駆け抜ける。大質量をもって迫ってくるコモロカミ。
それが彼を轢き潰す直前、巨大な大剣へと変貌した牙を狼王は振りぬいた。摩擦に火花が散ったのは一瞬。
ぐん、と狼王の腕がのびきった時には、コモロカミははるか上空へ飛ばされていた。
目の上にひさしを作り、それを楽しそうに見送る狼王にブランカ、イエロウジャイアントが並ぶ。
眷属を一撃のもとに倒され、地を埋める猪の死骸たちに立つ残りの兵は一様に後ずさりした。
狼王たちが飛び出していった斜面とは違う方向に狼の群れは去って行った。
猪の先頭の一団は狼王たちによって蹂躙されたが、その後ろに控える敵の軍勢は果てしない。
狼王の猛撃をすり抜け都市をめざし駆けてきた猪数頭が倒れている横で、新野は呆然と立ちつくす。
ロットは大剣の露を猪の死骸で拭き取り、新野と同じ光景を見て舌打ちした。
「あっちは楽しそうだなあ」
「行けばいいだろ」
「うーん」
呑気な二人の声も新野には遠く感じられた。
いったい何頭の獣たちがここで死ぬのだろう。戦いの興奮に痛みを感じているような悲鳴は聞こえない。しかし絶命していく猪たちの眼は見開かれていて、新野の顔を歪ませた。
「こんなとこで死んで、いいのかよ……」
ティカが横目で新野を見る。
その尾がゆらりと揺れた。おもむろに視界に入ってきたティカを見て新野は嫌な予感がした。
刹那、クロヒョウは四肢をたわめ宙を跳んだ。
「ティカ!」
制止の声など全く意に介さずクロヒョウは森へ降りていく。
岩肌の斜面を跳んで降りていくティカを新野は追いかけた。
「ニイノ!? 止まれ!」
ブラウの声が背中にかかる。しかし豹は距離を離していく。こちらも走らなければ森の中ですぐ見失うだろう、返事をしている暇はない。
ティカが森に入るのに一拍遅れて新野も新緑の影に入り込んだ。
上から見た時は、このまま進めば狼王たちと戦闘を開始した猪の第二陣を横から突く形になる。
第二陣には猪の王もいるはずだ。
狼の群れは新野たちとは真逆から攻め込むためまわりこんでいる。ティカが狙っているのかどうかわからないが挟撃を与える図となった。
といっても新野は戦場に赴く覚悟などない。茂みに邪魔されながらもやや速度を緩めたティカを必死に追いかける。
その漆黒の体を茂みに潜ませるティカが急に止まり新野に振り向いた。
「ティカ!」
豹は小さく唸る。
「うるさく走るのはいいが、ちょっと離れてくれないか? 俺まで見つかる」
新野は慌ててしゃがみこみ、ティカと一緒に茂みに隠れた。
「今すぐ戻れ、怪物同士の戦いにお前が行ったって死ぬだけだ」
「警察に連れていかれるよりはいいってお前も言っていたよな?」
「あれはあの時の状況で……。ティカ、いったいなに考えてるんだ」
豹は器用に口端を上げた。笑っているようだ。
そして急に新野の喉笛向かって牙をかける!
とっさに身を引き、新野は仰向けに倒れた。葉の揺れる音がしてすぐさま体を起こすが、クロヒョウは樹上に登り続く林を跳び抜けていってしまった。
避けることができなければ確実に噛み千切られていただろう。冷ややかな恐怖が全身をすくませていた。
「ニイノ」
後方から呼ばれて、ついで腕を持ち上げられる。ブラウとロットだった。
「あいつは?」
「行っちまった」
悄然とする新野の肩を遠慮なくブラウは叩く。
「呆けてる場合かよ、どうするんだ」
こんな状況でも新野の意思を聞いてくれる彼に驚きつつ、新野は自然と答えていた。
「追う」
「追って、それで?」
「あいつを、ティカを死なせたくない! なにもできないかもしれないけど、死ぬのは俺かもってわかってるけど、二人とも、頼む!」
「いいねえ」
ロットは好戦的な笑みを浮かべた。背中から大剣を抜く。
「行こうぜブラウ」
「……馬鹿だな、ニイノ。俺も、そう言えないけどな」
ブラウも頷き、片刃の剣を抜いた。
ティカが消えた方へ二人が先行する。その背中についていきながら、新野は森を見据えた。
猪の雄叫びが近い。