白い龍と黒い龍
109の最上階からひとつ下の階で、新野はクロヒョウに声を荒げた。
「だから、聞いてんのかこらっ!」
対する若き豹は、完全に横臥した状態で新野に背中を見せている。尾先が揺れているので眠っているわけではない。
「無視するなって。サラマンカのためにも、戻るんだティカ! お前わかってんのか、狼と猪が戦争するんだぞ? お前が一頭戦ってどうなるんだよ。死んじまったらどうするんだ」
豹はなんの反応も示さない。いい加減新野も疲れてきた。
ここ小一時間ほど同じことを言い続けている新野を、ブラウとロットが呆れた感じで見ている以外にはこの階にヒトはいない。
「ニイノ、そろそろ諦めたらどうだ?」
「あいつがやりたいって言ってんだからいいじゃん」
「お前らどっちの味方? てかなんだよ、ずっと見張りやがって」
「だあってお前一応龍王のテュラノスだし? 猪に殺されたりしたら困るからさあ」
「……」
新野は憮然として、肩で息をつく。ティカは動かない。説得でどうにかなりそうもないのはわかるほど時は過ぎた。狼王にティカの参戦を断ってもらおうとも思ったが、狼王はティカの申し出を快諾したようだ。
なんとしてもティカが戦いサラマンカが悲しんでしまうことがないようにしたいが、難航の兆しが見えている。いろいろと方法を考えようと思うと横やりが入った。
「それよりニイノ、少しは自分のことを考えたほうがいいんじゃなのか」
「俺のこと?」
「戦いがはじまったらお前どうする気だ?」
きょとんと目をしばたくしかなかった。
「そりゃ、どっかに隠れてるよ」
途端、呆れた様子でブラウは手を上げた。
「猪の王には鹿の王がついたらしい」
またどう反応したらいいかわからない情報が出た。それは承知しているようで、ブラウは構わず続ける。
「鹿の王は狼王のおっさんと最強を競うような強敵だって噂だ。神子に聞いたけど、鹿の王のテュラノスは、一人で鹿の王のナワバリを守り続ける化け物のような強さをもってるらしいぜ。ザルドゥをおとす気ならそのテュラノスも来るだろうな」
「テュラノスが、戦うのか」
「そりゃな」
「――あんた本当になんにも知らないのねえ」
階段を下りてきた少女、神子は若干の嘲りを含めた目で新野を見上げた。
「そんなんでこの先やっていけるの? あっちにはあの男もいるってのに。間違いなくあんた死ぬわ」
「あの男って?」
「狼王が万が一負けたら、ここは猪の王のものじゃない、邪龍王のものになるのよ」
「邪龍王?」
龍だの邪龍だの、まるでおとぎ話だ。しかし神子は神妙に頷く。
「おとぎ話なのよ、こっちの世界ではみんな知っているね。白い龍と黒い龍、っていう。ね?」
神子に促されて、渋々ブラウがそのおとぎ話を口にした。それはたしかに新野も地上で聞いたことのあるような「おとぎ話」の類だった、
「まだ人間が生まれたばかりの頃、世界には神様がいた。
地上はその神様を慕うたくさんの龍が支配していた。
世界は争いもなく平和だったが、ある時神様が人間に知恵を授けた。
人間はそれを受け龍の支配下にいなくとも自力で生きていけるようになった。
それを龍の中でも強く賢かった黒い龍と白い龍は喜んでいた。
しかし神様との語らいの中で、二頭の龍は「人間は龍を元に作られた存在」だと知った。
黒い龍は大いに嘆いた。神様は人間を作り出すためにまず龍を作ったのだと。龍は試作品で、神様の本当の愛は人間に向けられているのだと。
白い龍は誇りに満ちた。神様の愛する人間を、自分たちの手で正しく導いていくのが役目なのだと」
「解釈の違いが真逆だな」
「そう。それで、龍たちは二分しちゃったの」
「白い龍と黒い龍は何度も話合い意見をぶつけあったが、その間にも人間は数を増やし、ついには龍の数を超え、龍の文明を超えようとした。
人間は完全に龍の支配を必要としなくなっていた。
黒い龍は言った。人間を別の世界に送ろう。一緒の世界にいては、やがて争いが起こりどちらかがいなくなってしまう。
白い龍も言った。同じ世界で競争しあうことで、より高度な文明や道徳が生まれる。ともに生きることが必要だ」
龍同士の意見は完全に対立してしまっている。空気は不穏へと流れていた。
「神様は? 自分で作っておいてなんの意見もないのかよ」
「さあ。おとぎ話にはもう出てこない」
「無責任だな……」
「そして人間を、はては世界をどうするか、白い龍と黒い龍の代表通しが戦って決めた。
勝ったのは黒い龍。
人間は地球の一番外側に送られた。しかし競争するものがいなくなり龍はゆるやかに滅びの時を迎え、やがては世界からいなくなってしまったとさ。
あとには動物たちが繁栄し、人間が支配する世界だけが残った、おしまい」
「地球の外側って、それが地上? あ、いやこれはおとぎ話だったな」
「そ。でも龍は確かにいるっていうから、本当かもしれないぜ?」
ロットはにやりと笑って、この場で唯一龍を見たことのある少女を見た。そのからかう視線を逆に睨み返し、神子は確固たる自信をもって言う。
「おとぎ話はおとぎ話。でもここからは現実の話、どっちも黒い龍だけど、たしかに龍はいる。それが龍王と、邪龍王よ。争い合い、地上を穴だらけにした張本人たち」
その発言に男たちはどよめいた。
「穴だらけ? ちょっと待て!」
「渋谷や、世界各地の崩落の原因は、その龍だってのか?」
「そうよ。龍どうしの争いに、地球のほうが負けちゃってるのかしらね。二年前、龍王と邪龍王の戦いがあった。わたしはその戦いでテュラノスになったの、獣王も互いの陣営につき、世界の覇権を――いやそんなんじゃないわね。邪龍王、あの男は世界が壊れようが地上が崩落しようがそんなものはどうでもいいの。龍王の愛する生き物たちを全部殺してやりたい、ただそれだけなのよ。あの男を放っておいたら世界は穴だらけどころじゃすまないわ! ……だから戦ったの、どっちも傷ついて、渋谷が落ちて戦いが終わったわ。あの男にとどめはさせなかった」
「それが今また始まりそうだってのか……?」
少女の小さな手が痛々しいまでに強く握られていく。
「邪龍王は龍王のものを全部壊したいのよ。それはあんた、龍王のテュラノスももちろん例外じゃない。猪の王なんてただの発破よ、この戦いはあんたが引き金なの!」
「そ、そんなこと言われたって。……俺になにかできるとは思えないし」
落ちた目線には、狼と鹿の死にざまがうつしだされる。無力で無能な己に、地球規模の相手が迫っているなどおとぎ話にもならない。
しかし新野の憂いもなにも関係ない、神子はきっぱりと言い放った。
「違う! あんたは、ただなにも知らないだけ。顔を上げなさいよお兄さん、あんたにはもうおっきな責任が乗っかってんのよ! 自覚ができてないからそんなだけど、守らなくちゃいけないの、それが龍王のテュラノスなの!」
断言されても自分の胸には響かない。それでも彼女の本気を前にして、新野は顔を上げた。それに少女は満足気に微笑む。
「新野お兄さん、準備をしましょう。わたしがテュラノスのことを教えてあげる!」
「テュラノスは獣王の眷属とはちょっと違うわ。眷属は王と同種の動物のことをいうけど、わたしたちテュラノスは人間なの。眷属ではなくて隷属。王が近くにいればより強く力を発揮できるの。これを見て」
神子がいきなり服のボタンに指をかけた。ひとつひとつ上から外されて、胸に到達しようとした時、ロットを除く男二人が慌てはじめた時、その侵攻は止まってしまう。
白い滑らかな肌に浮く鎖骨の間には、あざのようなものがあった。それがほのかに光っている。
逆巻く風と二対の翼、そんな意匠。
「これが、飛燕の王のテュラノスの標。新野お兄さんの体のどこかにもこういうのある?」
新野は自分の腕などを見てみて、
「そんなの気づかなかったけど、背中だったら見えないな」
「まだ出てないってこともある。テュラノスの自覚がないなら。自分の王の気配感じてる?」
「……はい?」
新野が首をかしげると、飛燕の王のテュラノスは小さく息をついた。
年下も年下な少女に見るからに落胆されて、いっそ笑ってしまいそうだった。
「どこにいてもね、自分の王がどこにいるのか、どんな状態なのかぼんやりわかるの。もう獣王の欠片に組み込まれてるのよ、テュラノスって」
「いや、俺は全然だな」
「しるしを出すにはきっかけが必要だから。獣王の一番強い感情を、テュラノスも一番強く持つ、って感じかな。王と強く共感することで獣王とのつながりも強くなるから」
「感情ねえ……。いまいちぴんとこないな。だいたい俺は龍王ってやらに会ったことも……いや会ったことはあるかもしんないが」
一度見たらそうそう忘れない強烈なオレンジの頭髪が頭に浮かぶ。
「でも見たことがあるだけで、全然知らないからなあ……」
「龍王ならきっと優しさとか、守ろうって気持ちかも。あのヒトとにかくお人よしで、なんでもかんでも見捨てられないっていうか」
そう言う神子の表情がとても懐かしむようだったので、素直な感想を言った。
「あんたの方がよく知ってるな。俺のオウサマのこと」
だが少女には嫌味に聞こえたらしい、本日何度目かの睨みを受ける。
その時だった。
遠くから狼の遠吠えが耳に届いたのは。
新野以外の面々が立ち上がり、ティカものっそりと起き上がった。
「来たか」
「私も手伝うから、さっさと猪の相手なんて終わらせましょ」
「いっちょ派手に迎えてやろうぜ!」
どいつもこいつも好戦的な目をして上の階に向かっていく。ティカもそれに続こうとするので新野は声をかけようとしたが、クロヒョウの威圧的な一瞥に口をつぐんだ。
そしてブルー・セイリオスのすぐ近くの大木までついてきてしまい、新野はようやく事がそこまで迫ってきていることに実感した。
大地が振動していた。
大群を連れた猪の王の行軍に空気も震え、肌を緊張で粟立たせてくる。
森からは鳥も虫も消え、獣たちはみな成り行きを息を潜めて見守っているようだった。
先頭に仁王立つ狼王の姿があった。気負いもなく余裕気な彼に従うのはいつか見た黄色い狼と闇色の狼。そして巨大な白い狼。
その後ろに荒い息を吐き、興奮に毛を逆立たせる十数頭の狼の群れ。新野を見つけると歯をむく狼もいた。
前方で吹いていないにもかかわらず強風にあおられるように森が波打っていく。
肉眼でも茶色の大波が見えた。
列をなし轟々と土煙をあげて進んでくる。地上とはけた違いにでかい図体からは想像もつかない、高い声が合唱となって響いてくる。
先頭の群れの中央にその猪はいた。
片目に大きな傷あとをつけた、鋼の剛毛の塊。硬質さを感じさせる鉛色の体毛は、触れれば刺さりそうだ。巨大な鼻から強く息を吐き出し、力強く泥を削り進んでくる。
猪の王。
口内から伸びた牙を天に向けて、その怪物が咆哮を上げた。