我名字、大燕的神子!
異境の地の空は曇天と化していた。
灰色の雲のすきまから、彼女は流れる景色をのぞいていた。
頬を叩き髪を流す風が少し冷たい。
「ああもう、寒い! こんな遠くまでよこしやがってあのばかー!」
スカートからのぞく細く白い足を傾ける。すると彼女の体はその方向に滑り、さらに加速していく。
彼女の背中には黒い翼が広がっていた。
109の最上階に狼王が戻った時、ブランカが曇天を見上げていた。
「なにか来るわ」
「ああ、いいんだあれは」
狼王が、部屋の奥に寝そべる青銅の狼に寄りかかると同じくして、大きな羽音ともにその階へと降り立つ人物があった。
着地して、二三歩歩いた彼女の背中で、黒い翼が折りたたまれる。
スカートを払い、肩まである髪の毛を振り、彼女は息をつく。とたん、翼がはじけるように散った。四散する光と変じて、その光は流星に変わり部屋の中を彼女を中心に回り飛行する。
「久しぶりね、狼王。渋谷が落ちた以来かしら」
少女にしては尊大な口調で、彼女は狼王へと歩み寄る。
無遠慮な態度にブランカがわずかに身を起こした。
それを少女がぎろりと睨みつける。
「飼い犬のしつけもちゃんとしていないの? あんたは」
「それはまさにお前のことだ」
「ふぎゃっ」
狼王が言い終わると同時に、少女は突然床に倒れる。見えない壁に押し付けられているように、顔を上げようと彼女はもがくがじたばたとあがいているだけだった。
狼王が上げた手を軽く上に払うと、少女は重圧から解放されて大きく息をついた。
「な、なにすんのよ!」
「言う通りしつけしてやった。目上の者には謙虚な態度、だぞ」
にやりと狼王が笑うに対して、少女は床にぺたんと座って口を尖らせた。
「わかったわよ……」
少女は素直にブランカを見上げる。
「あなたも、ごめんなさい」
「いえ……」
ブランカは彼女のころころ変わる様子に面喰っていて、狼王は思わずといったふうに吹き出した。
「狼王、この可愛いお客様は?」
若干の棘を含ませた声色にあわてて笑いを封じ込める。そんな狼王に代わって、少女は自らの主張の弱い胸を張った。
「私は飛燕の王のテュラノス、大燕の神子。まだ十六才、若い!」
「テュラノスが年齢を自慢したところで……」
狼王の嘲笑に少女――神子は憤慨に頬を赤くした。
「だって本当だもん! 十六才よ、まだ。あ、でも若いからって子ども扱いはしないでよね。テュラノスとしては一流なんだから」
「その一流様は、誰のおつかいでここまで来たんだ?」
青銅の狼の毛に埋もれ、狼王はのんびりと問う。
なんだか納得のいかない顔をしている神子は、二の腕に巻いたポケットから携帯端末を取り出した。
慣れた手つきで操作して、メモ画面を開く。光る液晶を見つめて、
「えーと。烏の王から伝言なんだけど……。あんたのけんか相手、猪の王とそれ以外に誰かついてるって話」
何気ない言葉にブランカは狼王を振り返った。
その視線を受けて、狼王は目を愉快そうに細める。
「王になってまだ日も浅く、テュラノスも作れない若輩の猪風情が、この狼王に真っ向から挑むこと自体臭い。猪はかませ犬なんだよ。だが問題は、誰が真正直な猪をそそのかしたかってことだ」
「鳥類の情報網なめないでよね。まああんたのことだから大方の察しはついてるでしょうけれど」
「それで?」
「鹿の王」
狼王の目が一瞬ぎらりと輝いた。
「それと、あの男よ」
「鹿の王が、邪龍についたか」
溜息をつき、深く青銅の体毛に寄りかかる。
目をつむった狼王に、神子は続けた。
「だってあんた、鹿の王とは犬猿の仲でしょ。戦に長けた二大の王といったら狼と鹿じゃない、結構自然な流れなんじゃない? あんた龍王に懇意にされてるわけだし」
「懇意?」
おかしくて狼王が笑うと、神子は少しむっとした。
「一昨日だかにも会ったでしょ、龍王」
「さすが耳ざといな、カラス」
鳥類の王を一挙に束ねる烏の王。その男の特徴的な、実に楽しげな笑い声が耳に響いた気がした。
「それで本題なんだけど、その龍王となんの大事なお話をしちゃったのかしら?」
「……」
「お代はその情報と、あったかいココアで結構よ」
109の壁から再び飛び去って行った少女の翼を見送ると、ブランカは寝そべる狼王に振り返った。
「よかったの? 全部話して」
「烏の王は善悪で動かない気まぐれな奴だが、邪龍に与することはない。今の関係を保ったままでいい。それに、飛燕のお嬢ちゃんはあの通り、まだ若い。若いのは若い通しで話せばいいさ。ココアもここにはないしな」
「年寄りくさいこと言うのね」
狼王は目を開いてブランカを一瞥した。
「最近やたら年寄扱いを受けるんだが」
「ブラウとロットを拾ったりするからよ。子を持つと急に老けるらしいわ」
「……今から捨てたら間に合うか」
「無理」
白い狼に鼻で笑われ、狼王はがっくりと目を閉じた。
「また大きな戦いになるの?」
神妙な狼の問いに、その王はしばし無言を返す。
「……ここは守る」
「そうね。それが約束だものね」
「邪龍が出てくるなら、龍王にも舞台に立っていただかないとな」
「龍王のテュラノスも、拾ったことですしね、我が王」
わずかに苦笑した。
「また老けるのはごめんだ」
◆◆◆
警察の一団が去った園内で、新野はまずティカの首輪を外した。
「いいの? また、殺しちゃうかもよ?」
母譲りの猫なで声が不穏な言葉に解読される。
新野は首をかしげる。
「なんでそんなことするんだよ?」
本気で言っているのがわかったので、ティカはつまらなそうに鼻をついた。
「それで、狼王のところに行きたいんだって?」
ブラウがティカを見下ろし聞く。クロヒョウは尾の先を揺らした。
「このくそつまんない牢獄から出してもらえるならなんだっていい。さっきの人間についていってもつまらなそうだったしね」
「――と言ってますけど」
ティカの言葉を伝え、新野は肩をすくめる。ブラウは鼻白んだ。
「ずいぶんだな。もしくは物好きだ。別に、行けばいいと思うけど、」
言葉の途中で、新野を横に見る。
「こいつが反対するとも思う」
「当然だ。戦場に行くのを止めないはずがない」
「お節介ー」
ロットがからかい声で言うと、新野は思いっきりそちらに振り返った。
その間ティカは尾を揺らし続けている。
「そいつの意見はいい。さっきのおっさんの言葉には理解できるところがあった、殺せる奴は、殺していればいいんだ」
「こいつなんだって?」
翻訳を要求されるが、新野は少し嫌そうに顔を歪めた。
「それでサラが悲しんでもか?」
母の名が出ても、息子は涼しい態度で答える。
「それが俺に、どう関係する」
クロヒョウは歩を進め、新野の横をすり抜けた。
「狼王は斜塔にいるんだったな、お先に行かせてもらう」
「お先?」
「お前も来るんだろ? ニイノ。だってお前からは」
クロヒョウは顔を半分振り向いて笑った。
「血の匂いがするからな」
尾を横に振りながら、獣は悠々と園の出口の方へ進んでいった。
「行かせるのか?」
「……」
新野は踵を返し、サラマンカのもとへ急いだ。
サラマンカに起きた出来事を話すと、母豹は見るからに気落ちしてしまう。
「サラ、俺がティカを止める。そんでここに連れ戻すから」
「ニイノ……」
「いいから。待ってろ」
素早く立ち上がり、新野は獣舎を後にしようとした。
その眼前に旋風が巻き起こる。
唐突な風の壁に立ち止まると、頭上から声が降ってきた。
「あら、見つけたと思ったら、もう行っちゃうの?」
光の粒子が新野の周囲に飛び交い、それに慌てる暇もないうちに少女が一人飛び降りてきた。
新野が声を出して驚く。少女は一歩の距離もないところに降りて、ぐっと顔を近寄らせたから。
「な、なに?」
経緯は見ていないが、たしかに彼女は浮遊していた。艶やかな黒髪に黒真珠の輝きを放つ興味深げな目、それがとても近くに詰め寄ってきた。
少女は一通り新野の顔をじろじろと見分すると、怪しい者を見るかのような目つきで離れる。
「お、神子じゃん」
ロットがそう言って少女を指さす。ブラウも驚いたふうがない。顔見知りらしく、少女は腕を組んで、二人に向き直る。
「狼王子飼いの鼠くん! お久しぶりね!」
「出た出た、そのしょっぱなだけ高飛車な態度」
胸を張ってあいさつをした少女は容赦なくロットによって乱暴に髪の毛をかきまわされる。
「や、やめてよお!」
「背は伸びてないし、お前変わってないな、全然!」
最後にぱしんと頭を軽くはたかれて、ぼさぼさな頭のまま少女は体勢を立て直す。若干涙目になっているがそこは見ないでおいてあげようと新野は思った。
「あんたたちこそ! 女の子に対してこの暴行、しかもテュラノスに対してこの、この……!」
続く言葉が思いつかないらしく、神子と呼ばれた少女は悔しそうに腕を振った。
その言葉の中の単語に、新野にとって流せないものがあった。
「テュラノス? あんたテュラノスなのか?」
その驚いた様子に、少女はきょとんとした後、素早く身なりを整えまた胸を張った。
「いかにも! 私は大燕の神子! 飛燕の王のテュラノスよ!」
口上が終わるか否か、新野は少女の手首を握る。
「な、なにすんの?!」
「本当だ、脈がない……」
新野の手を払いのけ、神子は頬を少し染めた。
「あ、あんたもろくな男じゃないようね……。龍王のテュラノスのくせに」
「ああ、それね、俺は全然意味わかってないけど。なんでそれを?」
「今さっき狼王に聞いたのよ」
神子は新野の横から獣舎の奥をのぞいて、雌豹の姿を確認した。
「一昨日龍王が狼王と会ってて、でもそれ以前にそこの動物さんと密会してたって聞いたからね。なんのお話をしていたか、聞いてみようと思ったの。ついでに龍王のテュラノスがどんな顔かも見てやろうって思って……聞いてる?」
「サラマンカが……?」
呆然としつつ、新野はゆるゆると振り返る。
豹はじっとこちらを見ていた。
「サラ、龍王って」
「言ったでしょう、ニイノ。私の伝言があなたに届いた、って」
そういえば、そんなことを言っていたような覚えがある。
「ティカと別れた後、気落ちした私の話し相手に龍王はよくなってくれた。優しいの、彼は。それで、地上の話もよく聞いていたけれど……ニイノが私たちのことを心配してるんじゃないかってずっと気ががりだってこと、ふと龍王に話したの。そうしたら彼、ニイノに心配ないって伝えてくれるって」
新野は目まいでも覚えそうだった。
思い出す、東京の動物園。大きな影を見た気がして、外へ出て出会った奇妙な少女のこと。
「もしかしたらその伝言を聞いて、あなたは私たちを探しに落ちてきてしまったのかと思った。でも違ったわね」
そう、落ちた時にもその少女は新野のもとへ来た。
では、ではあの少女が――、
「もう運命が始まっていたのだわ、ニイノ」
龍王だったのだ。
◆◆◆
漆黒の衣服から垂れる布が、風にあおられ踊っていた。
土煙が舞い、一面木もない荒野を一望できる岩山の頂上に、ヒトが一人しゃがんでいる。
薄手のグローブをした手で腹をさすり、高い襟に隠れた唇をきゅっと結ぶ。
橙の長髪は高くひとつに結われ、ごうごうと吹き上げる風にもてあそばれていた。
「お腹減ったな……。もう、食べるもんないし、そろそろ街に行かないと死ぬかも」
深い深い溜息を、肺の空気が無くなるくらい吐いて、少女は立ち上がる。
ふらふらとした足取りで、山をくだりはじめた。
その彼女が振り向かない、山の影。そこには巨大な超獣の骨がある。
一家屋よりも更に大きい頭蓋骨が、口を開けて転がっていた。
全身全て、一片も残さずその獣は、食われていた。
「骨も食えるようになってみるか……」
山をくだりながら少女は、そんなことを真面目に思案しながら、どこかの街へと向かっていた。