大全世界の鬼ども集え 5 了
突如、トロントの上空を黒雲が覆い出しごろごろという放電音が空に響きはじめた。
鴉王の城を後にしたユハタはその空を見上げている。
<おあつらえ向きに不穏な気配だなあ。無理もない、この地に加護をもたらしていた存在が消えたんだ。天秤は傾きこの世の悪鬼羅刹どもが押し寄せてくるだろう>
「地上の幽鬼どもも嬉々としてやって来るということですか。それはそれは」
ユハタは穏やかにほくそ笑んだ。
「獲物を探しに行く手間も省けるというもの」
<空とは真逆に、我らの心中なんと晴れ晴れしいことか。わらわに体があれば、きみと祝杯をあげていたところだ。この混沌に乾杯! となあ>
槍の軽口は聞き流して、ユハタは森の中を歩き出した。
<どこに行く?>
「この先に私の住んでいた村があります。忠告をしてやらねば」
<きみが危険を呼んだ張本人なのだがな、お優しいことだ>
「それはそうですが。優しいとは、ご冗談を」
ユハタはからからと笑った。
「私はなにも人の心が理解できないわけではありません。村人たちの不幸にも黙っていられない。ただ迷いが晴れたことで、自分らしく生きると決めたまで。そしてそれが鬼の類であったという、それだけなのです。だから私は貴方様を振るいます。それが私の業です」
<いいぞ、許す。ともに往こう、さらなる強者との心躍る邂逅のため>
ユハタは森を分け入り、村への道を進む。
その途中にある墓地にロクがしゃがんでいた。ひとつひとつ墓を掃除してまわっていたようだ。ユハタに気づいていない背中に近づき、声をかける。
「ロク」
彼女はとびあがって振り向いた。ユハタの顔を見ると露骨にほっとした後、いつものむすっとした表情をとる。
「いったいどこに行っていたんだ! お前のことだから心配なんてしていないが……連絡もできないのか! 子どもか! わたしよりずっと年上だろう!」
「すまない」
彼女のいつもの調子にユハタは嬉しそうに笑う。
ロクは目の前に立つユハタが少し汚れていて、手に黒い美しい槍を握っていることに遅ればせながら気が付いた。
「なんだそれは? 物騒だな」
「ああ、これは……」
話しかけて空の暗さに気をとりなおす。
ユハタは墓掃除の道具を手早く片づけると村への歩みを促した。やや不審に思いつつもロクは彼の隣を歩くことにする。
「ロクに言いたいことがあるのだ」
「なんだ、藪から棒に。怪しいな」
「厳しいなあ」
彼のその笑顔を見て、ユハタに関しては勘が鋭い彼女は気が付いた。彼が憑き物が落ちたように晴れやかであることに。だとするならば、ユハタの言いたいことなど造作もなく予想できる。
だがそれを的中させるのは悔しい。ロクにとっては聞きたくないことだから。
「ロク、私はトロントを出るつもりだ」
そらきた、とロクは思う。目線は地面に落ち、とてもじゃないが彼の顔を見ることができない。晴れやかな顔をしていたら殴るところだ。
「ここではないどこかへ、それもとびきりの戦場に行きたいのだ。おそらくもう帰ってこないだろう。それが私のしたいことだとようやく認めることができた」
「そうか」
「自分勝手で申し訳ないのだが……。でもロク、ありがとう!」
ユハタの笑顔が見えなくてもロクにはわかった。決して見るまいと目線は上げない。
こんな笑顔が彼との最後の思い出になってしまったら、嫌だ、絶対に嫌だと、彼女は目の奥から押し寄せる熱い波を全力でこらえる。
「ロクのおかげだ。ロクが言ってくれたから、新しい道をいけと。思いもよらなかったことだが今はそれが正解だと思う。私は一度死んだ身だ。今の生は生まれ変わったものだともいえる。ならばまた好きに生きてみるよ」
ロクの視界にはユハタの足だけが映っていた。その足に血が点々とついているのが見えた。これはいったい誰の血だろう、この男が怪我をしていないとしたら誰かの血だ、この男が傷つけただろう誰かの。
ロクの哀しみに覆われた心のすみに、ぞっと冷たい一針がさしこまれた。
それは紛れもなくこの男への恐怖だった。
彼への思慕に決着をつけていた彼女は自問自答をする。
ユハタは異常なのだろうか? それとも正常なのだろうか? と。
結論はすぐに出た。
「わたしにはもう、わからない」
鬱々とした彼女の呟きにユハタはきょとんとした。
ロクは足を止め、同じく止まった彼の顔を覚悟をもって見上げた。
そこにはいつものユハタの顔があった。ただし頬のはしにやはり血がとんでいる。
確実に言えることは、この男はそれを気にもとめないということだ。
「わたしは戦は嫌いだ」
「ロク……」
「戦場に行きたいか。ああそうしろ、勝手に生きろ。お前は戦の中で――死地で生きる者ならば往けばいいさ。わたしにはわからない、村人もいや普通の人間はみんなそれがわからないんだ! わたしたちにお前はいらない、わたしたちのために一緒に生きてくれないお前なんて、目障りこの上ないからな!」
一息に叫んで彼女は呼吸を荒げた。
ユハタは静かな顔で彼女を見つめている。
その顔を見てロクは首を振った。
「それだけじゃない。わたしの言いたいことは。サンジョウ。ねえ、ユハタ……ずっと、ずっと守ってくれてありがとう、ありがとう……」
彼女の瞳からほろりと涙がこぼれた。
沈黙が落ち、ユハタはその涙を呆然と見つめる。
「いけ、さっさと。さようなら、ユハタ」
はらはらと泣きながら彼女は決然と別れを告げ、村へと一人歩いていく。
ユハタはその背中をぽつんと一人立って見送った。
しばらく呆然としていたが、風がいよいよ不穏に吹きすさんできた頃ユハタは歩き出した。
村のある方向に背を向けて、ケーブルカーの方角へ向かう。
「この地に群がる敵をまずは一掃しましょう」
<ああ、いいとも>
森を抜けて明るい音楽が響き渡る区画へ足を入れるとそこは数日前の様相とは一変していた。
耳に届くのは悲鳴と、つんざく咆哮。
<おお、おお。うようよいるじゃないか>
槍が喜びの声を上げる。ユハタは走り出した。
ケーブルーの乗り場は騒然としている。観光客たちが何人も倒れ、その死体に群がっているのは一目でわかる、地上でユハタが相手していた幽鬼の群れだった。
死人が動き、中には鳥や獣のそれもいる。
あふれる化け物どもに飛び込みユハタは槍を振るった。
蹂躙されるばかりの生者たちとは違い、幽鬼を押し返す者もいた。
「しゃー! しゃあー!」
轟然と叫び巨体を振るい、次々と幽鬼をちぎり投げているのはトカゲだ。
その巨体を盾に武装した人間たちの姿も見える。トロントの警備員たちだろう。銃を持ってはいるが、なにぶん相手が死人であるゆえに混乱極まりない。
ユハタは自分に群がる敵たちを見事な体さばきで一人、また一人と地に沈めていく。
目の前の男を突き殺し、跳びかかってきた女を横薙ぎにする。足にからみついた子どもを蹴飛ばして、組みついてきた爺を逆に盾のように使って前進した。
だが敵は減ることはない。むしろどんどん増えている。
槍はどんなに血に濡れてもその陰りを失うことはないが、ユハタの足場は亡骸であふれ血の池に滑るようになっていく。
ついに足を滑らせ不意に転んだ幽鬼がユハタの背中にぶつかって、ユハタもろとも地面に倒れた。
ユハタは焦ることなく飛び掛かってくる敵を蹴り倒し、寝転んだまま三人突く。
鳥の敵が滑空してきたら落ちていた敵の首を投げつけた、羽を散らし体勢を崩した鳥は一突きを喰らう。
ユハタは低い姿勢のまま、見える足全部を斬りつけた。
倒れてくる相手は踏み付けて、起き上がりながら犬の敵を殺す。
彼方から銃声が聞こえる。警備員たちが勢いを取り戻したようだ。トカゲが無事守り切ったのだろう。
血しぶき、赤い飛沫、それらすらゆっくりになって見えてくる。
没頭し、集中し、陶酔する。
ユハタはケーブルカーの前までたどり着いた。
後ろの幽鬼たちは全員もう起き上がってこないだろう。
熱い吐息をこぼしながら、ユハタは空っぽのケーブルカーへ進む。扉に手をかけた。
わずかに彼が一息ついた瞬間、足元をすっと何かが通り過ぎていった。
はっとして振り向いた。
森の方へと小さな影がするすると素早く進んでいく。よく森で見かけた毒蛇だ、死斑に覆われた細長い体。
駄目だ、とユハタは心の中で叫び飛び出した。
どんなに小さな敵であろうと、この地に置いていくわけにはいかない。ユハタの頭によぎったのは別れ際の少女の泣き顔だった。
自分はいい、混沌を望み襲われることを欲した。だが彼女が自分の行いの一端で苦しむのはもうやめにしようと、思っていたのに。ユハタは蛇を殺そうと疲労も忘れて走り出した。
その蛇を踏みつける獣の足が見えて、ユハタはたたらを踏んだ。
青色の毛並みは変わらない。
ユハタからは遠い地点で、蛇を踏み殺した青い虎がこっちを見つめている。
「虎王様!」
ユハタはその姿に夢中になって叫んだ。
青い虎は蛇を殺したことをすんすんと嗅いで確認すると、まるでもう他に興味が無いといわんばかりに体を反転して森に分け入っていく。
「ま……」
ユハタはその獣を追おうと一歩踏み込んだが、走り去った虎はあっという間に消えてしまった。
トカゲと警備員たちの騒ぐ声が聞こえる。
ケーブルカーが動きだしていた。
地上から誰かが操作したようだ。また幽鬼がどっと乗り込んでくるのかもしれない。
ユハタは警備員の制止する声も無視して駆け出し、ケーブルカーへと走り滑り込んだ。
間一髪乗り込む。閉めることが間に合わなかった扉が浮遊島のはしにぶつかり破砕して、遙か空へと放り捨てられていった。
扉の無くなった箇所から風が入り込み、床に座り込むユハタの全身をなぶる。
「さようなら……」
壁に背中を預け、ユハタはそう呟き目を閉じた。
◆◆◆
その日トロントの森では凄惨な事件が起きていたようだが、ロクたち村人がそれを知ったのは事件が終結した後だった。
おどろおどろしい曇天が過ぎ去り、夕焼けはあたたかく穏やかな橙色に空を染めていた。
ケーブルカーは何者かによって地上で破壊され、トロントに地上から人が登って来ることはしばらく出来無いことになった。
なのでその来訪者は空から舞い降りた。
黒い龍は鴉の王の居城へと降り立ち、玉座で寝こけていた鴉をたたき起こした。
『ちょっとちょっとちょっと! 銀! なに寝てんのバカ! なんか大変なことが起きてたみたいだけど?!』
龍の罵声に鴉は目を覚ましひょいと起き上がる。
『ああ?! ――ああ、そらそうだろうよ。俺様がいなけりゃそうなるだろうよ』
『そりゃ君がここを加護しないとそうだけど。なにしてんのさ』
『おうちょっとな、死んでたわ』
『はいい?!』
鴉は自分の体を点検するように羽根づくろいをはじめた。
『ほらここ、穴が開いてやがる。ぶすっとやってくれたもんだぜあのヤロウ……』
『殺されたってこと? まあ銀のことだから恨みを買ったとしてもおかしくないけど、よく生き返ったもんだね。さすが太陽の化身!』
『馬鹿言え! この場所、この玉座では死なねえ、そう三千世界に約束してなかったら死んでたわボケ! 俺ぁここで死んだ時だけ生まれ変われるんだ。くっそ、おかげでまた足が減った』
三本足から二本になった足でとんとんと床を蹴り、鴉は城の窓まで進んだ。そして自分の領地を見下ろす。それだけで鴉の王はトロントの森に起きたことを、自分が死んでいた数時間の出来事を把握した。
『汚ったねえなあクソヤロウ! しかも犯人様はまんまと逃げてやがる! ああ畜生が!』
鴉は憤懣やるたかないとばかりに空へと飛んでいった。
それと入れ違いに、部屋に扉を押して黒衣の男が入ってきた。
『おかえり、纈には会えた?』
「いいや、なんか……出てったらしい。さっき」
『へ? どこへ?』
「さあ。でもロクは心配ないってさ」
黒衣の男、葵は龍の隣に移動して漆黒の鱗を撫でた。その手つきから彼の不安を感じとり、龍は鼻を彼の黒髪に押し付けた。
『おいおい大丈夫さ。鴉王がいればこの地はけっこう安全だし、虎王もいるよ。虎王は無意識でも、あの村を家だと思ってるんだ。そう思ってる限り虎王は守るよ、村もロクたちも。それとも纈が心配?』
「してねーよ」
葵はべしっと硬い鱗をはたき、くるりと背中を向けた。
「ま、またどっかで会うだろ」
◆◆◆
夕刻を過ぎるとケーブルカーに群がる敵の数が激減した。
つたう汗をぬぐって晴れやかにユハタは辺りを睥睨する。
骸が草原を覆っていて、ユハタだけが立っていた。
「夜になる前に水浴びだな」
<さしあたって素敵な出立となったなあ>
「はい、おおむね」
<もしやあの取り逃した蛇を悔やんでいるのか>
「ええ。まだまだ精進が足りません」
<いいさ。世界は広いから。進めばその分刃は磨かれることだろう。わらわは長生きだ、その分気が長い。ゆえに許す>
「それは良うございました」
槍と人は声を上げて笑って、意気揚々と歩みを進める。
<さあてどこかにちょうどいい戦場は転がっていないものか!>
「龍を探しましょう」
<ん? なにやら知り合いか?>
「平和を望みつつも戦の渦中にいる。そんな龍と人を知っています」
<ううむ垂涎ものだの>
「でしょう?」
紅い夕焼けに長い影をのばして、その者は地平を目指して進んでいった。
読んで頂き本当にありがとうございました! またよろしく!