大全世界の鬼ども集え 2
『ああ、そういやお前を呼んでたっけ』
会いに行ったカラスの王は、自分で呼び出しておきながらそのことをすっかり忘れていたようだ。
だが慣れているので腹も立たない。
たとえユハタが王の城を訪問してから何時間も待たされたとしても、ユハタはそんなことで心を乱すような男ではなかった。
「ご用件とは?」
玉座の豪奢な椅子、今はもう鴉の王もそれに腰掛けることはできない。三本足のカラスはひじかけにとまっている。
一段低い謁見者の位置に座すユハタが問うと、カラスは鳩のように胸を張ってみせた。
『ふふん、聞いて驚け。てめえ元龍王のテュラノスだった小僧を覚えているか』
「もちろん。葵のことでございましょう」
『ヒヒヒ、俺ぁこれからそっちの世界に行ってそいつの顔を拝んでくるぜ』
言われてユハタはきょとんとした。
「それは、どういう意味ですか?」
『そのままだ鈍感野郎』
カラスは飛び立ち王の間の高い天井をくるくると飛翔する。
「塔隧道を通ってあちらに行かれるのですか。何故また?」
ユハタはそう聞きながら、心の内ではなによりもそのことを自分に話す鴉王を警戒していた。
嫌な予感がひしひしとする。
『龍王の依頼でな』
それからカラスは流暢に龍王から聞いたであろう、世界を蝕む『強者の作用』の流れについて静かに話した。こちらの世界に充満していたその作用があちらの世界に漏れている事象の調査といったところか。たしかにどちらの世界にも、ましてやどの地域においても自然と景色に溶け込むのはカラスの特技といっていいだろう、偵察としては鴉王は適役だ、と納得する。
「理解致しました。道中お気をつけて、葵や龍王様にもよろしくお伝えください」
にこやかに言葉を落とすユハタの肩にカラスは降り立った。
『それで、だよ』
「ええ。――それで、鴉王様は私になにをお求めでしょう」
『……フン、つまらねえ。てめえのことだから羨ましがるかと思ったがなあ。存外食いつかねえときた』
「私は獣王ではありませぬ。もうただの人間、分をわきまえて日々を過ごすことが重畳」
『嘘だね』
またもカラスは飛び立って、ユハタの肩と髪が揺れた。
『なぁにが普通の人間だ。てめえらがそんな殊勝なものになれるとは思えねえ。とくにテメエはな』
「なにを――」
『よおく聞くぜ? その重畳な生活に馴染むこともできず悶々としてるってなあ、元虎王のテュラノスささんよ。いや無理もねえ、あんな血沸き肉躍る戦いに投じられてたってのに、しかもそれを愉しんでたってのに。急にくわで畑耕せって言われてヤッタアとはいかねえわなあ!』
ユハタが無表情に沈黙するのをカラスは笑い飛ばした。
『人間得意なことは各々だわなあ、テメエのように殺しが得意じゃあ、普通の生活はさぞかしつまらねえだろうよ』
「鴉王様」
たしなめるようにユハタが立ち上がる。カラスはくつくつと笑いながら再び玉座に舞い降りた。
『だからさ、そんな哀れなテメエにもってこいの仕事を寄越してやろうってんだよ』
「ようやく本題ですか」
『拗ねるない。気持良く暴れりゃあいいんだ』
「なにを期待しておられるかわかりませぬが、私は最早人間。膂力も倣い落ちております」
『んなこたわかってる。だとしてもいい、俺にはもう捨てられる駒が無えからなあ。それにテメエは俺の指図に無視できねえはずだ。村の土地を与えてるのは俺様だ、まさかその俺様の頼みが聞けねえわけがねえだろう』
「わかっていましたが、貴方は狡い御方です」
淡々としたユハタの言葉にカラスは爆笑した。
『ヒャハハ! 褒めるんじゃねえよクソ野郎!』
嘆息する人間の頭にカラスは飛び移った。
『いいか。俺がいねえ間、下のケーブルカー乗り場の守り役をテメエに任せる』
ここトロントが浮遊島であり、鳥の王やカラスの大群により守られていることはユハタも知っている。
それとは別に唯一外界とつながっているのがケーブルカーであり、島の遙か下方まで伸びている。どこへへつながっているのかは知らないが、その一本道を守っているのはどうやら平時は鴉王だったようだ。
「そのような大役、何故私のような非力な輩に任せるのです」
謙遜や卑下ではなく純粋に心配してユハタは眉を上げた。
『それはなあ、面白いからだ。安心しろ、テメエ一人に任せるとは誰も言ってねえ。テメエはただの飾りのようなもんだ。だがテメエみたいなのが適役なこともある』
喜べ、とカラスはユハタの頭を蹴った。ユハタは隠さず溜息をつく。
「承知致しました。私でよければ、誠心誠意お役目にお努めいたしましょう」
『よろしい。どうせやることもねえんだろう? 俺様の優しさに泣いて喜びな。その短い一生、少しは楽しめ』
言い捨てて鴉王は窓から外へ飛び去って行った。
ぽつんと一人になったユハタは虚空を数秒見つめ、鴉王の言葉を反芻する。
――短い一生、か。
龍王から、テュラノスでなくなる前に話されたことを思い出す。
テュラノスは獣王の隷属、生きるも死ぬも獣王の命とともにある。精神的にも肉体的にも傀儡であった頃、テュラノスは時とは隔絶された存在であった。歳をとることがなかったのだ。
それが解放されて、普通の人間と同じく生きられるといえばそんなことはなかった。
テュラノスであった期間が長かった者ほど、人間としての寿命が短くなっているだろうと龍王は言った。
ユハタは自分が何年虎王とともに生きたか具体的な数字を知らなかったが、年の離れた妹のようだったロクが今は同じ年齢に見えるから、そのくらいは隔絶されていたのだ。
だからその分、ユハタの魂は摩耗している。
ロクと同じ年数を生きながらえることはできない。
他のテュラノスでユハタよりもはるかに長く隷属であった者がいる。その者に比べれば長く生きるだろうが、年老いる前に不意に終わりが訪れることは皆同じである。
そのことはロクも知っている、だからこそ彼女はユハタにもっと日々を自ら輝かせよと怒ったのだ。
ユハタはそのことはわかっていないが、鴉王の言ったことになにも思わないわけではなかった。
ロクはここではないどこかに行け、と言った。その好機が訪れたのだ。
「さて、行くか」
ユハタは鴉王の城を後にし、その足でケーブルカー乗り場へと向かった。
楽しそうな雰囲気と人混みの中、ユハタは一人歩く。
トロントの浮遊島は娯楽島、入口であるケーブルカー乗り場は観光客で常ににぎわっている。
ユハタはこの島に住んでおきながらその娯楽地域には寄り付かない。よってこの乗り場も初めて訪れた。
明るく愉快な音楽が流れ、家族が多く感じるこの場はユハタも嫌いではなかった。
だが得意でもなく、空間のすみを進んで乗り場へ到達する。
切符などは必要なく、ただ機械に乗り込めばいい。島から出ていく者たちと同じく列に並んだユハタは少し笑いたくなった。
自分があまりにこの空間において異質であることが、おかしくなったのだ。
だが一人でいるので笑わないでおく。そんなユハタははたから見ると和やかで、観光客に馴染んでいるのだが、彼はそうとは気づかなかった。
そんなユハタが機械に乗り込む直前、大きな足音がその場を揺らした。
どよどよと客たちが騒ぐほうをユハタも振り返ると、そこには大きなトカゲがいた。
平らな体に赤と橙の縞模様をしたトカゲの巨体は、四足をくねらせてこっちに向かってくる。その巨大さ人間の何倍もあるほどだ。
だがトロントの観光客たちは呑気なのかトカゲに道をゆずり、写真を撮ったりしている。逃げる者はいなかった。
ユハタも目の前にしゅうしゅうと舌を出し入れするトカゲが迫ってもぽかんと見つめているだけ。
なにしろ見るからにトカゲは必死に急いでいて、殺気も無くどこか可愛げのある様子だったからだ。
「しゅー! しゅー!」
トカゲはユハタの鼻先に巨大な口を近づけて緊急停止した。
「大丈夫か?」
随分と急いでいたのか止まって疲れた様子のトカゲの鱗をユハタはねぎらってなでる。
その口になにか、布に包まれた物をくわえていた。
トカゲはそれをユハタにぐっと突きだす。
「そなた、もしや私に用か。鴉王様の使いか?」
トカゲの口吻に腹を押されながら問うと、トカゲはうんうんと頷いて肯定する。
「テュラノスであれば会話ができたのだがな、すまない。用件を聞こう」
トカゲと相対している間、ユハタたちは周囲の好奇の目やカメラにさらされていたが、意に介していない。
トカゲは口をそっと開き、くわえていた荷物をユハタに渡した。
「これを鴉王様が?」
「しゅ~」
「そうか、わかった。ありがとう」
微笑み頭を撫でてやるとトカゲは目をつむって受け入れた。
トカゲの愛嬌に微笑ましくなりながらも、ユハタは荷物の重さと固さに、布をめくってみなくても中身を知る。
そして尾を振るトカゲに見送られ、ケーブルカーに乗り込んだ。
空を悠々と走る乗り物に心中なかなか興奮しながらも席にじっと座り、到着した駅から出る。
そこははるか彼方まで続きそうな平原だった。
一方は駅から道が続き、先に町が見える。煉瓦で出来た町並みへケーブルカーを降りた面々はずらずらと向かっている。
その波には乗らず、ユハタは駅――無人駅は古ぼけた白いトタン屋根の平屋である――の横へ歩き、人々から見えない地点に立った。
そしてトカゲから受け取った荷をあらためる。
巻かれていた布をはらりととれば、やはりユハタが思っていたとおりのものだった。
ずしりと重く、柄は長い。穂先はまっすぐに伸び鋼の輝きを帯びている。
それは美しい黒柄の直槍だった。
縦に掲げて、その重さと美しさにユハタは少し息をするのも忘れた。
久しぶりに握った武器は手になじみ、自分でも不思議なくらい胸が躍る。
情けなくて苦笑したくなった。
まるで新しいおもちゃを与えられた子どものように、今自分は喜んでいたのだと。そんな自分に嫌気がさしてしまう。
「私は鬼か怪物にでもなったのか……」
腕を下げ、溜息をつきかけた時、
<なんとまあ、陰気臭いこと>
と聞こえた女の声に、ユハタは瞬きすることすら忘れ手の中の槍を見つめた。