自己判明
「こいつが、あんたが探していたテュラノスだ」
ブラウがそう言って、新野を前に押し出す。
狼王と呼ばれた男は、まだ夢半ばのような顔をしている。年齢は三十代に見え、しまった体はしているが特別屈強にも壮健にも見えない。黒髪黒目のその容貌は、
「日本人……!」
新野が声をあげるほどに、それに見えた。
男はゆっくりと立ち上がる。履いている革のブーツはブラウやロットのもののように、ザルドゥ製のものに見えたが、身に着けている衣服は地上で見かける夏の格好だった。
「ブランカ、おまえ血なまぐさいぞ」
狼王は鼻をつまみ白い狼を胡乱げに見上げた。ブランカが答える間もなく、ブラウが苛立たしげに声をあげる。
「あんたが寝こけている間に、ここまで猪が攻めてきてたんだよ! ザルドゥ首都のナワバリヌシが聞いて飽きれるぜ!」
新野が今まで見てきたブラウはだいたい澄ました言動をしていたが、珍しく感情的な彼に責められてもなお、狼王はぬるい表情のままやれやれと肩をすくめただけだった。
ブランカが落ち着いた声色で報告をする。
「カラカミが来ていましたよ」
「の、ようだな。なんだ、猪めようやく本腰になったか。さてはもう知っているな」
そう言って男の視線が新野に絡まる。その視線から感じたのは好感ではなかった。
「この小僧がテュラノスか」
斜め上を見て、狼王はしばし黙考する。
「紺色の狼を覚えてるか?」
薄笑いを浮かべた彼の質問に、新野は息をのんだ。
ここに来ることがわかっていた時から恐れていた瞬間だった。
まざまざと脳裏に浮かぶ。ナスに殺された狼のことを。
(いやあれは、俺が殺したようなものだ)
地面に目をみはり、汗が顎をすべっていく。
「その反応で、十分だ」
「は…?」
息を吐いて、顔をあげる。狼王は目を細めただけだった。
「名前は」
「……新野」
答えると、すんなり返ってきたものはおそらく重大なこと。
「新野。お前は、龍王のテュラノスだ」
その急な発表には当の新野よりも、周りの面々の驚愕のほうが大きかった。
「は、はあ…。龍…」
新野はただ困惑する。龍、なんておとぎ話の存在でなにも感慨がわかない。
なのにブラウもロットも、衝撃を受けている。
「ま、まじかよ! こんなのが龍!?」
「ニイノ……」
ロットは興奮し声を弾ませ、ブラウは深刻そうに新野を見た。
「驚かないのか?」
「いや、あのさ。もーだいたい慣れたけど、驚いてるけどね一応、それよりなにより意味わかんねーって。なんだよ狼王とか、龍王とか! おたくらだけで話進めんなっての!」
言っているうちにだんだんと腹がたってきて、後半はほとんど暴言だった。
狼王は口端を少しあげただけで、
「そのうちわかる」
と言うだけだった。
「今はそれより猪だ。ひときわでかい猪がいただろ、カラカミと言って猪突猛進王の眷族の中ではなかなか上の奴だ」
ブランカがぺろりと赤い舌で鼻を舐めた。
「それを私がやった」
「カラカミが来たのなら、近いうちに王直々に攻めてくるだろう」
空気に緊張が走る中、新野だけ変化がない。狼王はそんな彼に向く。
「ザルドゥは戦場になるってことだ。猪がここを、ひいてはお前を狙っている」
「お前って、俺?」
「龍王のテュラノスだ。まっさきに捕らえに来るだろうな、猪は俺の縄張り穫りより龍王への私怨で動いている。お前も助かりたかったら、身を守るか戦うかしないと」
戦う。その言葉に新野は反射的に声をあげた。
「俺は関係ないだろう!」
想像するだに恐ろしい。ナスに追われた時の恐怖、狼と対峙した時の恐怖、それらをまた体験しなくてはいけないことが嫌だった。
沈黙がおりたが、新野からはそれに気が付けるほどの冷静さが失われていた。
仕事上動物の死を目の当たりにするたびに、新野が失ったものがある。狼が死に、鹿が死んだときに、ついにそれはひとつもなくなった。
自信。
動物を守る、その意気込みを持つことすらもうできない。自分にはなにも守れない、失うたびにショックを受けて、ひいては自分自身を守ることももうできそうにない。
(戦うだなんて、冗談じゃない! 俺がやって、なんになる?)
「俺は、ただの人間だ。少なくともここに落ちるまでは。なんにもできないただの人間なんだ」
握り締めた拳が震えていた。
誰に訴えているようでもなく、己に言い聞かせているわけでもなく。独白が響く。
「ある、男が」
狼王の平坦な声にわずかに新野は顔をあげた。
「龍王と因縁のある、男がいる。そいつは龍王と関わりのある獣王も敵として、多くの獣王やそのテュラノスを殺してきた。これからも殺すだろう。猪の王の先代もテュラノスもそいつに殺られた。今の猪の王はその男に到底敵わず、矛先は今や龍王に向いてる。よくも巻き込んだな、ってな」
よくも、と新野は呟く。
(そうか、俺もそれが言いたいのか)
橙色の髪をした奴、落とされた瞬間の非情な声。思い出すたびに怒りがこみあげてきた。あれさえなければ、今も地上で暮らしていたはず。
「お前も文句が言いたければ、それまで生き残れ。今はそれしかない」
「…………」
狼王は冷めた笑みをはりつけたまま告げた。
戦う、ではなく生き残る、そのシンプルな目標を新野は与えられた。
言い返すこともなく、黒い双眸を見返し、新野はただ黙り込んだ。
狼王はひとつ瞬きをすると、一転して軽い調子に戻る。
「それでな新野、お前に伝えたいことがあってそこの二人にテュラノスを探すよう言っておいたんだ。まさか本当に連れてくるとは思ってなかったけどな」
「なにい?」
ブラウが片眉を吊り上げて剣呑な表情をしたが、狼王はなんら気にせず、
「龍王から頼まれてる、サラマンカ? だったか。お前と会わせてやれってな。その二人に案内させる、行くといい」
「サラマンカに?!」
予想外の名前が出て、新野の顔に久しぶりに明るさが戻る。しかしはっとした。
「その龍王ってやつがなんでサラマンカを?」
「俺に聞くな。ただ言えることは、王はテュラノスのことはだいたい知っているものだ」
「テュラノスってなんなんだよ」
語気強く問うが、手を軽く振られてしまった。
「俺がなにか言っても納得するような答えはない。お前が勝手に知っていけ、自分のことなど他人に聞くな。わかったらさっさと行け、こっちは戦の準備で忙しいんだ」
「なにが忙しいだよ、万年寝太郎が。行くぞニイノ」
最早狼王の興味はこちらに無いらしく、新野は渋々ブラウとロットについていった。
109を出て街に戻るため来た道を帰る時、ブランカほどではないが、地上にはいないであろう体格をした狼たちが森の端から出てくるのを見た。黄色い狼と、黒い狼。
戦の準備のために戻ってきた、狼王の眷属とやらだろうか。
(戦争なんて、人間だけがやってりゃいいものを)
おかしなことがなんでも起こるこの世界なら、動物どうしが戦争をするのも当たり前なのだろうか。
陰鬱な気持ちが、無い胸を締め付けた。
「けっきょくまたタダ働き押し付けられた」
「だー! うるせえ! あのおっさんの話はするな!」
狼王絡みだと、普段とは逆にロットが揶揄しブラウが怒鳴り返すようだ。
次の目的地に向かうところまではあっていたが、新野の予想は外れて三人は街はずれ、廃墟の終点に沿って進んでいた。
右を向けば灰色の終わった街。左を向けば、ヒトが住む住宅に続く路地。
廃墟の隣に住むのはやはり危険がともなうのかただ人気がないのか、古い長屋か倉庫群が立ち並んでいた。
こんな道にバスが走るわけもなく、人通りもない。退屈な時間を、三人は会話でしのぐ。
「で、ニイノ、サラマンカって誰だよ。あんたこっちに知り合いがいたんだな」
「女か?」
にやにやとロットが浮かべる笑いに、新野もつられて笑う。笑うとすっと肩が軽くなるような気がした。
「そう、女だ」
「おお、まじか!」
「渋谷といっしょに落ちちまって、死んだと思ってた。でもこっちで生きてたんだな、よかった……」
空を見上げ微笑む新野の横顔に、ロットは眉を八の字にした。
「感動の再会ってわけだな、悪いからかって」
至極真面目な彼の後ろでブラウが吹き出していた。それには気づかず、ロットは興味津津な様子で身をのりだしてくる。
「いい女なのか?」
「うーん、かなりな。優しくて、綺麗だ」
「最高じゃん! てかお前褒めすぎだよ!」
「あと息子想い」
つけたした言葉を聞いて、ロットは笑顔のまま凍りついた。
「え……、こ、子持ち。お前の?」
「違う違う」
「……。あ! 未亡人!? いいね!」
「いいわけあるか。違うし。あいつの旦那はなあ、ほかにも奥さんが順番待ちしてたから」
「なんだそれ意味わからんすげえ!」
目を輝かせるロットの後頭部をついにブラウが蹴り倒した。
「どこまでふざける気だお前ら!」
続けて殴りかかってきそうな勢いに思わず新野は両手を上げる。足元に倒れたロットはすぐさま復活し、
「俺もサラマンカに会うの楽しみになってきた!」
と意気揚々と進もうとした彼の目の前に門があった。その背中にブラウは絶対零度に吐き捨てた。
「そりゃよかったな、好きなだけ会ってこい馬鹿」
ところどころ錆び破片が地面に散っている。そんな鉄製の門を見て、新野は口を開けた。
「ここ……」
「おうなんだもう着いたのか!?」
「あー着いた着いた。ちょっと黙ってろよお前。ニイノ、ここだぞ」
門の横の柱には『関係者入り口』『開放厳禁!』と古い看板がかかっている。
懐かしさにうめきそうになった。
新しい建物が自慢だったはずが、見る影もない。数年見なかっただけのはずが、何十年ものの姿に変わり果ててしまっている。それでも記憶の中と一致する点は数多い。
渋谷動物園の社員用入り口だ。
シブヤが混沌と化したあの日まで、毎日のように通っていた職場。
「なんか動物くせえな。こんなところにいい女がいるのかあ、世界は広い」
「もうほんと喋んなってお前」
「俺感動してんの、ちょっと君ら静かにしてくれる?!」
三人の目前で、門は駆動音をたて開いていった。