ふつうのヒト
赤黒い血の龍は、降り立った海竜の額に噛みついた。
青い皮膚の中に埋もれる宝石を、ひとかたまりの肉とともに食いちぎる。
咀嚼し、飲み込む。
――刹那、眼を潰されても平然としていた海竜の歩みが、止まった。
雨風に濡れそぼった本名が、その不可解な行動に目を見張る。
「なにを、している――」
くつ、と嗤いが空に落ちる。
龍の形がどろりと溶けて、宙に青年が現れた。その口からは抑えきれない哄笑。
そして青年は腹に手をあてて、これ、と呼んだ。
「これは、この怪物の脳であり、視線であり意識。さあ、意味がわかったら……逃げ惑えよ人類の守り手ども!」
海竜が高らかに咆哮を上げた。
轟音は豪風をともない、近くの狼王と本名の体をいとも簡単に飛ばす。
蒼い獣の六つの眼が爛々と金色に輝き、上下二つの口が蒸気を出して開く。その奥には乱食いの歯と真紅の口腔。
元宝石があったはずの傷口は修復され、触手を生成、一瞬で邪龍王を絡めとった。
青の触手に引き込まれ、邪龍王の半身は海竜の登頂に無理矢理植え付けられる。
その姿は不恰好だが、海竜の一部になったようだ。
地上のテュラノスたちははっと足場を見下ろした。
急速に町が凍り付いていく。ばきばきとあちこちから音響が届き、氷柱に覆われていく。
降りゆく雨はひらひらと舞う雪に変わっていた。
おん、と再び巨大な獣が怒号を上げる。
とたん、その場の全ての冷気が一点に収束されるような感覚。
ぞっとするような一瞬が全員を襲った後、それは射出された。
「とっとと死ね」
吹雪や雪崩などまだ生易しい。その脅威が一方向に、一直線に、光の速さよりももっと速く、そして極めつけに広範囲に。
白と青の奔流が海竜の口腔からほんの一瞬、町を通り過ぎ空を駆けた。
豪っと脇を駆けた衝撃を本名は空中で受けた。
冷気の圧縮、大砲は本名に触れることは無かった。が、余波に吹き飛ばされ民家を破壊して叩き落とされた彼の半身が氷漬けになっている。
強固な意思で苦鳴も出さない本名はしかし起き上がることができない。
ぐちゃぐちゃになった子供部屋に倒れ、天井の穴から舞い降りる雪を見た。
そんな本名が降り落ちたのを見ていた神子が、青い顔で惨状を見下ろした。
「なんなのよ、なんなのよこれ! 無茶苦茶じゃない!」
今の一撃は、町に吹き出された後、自らの勢いに振り上げられたように空へ軌道を反らしていた。
空にはその勢いから、雲が掻き消えた部分がある。曇天に穴が開き晴天が見える。
そして直撃を受けた町は文字通り掻き消えていた。吹き飛んでいた。
人類の築いたものは破壊され、その下の大地は色味を失い凍り付いている。
神子は本名が落ちた民家に降り立った。そこに、自ら登ってきた本名が出てくる。
半身は凍り、血にべっとりと汚れている。冷気で癒着した体を無理矢理はがしたのだろう。
「本名さん大丈夫!? てか、なんなのよあれ、邪龍王くっついちゃったし!」
「おそらく……強制的に操っているのだろう、海竜を」
その言葉を、耳元の空間穴で聞いていたブラウとロットは顔を合わせた。
「そんなことできんのかよ!」
『でき得る』
鳩の王が神妙に肯定する。
『無論リスクを伴うが可能である。見よ、邪龍王のあの姿、おそらく自分から融合を果たそうとしている』
「融合?!」
『自らの枠を捨て、文字通り一心同体になろうとしているのだ』
「いやいや待て待て待て。どーゆーこと?」
「あの飲み込んだ宝石、あれが海竜の意識、って言ってたな。てことは今は邪龍王が海竜の意志を決定する部位になっちまったってことか?」
巨体を揺り動かし、町を、それと足元で動いている狼王を潰そうとしている海竜を見上げる。
登頂の邪龍王は先刻よりも体が沈んでいる。融合が、深まっていっているように。
『邪龍王は龍王の中にいた意思の一つ。体は借り物で、もともと意識だけの存在であれば、我々肉体を持っている者よりもはるかに溶け込みやすいはずである。ただし邪龍王の特性を捨てることにはなるが、最強の体を得れば奴の目的が果たされるのは目に見えている』
「てことはようやく奴さんも本気ってことじゃん!」
先刻の破壊を目の当たりにしているというのに、ロットは明るく言いのけた。
その言葉にブラウもつられるように口角を上げる。
『止めよ獣王たち、そのテュラノスたちよ!』
『あのバケモノ相手か、やりがいあるガオーン!』
「今ここで全部終わるんなら、俺らが勝つ――!」
「うおっしゃあー!」
◆◆◆
久方ぶりの兄を見て、葵は言葉が出なかった。
だがそれとは逆に、真守は即座に行動を開始した。
ほんの一瞬、気づいたら少し後ろにいた刑務官の首に真守の腕がまわっている。
体勢を落とし、力をこめ首をひねる。
だがその手ごたえの無さに真守は怪訝と動きを止めた。
刑務官の首に見えないなにか、膜のようなものがまとわりついている。
そして見上げた弟の、橙色の髪と双眸。
真守は葵を刺激しないようゆっくり刑務官から手を離し、両手を上げて一歩下がった。
気を失ってしまった刑務官がその場に崩れ落ちる。葵が助けなければ今頃その首は真逆を向いていたが、葵は気絶させてしまったことに舌打ちした。
ぎろりともろ手を上げている兄を弟は睨み上げた。
たった今なんの躊躇もなく人を殺そうとした男は、しかし穏やかに人の好さそうな顔のままそこにいる。
「久しぶりだな、葵。背が伸びたな」
「…………」
「そちらのお嬢さんはお友達か? それとも――なんてもうそんな年頃じゃないか」
「…………」
「今何歳なんだっけなあお前、悪いすぐに思い出せなくて」
「もういい」
あっけらかんと語り掛けてくる兄の言葉を遮って、葵は声を振り絞る。
「もういい、そういうのは……」
「俺とはもう喋りたくないってことか」
少し残念そうに、哀しそうに真守は声を落とす。
その様に葵の激情が、瞬時に沸騰した。
兄との平凡な生活。それが奪われた衝撃。その時対峙した殺人鬼への恐怖。そこから変化した環境にじっと耐え、忘却と諦念に交互に襲われる日々。そしてようやく得た普通の生活。
その全て、乗り越えてきた感情の全ての原因が。
お前が! お前のせいで!
無我夢中で葵はそう叫びそうになった。
だが、
「葵」
と呼んでくれた龍王の一声が、激情の奔流を寸前で止めてくれる。
無意識に限界まで握り締められていた拳に自分で気づくことができた。
何秒かかかって、その拳を解くこともできた。
葵は長い溜息をつき、新しい空気を吸う。
そうして落ち着いた眼で兄を見据えた。
「違うよ……兄さん。今俺達が話すのはそういうことじゃないだろってだけで」
耳鳴りがしている。だが空気は静かで、緊張もなく続きを言える。
「俺は、兄さん――あんたを、異常だなんて思っていない」
その時真守の表情が変わった。
常に穏やかで人懐こく、人に好かれる雰囲気をまとう彼の顔が崩れる。
見た目ではなにも変わっていない。だが空気が凍った。
真守は葵を凝視したまま口を開く。
「俺はお前の前で善人を装っていた。だけどそれが虚偽であると告白し、お前に異常であると、その目と体に言われてもう普通には行けなくなったんだ」
葵は首を横に振る。
「違う。あんたは、悪だけど。恐ろしい人だけど。でも俺に善意を教えたのもあんただ」
「ああそうだ。だから俺は偽善者で、お前は善者だ」
葵はその言葉を、鼻で笑った。
「残念だけど兄さん、それは違う。俺は良い人間ではなかった。そうなりたいと思っていたけどそんなことはなかった。善意を貫くには強さもいるんだ。俺にはそれは無かった」
「そんなことはないだろう」
瞬きもせずに、殺人鬼は自分の育てた善意をじっと見る。
葵はその目を見て更に笑った。
「覚えてる? 俺がガキの頃の話、俺の暴力を止めてくれただろ。あれは間違いなく正しかったよ。あの時俺は他人の気持ちを考える、弱さを知ったんだ」
「弱さだと?」
「あの時から俺は普通の人間になれたんだ。正しさを遂行できる強さもなく、悪を行うまっすぐさもない普通の人間にね。それをあんたは善者だっていうけど、そんなわけねえ。人間は善くも無いし悪くも足り無い。あんたが育てたのは普通の人間。俺に善意があるなら、世の中全員にそれはある。それはあんたにもだ、新野真守」
強い視線で葵は真守を直視した。
「あんたはただ、社会に不適合になっただけだ。善意ある人間にもなれたし、なれるんだ」
はは、と乾いた笑いを真守はこぼす。
至極落ち着いているようにしか見えないが、そんな笑いを出した姿に葵は彼の狼狽を見た。
「葵、俺を普通の人間にしたいのか」
「なれるよ兄さん。元々はそうだった」
「そんなこと……」
真守はしばし床を見つめた。おそらくこの元殺人鬼は、たったこの一瞬で思考を巡らせ、言葉を紡ぐ。およそ人が抱える逡巡や迷いに時間をとらない。
それこそが彼の特性なのだと葵は思う。
善意を理解できないのではない、善意に左右されないだけなのだ。
「あんたはただ、強い人間だっただけだ」
「そうか、俺は……」
真守は不意にふっと笑みをこぼす。
「でも俺は悪人だろう?」
「そうだ。人を殺したんだからな。たとえそれが疎まれている人だったんだとしても。俺はあんたを許したくない」
「だったら俺は、善人に倒されるべきだ」
ゆらりと真守は一歩を踏み出す。その足は倒れている刑務官の頭すぐ横の位置。
黙っていた龍王がぴくりと警戒した。真守からははっきりとした殺意が漏れている。
ぴりぴりとした雰囲気が部屋に充満する。元殺人鬼は得意分野を今にも発揮しようとしている。
だが葵はなんの警戒もなく続ける。
「もうひとつ」
「ん?」
真守は首をこてんと傾げた。その無邪気さすら、彼の正体を知っている龍王からは冷ややかなものに映る。
「あんたを戻す方法。善意を理解してくれ、兄さん。そして自分で、その悪意の面を壊してくれ」
葵はようやく、なんの確執もない弟の顔で兄を見た。
「倒されるなんて、死ぬしかないなんて違う。死ななくたっていくらでも人間は変われるんだ。だから今から新しい一面を、自分の中に作ってくれ」
「それは、罪の意識でも持てと? そんなこと俺にとって一番、異常だ」
思わずといったふうに真守は失笑した。その笑いで雰囲気が崩れる。殺意が溶ける。
「酷い話かもな。異常になって、普通のフリを一生してくれって言ってるわけだ。それこそ死ぬくらい酷いかも。こんなに罪深かったら、最後もロクな死に方じゃないだろう。でもほら、こんなに変わった俺に今さら一般論を求めるなよ?」
葵の額に花開く、龍王のテュラノスのしるし。
それとともに発現した空気が人間である真守に動くなと命令する。
「得意ごとならやってみろ。俺に教えた善意の証明」
煌々と輝く橙色の双眸。瞳孔は針のように細まり、真守を冷徹に見つめる。
漆のようにきらめく鱗が部屋に充満した。
雄雄しいながらも優美な巨躯。葵と同じ色に輝く大きな瞳。
気づけば少女の姿はなく、葵を守るようにその龍は彼に寄り添う。
そしてあっと言う間にその場から消えてしまった。
残された真守はひとつ息をついて、椅子に力なく座る。
弟に言われた言葉が脳裏に響いている。
「普通の人間、か」
誰かに言われたかったのかもしれない、泡沫の夢。
隔絶していく世界と生きるためには自分を偽装しなければいけない。
「大変だ……」
言葉とは裏腹に真守はどこか気の抜けた様子で、刑務官が目を覚ますのをおとなしく待つことにした。
颶風となって空を駆ける龍王にまたがる葵は、無言だった。
龍王もまた悩んでいた。だが素直に感想を言うことにする。
『葵、君にとっての善の証明が、生きることになったことを喜ばしく思うんだ、僕は』
「そうか」
進行方向から目をそらさずに、葵は答える。
「それが喜ばしいなら、お前も絶対間違えるなよ」
『?』
龍はきょとんとして首をもたげたが、曇天を突っ切って飛び出した先、再び訪れた海辺の町を眼下にして続ける場合ではないことがすぐにわかった。
『これは……!』
町が最早ほぼ原形を成していない。
一直線に破壊された道があれば、その周りは氷で満ちている。しんしんと雪が降り、龍の吐息も白い。
「龍王、あれだ」
蒼い巨大な、山と見間違うような巨躯の怪物がいる。
龍王からの覇気が倍増し、葵の全身が昂った。その怪物の中から、懐かしい宿敵の気配の残滓が感じ取れたからだ。
『モナド、まさか海竜と融合するとは』
冴龍はぎりぎりとおそろしい牙を噛み合わせ、翼の先まで力をみなぎらせた。