自壊する種
海より現れた異様な獣は鈴のような軽やかさで鳴いた。
雷鳴が不穏に近づいて来る。空はたちまち黒く染まり、ぽつりぽつりと唐突に雨を降らす。
まもなくしとしとと霧雨が町を覆った。
巨大な獣はゆっくりと滑り上陸してくる。
「なんっだありゃ!?」
正面から冗談のように視界を覆う青い生き物が近づいて来る。
ロットは迎撃に身を固めるが、隣に降り立った狼王がその肩を叩いた。
「やめとけ、疲れるだけだ」
「狼王、ちょっとあれなんなのよ! 規格外じゃないのよ!」
二の腕を抱いて白い息を吐く神子がきいきい言うと狼王は正面から目を外さないまま答えた。
「海竜っていう化け物の一頭だな」
「化け物ぉ? 龍じゃなくって?」
「あれは龍とは違う。邪龍王の因子でもなんでもない、現実に発生する生き物だ」
「因子ではない?」
森の中、疲れきったブラウを支える三条が、本名に首を傾げていた。
「そうだ。破滅的な状況になるとああしてどこからか現れ、目的を遂げようとする。過去邪龍王と龍王が争う時、何度もあれが現れて、世界に大穴――混沌を開ける助長をしたようだ。自然災害のようなものだ、凶悪な」
「何故そのようなものが……」
「あれはおそらく、世界と世界をつなげるのが目的なのだろう。真意はわからないし興味もないが、邪龍王はあれを呼び出すため我々に亜龍をけしかけたな。ここに混沌を発生させたいのか」
海竜の間延びした咆哮が空を震わせる。
獣の進撃は近くなるたびに地面を揺さぶってきた。
「こちらの世界は我々のいた地下世界よりも脆い。海竜を放置すれば簡単にこの土地は崩落することだろう」
『そうはいかねえんじゃねえのかなあ』
大きな羽音ともにすぐ近くの木へ鴉王がとまった。
『龍王と邪龍王がいないとこで海竜が発生してんだぜ? 今までこいつぁ大穴開けたらどっかに消えちまってた。しかしここにはそれほどヒビが入ってない、今までのように簡単には混沌は起こらねえ。つまりは……』
「混沌という終息が起きない以上、海竜は際限なくこの世界を蹂躙する。邪龍王の狙いはそれか」
『そういうわけだ、ヒヒ。超めんどくせえが、この国の終わりくらいは見えちまうよなあ。こっちの世界は化け物に耐性がねえんだから』
三条が槍を握る力を強める。その双眸は普段の穏やかな彼のそれとはかけ離れ、熱く燃えていた。
その目を本名は、しるしの浮かんだテュラノスの眼で一瞥する。
鴉王は辟易して文句を垂れた。
『あーイヤだイヤだ、割に合わねえし土台ムリだぜ。海竜なんて神獣レベルのもんだろうよ』
「神獣ならばこちらにもいる」
本名はやおらポケットから眼鏡を取り出した。ノンフレームのレンズには大きくヒビが入っている。本名はそれをぽいと捨てた。
その捨てた眼鏡をふんふんと嗅いだ後、一口で食べ、咀嚼する大きな口吻がある。
雪よりも尚白い、どういうわけか降りしきる雨にも濡れていない大きな鹿が現れる。
天に向かって伸びた角は左右に大きく開いて巨大な影を落としている。
◆◆◆
葵が目を開いた時、そこは人でごった返した商店街の真ん中だった。
突然全身黒い格好をした葵と、橙色の髪に奇妙な服装の少女が現れて、すれ違う人たちが驚いたり、ちらちらと見て囁き合ったりしていく。
「な……」
「葵、前!」
一瞬唖然としたが、前方の人だかりの中に同じく橙色の頭を見つける。
「邪龍王!」
厳しい形相で進むと同じく邪龍王も進みだす。奴は不敵に笑って人の波をすいすい進んでいく。
「待て!」
「おいおいこんなところでなにをする気だ?」
葵の大きな声に幾人かが仰天して道を開けようとするが、隙間が無いくらいに通りは人で充満している。日本のどこか、観光地のようでともすれば葵も来たことがあるような気がしたが今は場所を特定する状況ではない。
邪龍王の軽やかな声に葵は人を押しのけ向かう。龍王もその背にくっついて同行する。
「お前こそ、なんのつもりだ?!」
黒衣にむかって手を伸ばす。指先が触れそうになった時視界は突如暗転。
一瞬の浮遊感の後、景色は一変した。
またも突然現れた三人に周囲が少しだけざわつくが、喧騒はすぐさま元通りになる。
「ここは……」
今度ははっきりとどこかわかった。
首都に建つタワーの中だ。四方に張り巡らされた窓から観光客が景観を楽しんでいる。
葵と龍王の数歩先で、邪龍王が望遠鏡をのぞいていた。
横を学生たちが笑い合いながら通り過ぎていく。
異質な存在になった葵と龍王は邪龍王を睨んで立つ。ここでは戦うことなど出来ない。
「有象無象が、よく増えたもんだ」
邪龍王はどこか楽しそうに望遠鏡から目を外し、横目で窓の外を見下ろした。
「ここまで増えるとは思わなかった」
わざとらしく肩をすくめ嘆く彼に葵が向かおうとしたが、龍王が静かに制した。
「モナド。決着をつけたい。君と僕の」
一瞬不愉快に眉をひそめたが、次には邪龍王は愉快気に口元をほころばせる。
「もちろんそのつもりだ。いつものように殺しあおう? 今度こそ終わるといいな」
対する龍王は静かに、哀しそうな顔だった。
「お前はもういい、過ちを正してやろうと思ってたが無駄だ。今度はその龍の体ももらおうか」
青年のまとう空気が肌の上を這うようだった。怖気に反応して、葵はモナドへ跳びかかった。
またもぱっと瞬時に景色が変わる。
一面の青空を自覚した時。うっすら笑う邪龍王を残してまっさかさまに落下した。
どっと黒い鱗の背中に落ちる。
大きな翼をはためかせて、自らのテュラノスを乗せた龍王は空を飛び、邪龍王に対峙する。
日本上空、吹きすさぶ風が葵の髪を揺らす。くすんだ金髪が染みるように橙色に変わっていく。
しるしを額に浮かび上がらせ、跨ぐ冴龍と同じ双眸を龍王のテュラノスは浮かべる。
空中に立つ黒衣の青年は、笑った表情を崩さない。
「どうしてそう真っ向から俺に立ち向かえるのか、本当にわからねえ奴らだな」
(それがわからないから、こうして戦うしかないんだ)
「お前と俺はな。だけどそこのテュラノスは違うだろ。お前は人間の悪性を知ってる、体験もしてる、なのになんで救う側にいるんだよ?」
純粋に子どものように不思議がる邪龍王に葵は真摯な眼差しを向けた。
「お前だって、優しい人に会ったら守りたいって思うよ」
「は?」
葵の言葉に邪龍王は目を丸くした。
「モナド、あんたの言い分は俺には確かに少しわかる。それは俺が人間だったからだ。人間だってみんなわかってるんだよ、俺達にどうしようもないところがあるってのは」
「その通りだ。お前らは」
瞬きもせずに、崇高な龍は告げる。人の一生の何倍も生き、人を愛する者も憎む者も見てきた眼で葵を直視して。
「もうずいぶん前に自滅する方法を自らの手で作ったよな。この国で試し打ちだってとうにすませたな? その時から全くだ、全く! こりずにまだ素知らぬ顔で、わからない振りをして。惰性にも程があるぞ人間。同士討ちなら地獄でしろ」
葵は反論もせず黙ってその言葉を受けた。
(それでも僕はお前を否定しよう、モナド)
「何故だ!」
(僕は人が隣人を気づかう姿に感動する。笑顔でなんでもかんでも乗りきるのを尊敬する。母親が愛しいし子どもは可愛い、おばあちゃんおじいちゃんは応援したくなる。つまりはそういうことさ)
にやりと笑んだような声。
冴龍はゆっくりと翼を広げる。まるで愛しい全てに両手を広げるように。
(明日があるってすばらしい!)
邪龍王は鼻で笑い、しかし対峙する四つの橙色を眩しく目を細めて見た。
「その美しさを持っている内に死ね、人間」
(抗おう。笑ってね! いこう葵!)
「ああ!」
邪龍王は唐突に自らの手に噛みついた。そこからあふれた血液が翼のごとく広がり、青年の体を包んでいく。赤黒い龍に似た外殻が、口腔を開けて突撃してきた。
龍王も空を駆り龍と龍が空で絡み合う。羽を打ち合い、がちがちとお互い凶暴な歯を噛み合わせる。
空はぐるぐる回り、押し合い離れてはまたぶつかり合う。
血の龍がその翼を振るうと、弾丸となって降り注ぐ。龍王は彗星のようにその雨をかいくぐり飛翔する。
弾丸は指向性で龍王を追いかけ、葵が生成した水晶の弾が放たれ相殺、空に散る。
その正面から雲を割って邪龍王は龍王に体をぶつけた。外殻の内側からくぐもった声が聞こえる。
『今頃お前らの仲間たちは町ごと氷漬けだろうよ!』
「氷漬け……?!」
(海竜か! 関係ないはずだろう、その町も、人も!)
『そんなことは俺の眼中には無い!』
血が固まってできた尾がしたたかに龍王を打つ。それに押し戻されつつも冴龍は吠える。
(僕たちを相手に慢心するなよモナド!)
『するに決まってるだろうが! ……!?』
血の壁の隙間から、青年の目が見開かれるのが龍王にも見えた。
その龍王の背中にテュラノスの姿が無い。
血の装甲、長く揺れる尾が根本から断ち切られた。
滑空する龍王に降り立った葵の両手には双刀が握られている。
「慢心上等、有難いね」
にやりと笑った葵に、邪龍王は憤怒の咆哮を上げた。