フォール・オア・ライズ
かぽーんと呑気で、その場には定番な音が脳内で再生される。
葵は他の面々に背中を押され、内心心臓をばくばくさせながら銭湯の引き戸に手をかける。
営業時間外のため扉の向こうは暗く、のれんも出ていない。しかし煙突などの出で立ちがどう見てもこの場を銭湯と主張してくる。
だとしたら人が中にいるだろう。そこにこのおかしな風貌の面々が入っていいものなのか。
そして風呂にのんびりつかるのか?
世界を破滅に導こうとしている邪悪な龍を追う一行が、だ。
「さっさとしろ」
「おおお?!」
ぐるぐる悩む葵の背を狼王が力いっぱい蹴りつけた。
騒音とともに扉は破壊、葵とともに板張りの床に放り出された。
「うわあああ壊した、壊した! すいません!」
「誰に謝ってんだよ」
ロットが指を差して笑い、全員ぞろぞろと入ってくる。
正気になった葵はきょとんと中を見回した。
「あれ、誰もいない……」
古風なつくりの銭湯だ。入ってすぐそこに番台があり、あとは大きなしきりで中を二分されている。すなわち女性と男性の脱衣場として。
ちちち、と雀が番台に飛び移る。
――もうだれもいない。すきにつかう。
「もうって、前は誰かいたってこと?」
龍王の問いに雀がしきりに首をかしげるだけで答えない。
「んな鳥頭にわかるかよ」
と鴉の王が本人はどうなんだというような台詞を吐いた。
雀は飛び立ちがらんどうの入り口から去って行ってしまった。
「今のは誰かに命令されてたんだろうよ、こっちにいる獣王かテュラノスあたりに」
「獣王ってみんな混沌の下にしかいないんじゃないのか」
葵が目をむくと鴉の王は豪快に嘲笑した。
「ヒャハハ! んなわけねえだろぶぁ~か!」
「…………」
葵はぐっと拳を固めるにとどめた。
見かねた神子がため息とともに付け加えてくれる。
「地上に干渉する王は結構いるものよ。ほら、前言ったみたいに地上出身の王もけっこう居るもんだから」
「なにが良くてこんな窮屈な世界に帰るのか全然わからねえがな」
「あー、ともかくこの銭湯を教えてくれたのは味方ってことでいいのかな」
ふん、と今度はいくらかまともに鴉の王が答えた。
「ああいうなんでも染まりやすいのはどんな奴でも簡単に操れる。が、まあさっきの小っこいのは正気だったからな、邪龍王のクソじゃねえのは確かだゼ?」
「とりあえずここを拠点にしても問題ない、のか」
「えーっとそれって」
神子と葵が目を見合わせる。おそらく同じことを思ったのだろう。しかし少し言いにくい。
それを察したわけでもなく、龍王はにこにこして二人の気持ちを偶然代弁した。
「じゃまずお風呂でも入ろっか」
銭湯の利用客の忘れものか、男物の衣類がいくつかあり、男衆は一部嫌々ながらも現代のそれに袖を通した。
風呂には入らず、壊した戸は直してきた。
そして憮然として葵は今、コンビニで食べ物を見ていた。小さな溜息が漏れる。
「葵、そんなに風呂に入りたかったのだな」
「違う! ひどい誤解だから」
葵は三条の意見を大真面目に否定する。葵は黒、三条は青のシャツを着て下はジーパンを履いている。混沌に落ちる前は当然のようだった格好が、なんだかとても懐かしく感じた。そして三条は恐ろしく似合っていない。
「いやこんなことしてて大丈夫かなって」
「我らの王を信じよう、邪龍王の居所が知れた時すぐさま動ける準備をするのが、我々隷属の仕事だ」
「それはそうなんだけど。いや、俺の王は今頃……」
葵が遠い目をすると、商品を両手に抱えたロットが盛大な溜息をついて現れた。
「あーあ、俺も神子たちと風呂入りたかったわー」
「お前はほんとあけすけすぎだから! てかなんだその量! 菓子ばっかり、買わねえぞ!」
「えー! なんだよニイノのケチ野郎! 龍王のテュラノスのくせに!」
「それは今全然関係ねえしでかい声で言うな馬鹿!」
「お前ら二人ともうるせえよ」
白熱する葵とロットの頭に手刀を落としてブラウが三人目の溜息をつく。
一見すると双子にしか見えない彼らは、色違いの縞模様のTシャツに短パンという余計に双子にしか見えない格好に身を包んでいた。
なにも知らない他の客や店員から見れば、日本人二人に外国人二人の一行にしか見えないことだろう。
それだけでもなにかと目を引くが、それはもう仕方がない。
適当に食べ物、主に王が食べるためのものを買い込む。
「スーパーだったらもっと良かったけど、どこにあるかわからないしな」
「上から探したら一発だろ?」
「この世界じゃ建物の屋根に勝手に上がっちゃだめなんだよ覚えようね」
棒読みでにっこりとロットに釘を差す。
会計を済ませ店を後にする。時刻はようやく朝の出勤時間といったところか、車の通りが多くなりはじめた。
ここは沿岸部の田舎の町だ。古い民家が並び、狭い道をゆるゆると車が通っていく。
銭湯への帰り道、葵は憂鬱な気持ちを拭えない。
龍王の風呂の提案に猛反対するかと思った神子が、赤面を隠さず肯定したことに驚いた。
土砂降りの雨や潮風にさらされた少女の気持ちまで葵はわからない。
加えて風呂に入る神子についていった龍王の気持ちはもっとわからなかった。
想像すると頭を抱えたくなる。
「あー帰りたくない……」
「? 帰ったら念願の風呂に入れるぞ葵」
「いや違うんだよ、いいよな虎王はヒトの姿がなくて」
「テュラノスを喰うことで姿を得るのならば、虎王様も一人持っていることになるな」
「あ、そっか」
銭湯に戻れば思わず買ったものを落とす葵と、三条がいた。
のぼせ上がったばかりではないその尋常じゃない赤面、いや最早全身赤く茹であがった神子を介抱している女二人。
一人は龍王、姿は橙色の長い髪をした少女だが、実際は巨大な黒い龍だ。オスである。
そしてもう一人、見たことのない女がいた。葵よりもいくつか年上に見えるすらりとした長身の、どこかで見たことのある顔をしている彼女。
三人の女は皆一様にタオル一枚でその白磁の肌を包んでいた。
仰天して固まる葵に気づいて、龍王はばつが悪そうに笑った。
「やーちょっと悪戯が過ぎたみたい、紅花が銭湯ではしゃぐからつい虎王と二人でからかっちゃって」
葵は物凄い速さで横の三条を振り仰いだ。
三条は驚いた顔をかああっと赤く染める。
「こ、虎王様……」
「纈誤解するなよ、俺は龍王にそそのかされたにすぎん」
「ちょっと虎王それはひどいじゃないか! 全部僕のせいみたいに聞こえる! 葵違うよ、いかがわしいことなんかしてないんだぞ?」
「だー! もういい喋るな! さっさと服を着ろ!」
王二人が言い訳にあわて、纈は固まり、葵は怒鳴り散らした。
それと同じ時、本名はホテルを後にしていた。インターネットで最近の事件事故について確認した後だ。
どこからともなく狼王がその横に降り立った。
それを横目で見つつ、本名は眼鏡を外す。
そこは片側が急な斜面でそのまま山に面している。人気のいないことを認め本名は軽い動作で山に入った。
「おいいいのか新野たちに知らせなくて」
後を追ってきた狼王の揶揄に本名は不愉快そうに眉をひそめる。
「平和は一時だ、邪魔をするのも悪い。それに私の目的は龍王のテュラノスを現代に返すことだった」
「おう、馬鹿な願いだ。テュラノスになった時点でもう決まってるのに、そこから逃げて幸せに生きる? 無茶言うなよ、お前らはもう死んでるんだ、今さらヒトとして生き返れない」
「それはもうわかっている」
まっすぐ前方を見据える本名に狼王は鼻白む。
「この国に戻っても新野葵は全く感傷的にならない。彼は日付を見て自分がどれだけ地下世界にいたか確認もしなければ、この世界を懐かしむことばかりでまるで別世界のように見ている。もうあれはテュラノスとして固まっていて、今は邪龍王を討つことしか考えられない生き物に成り果てている」
「それが自然なんだよ。二年前でもうわかってるだろ?」
「それで二年前、龍王のテュラノスはどうなった? お前のテュラノスはどうなった?」
「新野だけの特性みたいに邪龍王は言ったが、お前も結構テュラノスのくせにテュラノス嫌いだよな」
「私の場合は、巻き込まれた半端者が運命に落ちるのは不釣合いだと思っていただけだ。もうあれは釣り合いがとれている」
「あーそういうことか」
木々の隙間をぬって斜面を登りきった本名が足を止める。その眼下には大きく窪んだ、半円状の地形があった。綺麗に山が、スプーンでくりぬかれたような跡。
原因不明の爆発音とこの地形が確認されたのは、本名たちがこの地に降りる前日のことだ。
町が寝静まった頃に起きたこの事故での死傷者は一名、と一羽。
唯一の銭湯を営んでいた店主の男とそのペットである兎だった。
何故彼が兎を連れて深夜山に入ったか誰もわからない。不愛想で付き合いが悪かったらしい。
しかしそれがどんな秘密を抱えていたのか本名ならばわかる。
「こういう時のために地上にいたのかもしれないな」
「それはどうも、有難いね」
にやにや笑む狼王も本名と同じく眼をぎらぎらと怒りに燃え上がらせていた。
その二人の眼が窪んだ大地の中心に立つ者を見下ろしていた。
「よっ」
まるで友人に出会った時のように、その男――邪龍王は片手をひらりと上げてみせた。