夜の底
神子の肩に降りたカラスは飛び上がったと同時に鴉の王のくちばしに捕まった。
そしてそのまま一飲みに咀嚼される。
ごくりとカラスが化け物ガラスに飲まれる様を見て、龍王と葵がぎょっとする。
『目線がうるせえぞそこのタッグ』
「今のカラスは元々こいつの体の一部だから、無為に眷属殺してるわけじゃないわよ」
神子の補足に龍王と葵が胸を撫で下ろすので鴉王と狼王は同時に舌打ちしていた。
「では」
気を取り直して、橙髪の少女が一歩前に出る。
その体積が膨れ上がると漆黒の鱗に包まれた冴龍の姿となった。
(ぎりぎりだけど、さあどうぞ)
神子の背中には翼が出て、男と獣たちだけが窮屈そうに羽毛と鱗の背に分かれて乗り込んだ。
『大サービスだぜくそ野郎ども』
(落ちるかどうかは自分たちで調節してね)
「不親切なタクシーだな!」
(行くよ!)
ぶわりと大気を取り込んで、一羽と一頭が両翼を広げ羽ばたく。
神子の先導に続いて空を登ると、厚い雲に覆われた空が一部見える。
そこにたどりつき冷たい水の粒子の中を進むと、茶色い建造物が見えた。
雲の中に巨大な筒がそびえたっている。
ぽっかりと穴を開けて大地と垂直に浮かぶ筒。
「これが塔隧道か」
「でっけえトンネルだな!」
「ていうより土管だろ。馬鹿でかい」
いったいどういう理屈で浮いていられるのか、筒の上は雲に隠れていて全容が見えない。
穴の真下まで来て神子と鴉王に続いて龍王も薄暗い穴の中を真上に飛んで行く。
隧道は木製で、たくみに組み合わされた木々の壁には綿密な模様が彫ってあった。
どこか厳かな雰囲気をたたえた塔の中、翼をかすめないよう速度を落としつつ飛んで行く。
壁にはおうとつがある、出っ張った部分を見ていて葵はふと思った。これは足場として使われていたのだろうか。
「もしかしてこの隧道、人間がつくったのかな」
「鳥類のテュラノスたちが長年かけて建てたって聞いたわ」
隧道の中に神子の声が反響する。どこか少し緊張しているようだった。
彼女はこれから故郷に戻るのだ。いつか聞いた、彼女がテュラノスになったばかりの頃の話を思い出す。
一度帰った時神子は誰にも会わずに異界に戻った。
しかし今回は真っ向から帰るのだ、心持は全く以前と違うが。
数分間静かな時間が過ぎる。
「長い」
ロットが誰もが思っていても口に出さなかった感想を遂に告げた。
その時神子の声が響く。
「見えた!」
速度を更にゆるめ、鴉の王の巨体が止まる。龍王は浮遊し順番を待った。
やがて鴉の王がヒトの姿に変わり、背中の面々ともども真横に消えていった。
龍王も続く。
背中の葵はそこに見えた巨大な扉を眼前にして息をのんだ。
扉は開き、長い廊下がまっすぐ続いている。金と赤に彩られた提灯がずらりと廊下を飾っており、光が灯されていた。
久方ぶりの床に足をつく。龍王も少女の姿になり葵の横に並んだ。
「行きましょ」
神子が、廊下の豪奢な飾りに目を奪われているテュラノスたちを促す。一行は言葉少なく出口に向かった。
「なあここもう異界なの?」
ロットとブラウだけではない、三条もきょとんとしている。
「あっけないけど、そうなんだろうなあ」
「穴でつながってるってどうなんだよ」
「だがテュラノスと王以外ではどうあっても通過できない」
本名の言葉に慇懃に鳩の王が頷いた。
『である。付け足すならばその神秘の心髄に近い存在であれば良い。異界を感知し甘受できうる運命を宿していれば』
「よくわかんねーけど、テュラノスの特権ってことだな! やべえ楽しみになってきた」
ぶるぶると興奮を必死に抑えてロットが全身を揺らすのをブラウは鬱陶しいと罵倒していた。
やがて扉が見えて、神子がなんの迷いもなく開け放つ。
隙間から見えてくる世界。
葵も久しぶりの、元の世界。
そこは冷たい夜気に包まれていた。満点の星空に雲はなく月光も相まって周囲は見渡せるほど明るく感じる。
低い階段を降り、土の上に全員が立ち尽くした。
言葉が出ない。ロットさえも声を失っていた。
今出てきた建物は寺院のような造りをしている。それを半円に囲むように建ち並ぶ家々がある。
いや家々があった、と言うのが正しい。
一階建ての家屋は全て台風が過ぎ去ったかのように倒壊していた。屋根の瓦や木の壁、生活用具が散乱し無残な姿が闇夜の中ひっそりと広がっていた。
「神子! これ――」
深刻に声を投げた葵は神子の落ち着いた表情に動きを止めた。
「大丈夫」
毅然と答える少女の背後、倒壊した村の奥から人影が現れた。
十数人の屈強そうな男たちだった。
一様に長い裾の衣装を身にまとっている集団から一人の青年が歩み出した。彼は一番小柄で細見だったが、纏う雰囲気は一番落ち着いていた。
青年は手を組み頭を下げる。
神子はそれを静かに受けて、小さくにいさまと口の中で呟いた。しかし次には冷静に発言する。
自らを飛燕の王と名乗り、少女は礼を取り続ける青年に下す。
「大燕家、一族たちに御援助をお願いします。我々獣王の宿願を果たすために」
青年も間髪入れず伏したまま答える。
「勿論でございます。永年の御厚遇にかえましてお役にたちますのが我らが悲願でもあります」
「ありがとう」
少女の横顔は少し寂しそうだ。
葵だけでなく誰もが言葉をはさまなかったが、龍王がすっと前に出た。
「こんばんは、僕は龍王です、初めまして」
場の空気が一瞬硬直した。
神子は目を真ん丸に見開いて龍王を見つめ、礼を取り続けるも青年も動揺を全身で表していた。
「こらこらお前なんで空気をぶち壊した?!」
葵が羽交い絞めするももがきながら龍王は反論する。
「えー、だって君たちホンファの家族でしょう? さっき聞こえちゃった、君はお兄さんなのかな? なのになんだかぎくしゃくしちゃって、もっとハッピーに行こうよ! 再会のハグくらいしちゃったりなんだり。恥ずかしいなら僕らどっかにはけてるから」
「よしもう黙れ今すぐ黙れ!」
葵は龍王の口を無理矢理ふさぐが時既に遅すぎる、先刻までの儀礼的な雰囲気は完全に破壊されていた。
ぽかんとしていた神子が気を取り直して大きく息を吐いた。
「あー、なんかそうよね。そう言われるとほんとそう。でも少しはかっこつけたかったってのもあるの」
唇に人差し指をあてて少女は微笑む。
必死に失くしていた表情が戻り、いつもの神子らしさが現れる。
「てことで兄様、皆、ただいま!」
満面の笑みとともに、少女は軽く地を蹴った。
そして青年の胸に無理矢理飛び込み抱擁する。青年は大いに慌てた。
「こ、こら紅花! はしたないだろう」
「なーによもう遅いっての! 久しぶりの兄妹の再会でしょ、可愛い妹が帰ってきたのよ素直に喜びなさいったら」
ころころと弾む彼女の声を聞いているうちに青年の態度も次第に緩んでいく。
顔を上げた彼の顔は葵が見るに確かに神子に似ていた。
「よろしくホンファのお兄さん」
葵の腕の中でぷは、と息を吸ってから龍王も破顔して挨拶する。
青年は妹を抱いたまま、すっと背筋を正す。
「遠路はるばるのお越し、誠に痛み入ります。青共と申します。このような所ですが、ともかく今夜はお休みになってください」
「お休みにって廃墟じゃん」
つい本音を漏らしたロットの頭をすぱんといい音でブラウが叩いた。
青共はなにかに一瞬驚いた顔をしたが、すぐさままた落ち着いた態度に戻る。
「お恥ずかしいことに敵の襲撃を受けこのような醜態をさらすことになってしまいました。別に隠れ宿がございます。ご案内いたします」
「敵……」
ざわりと獣王とテュラノスたちに剣呑な雰囲気がたちのぼる。
「もちろん奴もこの塔隧道を抜けたのだから。隧道を破壊しなかったあたりが理解し難いが」
「誘ってんだろ」
本名は眼鏡を上げ、狼王はにやりと笑った。
一行は青共たちの案内に連れられて移動する。
神子は青共とともに破壊された故郷をしばらく眺め、別れを告げているようだった。
ここは深い谷間が連続する、切り立った山の中腹にあたるところだった。
冷気は肌を刺すようで葵の吐く息は白い。
その分空気は澄んでいて上空の星々は美しかった。
案内人は全員に綿のつまった上掛けを与えてくれた。
テュラノスたちは物珍しそうに着込むが獣王たちは辞退していた。
「そんなもん着たら暑苦しい」
しかめ面で狼王が否定したのでおそらくヒトの姿をしていても、狼王、鴉王、龍王たちにしたら寒さ自体を感じていないのだろう。
獣の姿である獅子、虎は最後尾をついて来る。案内人をものすごく戸惑わせ怯えさせる様相なので心持ち距離をとっているようだった。
小鳩の王だけが安穏とブラウの頭の上、彼の定位置でぴんと首を立てていた。
塔隧道の出入り口は崖っぷちに建っていて半分は霧に覆われている。
倒壊された民家から離れるとすぐさま斜めの山肌を歩くことになる。悪い足場を慎重に進みながら谷間を降りていく。
深い窪みの影の中に入ると真っ暗になっていき、案内人たちが松明を灯した。
ほぼ崖になっている斜面を進んだ先に、布が幾重に張られた空間が見えてくる。
「おお……」
木と布でできた簡易的な住居がいくつも谷間の奥に張られていた。
光が布越しにあふれ奥では多くの人の動きが見られる。
「みんなここに避難したんだな」
「はい。襲撃の前に紅花が報せの鳥を寄越してくれました。それがなければ犠牲者が出ていたに違いありません」
「良かった」
ほっとして龍王が相好を崩すので青共もつられて微笑んだ。
案内人は男ばかりだったが、一行の到着に気が付いて出迎えたのは老人も子どももいる。女たちがわっと声を上げて紅花を迎えた。
「母様!」
紅花が空を飛んで一人の女性のもとへ飛び込んでいった。
抱擁を眺める葵たちに青共は小さく言う。
「このような粗末な拵えで大変申し訳ございませんが、どうかお休みください。少しでもお疲れが癒されますようお世話をさせていただきます」
「ありがとうございます。こっちもなるべく迷惑をかけないようにしたいけど、どうかな」
葵は溜息を吐きつつ、同行者たちがいつも通り協調性もなく思い思いに行動し始めていることを背中で感じていた。
月夜の下、葵は龍王と二人同じ幕の中にいた。それぞれも分かれて違う幕に通されたが、神子は村の女たちの幕下に行った。
時折女たちのはしゃいだ笑い声が聞こえてくる。
ろうそくの光が幕内をゆらゆらと照らしている。
「邪龍王はどこに行ったかどう探すんだ」
横になった少女に声をかける。
龍王はふふんと含んだ笑いをした。
「それはもう対策済み。君らがトロントで暴れてた時紅花と決めておいたんだ。今世界中の鳥たちが口伝えに広めて、探していてくれてる」
広大な範囲の計画に葵は思わず感心した。
「銀に手伝ってもらうのが苦労したよ」
「そういや文句なくついてきたな。どんな手を使ったんだよ」
「相応以上の報酬を約束しさえすればだいたいはその時の気分で簡単に頷いてくれる」
「だからいったいなにを……」
「聞きたい?」
昏い笑みを肩を揺らしながらこぼす主に葵は息をつめた。
「なんか怖い……」
体を引いた後ろで唐突に布が引き上げられたので文字通り葵は飛び上がった。
「うお! びっくりした!」
後ろに首をめぐらせれば三条が息まいて立っている。
「纈どうした?」
「葵、龍王様大変です。邪龍王の行先がつかめたと鴉王様が」
がばりと葵も龍王も立ち上がった。
「どこだって?」
「それが、ニホンというところらしい。ここではないが近くの国らしいが――」
三条の続く言葉が耳を素通りしていく。
龍王が葵の裾をきゅっと握った。
葵は厳しい顔で視界にいない、遠い故郷にいる敵を睨んでいた。