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獣のテュラノス  作者: sajiro
狭間/新野編
125/147

偽善の証明

 翌日のことだった。

 起き抜けに朝日が眩しい、そんな晴れやかな日に兄は先に起床し朝飯の支度も終えていた。

 訝しみながらたまにの休みだと有難く享受していると、

「今日は学校さぼってくれ」

とやぶからぼうに言ってくる。

「なに言ってんの?」

「いいだろ、たまには。俺だってそうしたい日もあるさ」

「俺は全然いいんだけどさ」

 むしろ保護者公認で休んでいいようなものなのだから、葵は上機嫌で承諾する。

 しかしこれといって予定していたこともないのか、兄は散歩に弟を連れ出した。

 近所の顔見知りの商店をのぞいたりするたびに笑顔が兄弟を迎える。

 なかでも中年のおばさま方に真守は支持を得ているらしく、わざわざ寄ってきて世間話に花を咲かせることも多々あった。

 わが兄ながら慕われているなあ、と弟は嬉しさ半分口惜しさ半分と複雑な感情に笑っていた。

「で、いったいなにが目的なんだよ」

「えーとだな、どう言おうかちょっと迷っててな」

 買ったアイスを食べながら、葵は立ち寄った公園でブランコに座って見た。

 子どもの頃よく遊んでいた場所だが、今となってはもう訪れることもない。

 今見える景色も子どもの頃に比べて全く違ったものに変わっている。

 苦笑まじりに頭をかく兄を尻目に、葵は昔を懐かしんでいた。

 今では廃棄され跡形も無くなった遊具で、葵が大怪我をしたことがあった。原因などは覚えていないが、血を流して泣く自分を兄が颯爽と家に連れ帰ってくれた記憶がある。

「公園、けっこう様変わりしたんだな」

 葵が言うと、真守も懐かしむように辺りを見た。

 子どもの頃は広かった敷地も今では手狭にしか感じない。

「よく遊んだな、ここ」

「まあね。楽しかった」

 ブランコから立ち上がり、ゴミを捨てる。

「さみーし帰ろうよ」

「なんだあっさりだな。感傷にひたっていたんじゃなかったのか」

「こんな近所いつでも来れるし。それに俺はまだそんな歳くってないよ」

 先に公園を出ると、兄もついてくる。他愛ない会話をして帰路についた。

「で、そういや俺になんか言いたいんだっけか? えーと、もしかして結婚、とかじゃないよな」

 葵が少し緊張して切り出すと兄は盛大に吹き出した。

「なんだ違ったか」

 若干ほっとしつつもあまりに笑われて憮然とする。

 まだひかない笑いにひきつりながら、真守は手を振って否定した。

「ないない、こんな人間好きになるなんて物好き」

「こんな人間って言うほどでもないだろ」

「そうかあ、人殺しだぞ?」

「なにそれ。なんかの比喩?」

「あ。言っちゃった」

 笑いながら言ってくるので、それにつられて葵も笑うが、兄の目が見たことのないものになっている気がして反射的に直感した。

 これが冗談では済まされない事態であることを。

「え、なに。え?」

 乾いた笑いで場を取り繕うとする葵とは裏腹に真守は口を閉ざす。

 しんと冷えた空気が襲い掛かる。思考を停止した葵はただ影のように真守についていき、家に戻った。

 まるで家の中が冷蔵庫の中のようだ。

 無音が耳の中に木霊する。床板が鳴る音にはっと我に返り、兄に続いて玄関を上がった。

「お茶でいいか?」

 リビングに入りいつもと変わらない様子で声をかけてくる真守。

 しかし葵は棒立ちのまま、揺れる目で床を見つめている。

 二人分冷茶をつぎ、テーブルにおいてもそのままの弟を兄はふっと笑う。

「とりあえず座れ、な?」

 示された向かい側にのろのろと、浅く座る。

 葵はびっしょりと冷たい汗をかいていた。小刻みに体が震えている。

 まだなにも聞かされていない。しかし内容がどうあれ、これから訪れる悪夢はもう葵の中では始まっていた。

「家族だからわかるかと思ったが、全然気づかなかったな」

 テーブルに肘をついて今までとなんら変化のない調子で兄は声をかけてくる。

「うん、なんて言ったらいいか。でもまあもうわかったかな、俺なんだよ」

 なにが、と聞かずともわかる。

 唐突すぎる。

 兄の痛いほどの視線を感じた。

 葵はその目だけは見ないように、声を振り絞る。

「うそだ……」

 真守は嘲笑した。とても演技がかった、それこそ嘘のような仕草だった。

「まあ無理ないよな。じゃあそうだな、どうするか」

 おもむろに立ち上がって兄は台所へと向かった。

 すぐに帰ってきた彼を視界に入れて、葵は椅子を派手に転がして立ち上がる。つまずきそうになりながら恐怖のままに三歩兄から離れた。

 兄は包丁をぶら下げていた。

「えっと、おとなりさんとかだとまずいな。知らない人のほうがお前の後味も悪くならないか?」

「な、なに言ってんの、なに言ってんの!」

「こらこら大きい声を出すな」

「やめてくれよ! 嘘、だって、兄ちゃ」

 包丁が勢いよくテーブルに突き立てられる。錯乱しかけた葵もぴたりと口を止めた。

 よほどの力で突き立てられた包丁は、手を離してもまっすぐ刺さっていた。

 鈍い光が葵の胸を深く傷つけてくる。

 動機が激しくなり目に涙がこみあげるが、呼吸は浅くなっていく。

 それとは真逆に至極落ち着いた真守が唇に人差し指をあてた。

「葵、静かに。な?」

 葵は大きく震えた。

 何度も見た夢の中、凶器を持って幼い自分の手を引く人物の顔が、靄が晴れて見えた。兄だったのだ、夢の中、遠い記憶に出てきていた人物は。

「嘘。それ、じゃあ、ずっと前から」

 震える足で立っているのも限界になってきて、葵がふらふらと床に座り込んだ。

 夢の内容をはっきり思い出したわけではない。

 ただ自分が小学校に上がったばかりの時の記憶だという確信は持っていた。

 いったいその包丁でなにをしたんだ、と聞くことはできる。ただそれをして説明されてしまえば、壊れるのは自分のほうだ。

 自分を守るために、葵は兄に問いかけることはできなかった。

 恐怖と驚愕に全身が張り詰める。

 それと頭を麻痺させる絶大なる失望感。

 目の前の兄は怪物だった。


 呆然自失となった弟を真守は観察するように見ていた。

 逃げだすかと予想していたが外れてしまった。

 眼前に兄とはいえ凶器を携えた殺人鬼がいるというのに、事態をつかめていないのだろうか。

 それとも兄だからなのだろうか。

 真守は生まれた時から善意というものに共感することを難しいと思っていた。

 理解もできるし、納得もできたが、それを自分の内側から生み出すことは非常に難しかったのだ。

 しかし幼心にそれを露呈したら人間の社会では生きるのが困難になることを肌で感じていた。

 ともすれば悪意なく悪行をしてしまいがちだが、運の良いことに真守には弟がいた。

 弟は真守と違って善意を理解し共感し生み出すことができる、多くの人間の内の一人だった。

 真守はあることに才能があった。

「俺の特技なんだ、善意ある人間に振る舞うこと。いい子でいること」

 淡々と告げるとぴくりと弟が反応する。

 どうやら聞いてはいるようだ。

 真守は更に続けた。

「善人ぶることは誰よりも完璧だったと思うよ。でもそれが本当の善意でないことは俺だけがわかってた。じゃあ善意ってのは本当にあるのかな、葵」

 問いかけには弟は反応しなかった。ただ目を見開いて聞いている。

「他人もみんな俺のようだとしたら、この世に善意ってのはないわけだが。でもお前を見てて、生まれた時からずっと見てて思ったんだ。善意はありそうだ、ってな。お前は優しい、いいこだったよ。俺とは違って本物のな」

「おれ……」

「思いつく限りで最悪だと思ってね、同族殺しを実践するほどの悪なわけだが、俺は。善人のお前を育てられたんだ。完璧な偽善って善と変わらないのかもしれない。いや、それはないか。悪行は本当だしな」

 ともかく、と真守は晴れ晴れとした声を上げた。

「葵は善人だ。それが確認できたからもういい。善意ってのがやはりあるなら俺は偽善者だ。気がすんだから、お前が言うよう自首するよ」

 葵がはっと顔を上げた。

「自分のけじめがつけられないような人間なんて恥ずかしいからな。じゃ行ってくる」

 ひらひらと手を振って真守は玄関に向かう。扉を開けた時、弟が追いかけてきた。

 振り返っても声を振り絞ろうとするも、葵はなにも言わなかった。

「まあ心配するな。俺はいい子ぶる天才だからな」

 相手を安心させる笑みを浮かべて、真守は自宅を後にした。


 それから、葵はリビングに座ったまま過ごした。

 電話は鳴っていたし知らない人間も多く家を出入りしたと思うが、嵐はほんの一時だった。

 葵の日常はたいして崩れはしなかった。真守が最後に言ったとおり才能を発揮した故かもしれないが、そもそも葵に事態を正しく把握する機能が失われていた。

 気づいたら中学校は卒業して、高校生になっていたが学校に行かず、転校した頃ようやく葵は笑みを浮かべるようになった。

 張り付いた仮面で朦朧と過ごして高校を卒業してから、徐々に客観的に自分のことを考えるようになった。

 そして自分の過去を、他人の過去のように転換する術を身に着けた。

 ただそれだけ平凡の中に自分が戻れるたびに、まざまざと思い知らされる。

 処刑人がいかに完璧な善人の皮を被っていたか。

 兄は完璧に偽善である。

 それこそが今までの葵の、兄との日々を絶対的に否定し粉々に打ち砕いているのだった。


◆◆◆


「俺のどこが善人だ。ずっと気づかなかった! ずっと怪物を放置してた。それと暮らして、楽しんでた。俺には怪物と同じくらいの罪がある」

 そして敵わないと思っているからこそ自分の名を騙っていたのだ。

「アオイ」

 名前を呼ばれてばっと顔を上げると真剣な面持ちの三条がいた。

 全員静かに葵の話を聞いてくれていた。

 葵は今一度、空気を吸い込んだ。

「黙っていてごめん。俺は、罪を償うためにも善人になりたいんだ」

 ふん、と狼王は息をついてそっぽを向く。ブラウとロットも顔を見合わせた。

 神子は心配そうに葵を見ていた。

「あの、だったら新野お兄さんは、最初からそうだったと思う」

「神子……」

「ほんとよ。馬鹿みたいに優しかったの、誰かに言われたわけでもなくて、誰かに褒められるわけでもないのに」

「俺が、優しくしたくて、優しい人間になりたくてやってたことだ。馬鹿みたいなことばかりしてるのはわかってる。弱いくせに理想ばかり語ってるってわかってるんだ。でも目の前のことに気がつけないんじゃ、また同じことになる」

 まっすぐに顔を上げて葵は面々を見た。

「俺はどうしたらいいと思う?」

「わかってるくせに聞くなよ」

 ロットが意気揚々と腕を振り上げた。

「打倒邪龍王! 手始めにあいつからこらしめてやろうぜ!」

「手始めにってなんだよ」

 ブラウはすかさず突っ込みながらも、同意するように手を上げた。

 神子や獅子王も楽しそうにそれに続く。

 葵の背中を叩いて、龍王もにこにこと笑っていた。

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