主人公の名前
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小学生にあがった頃から新野は自分の名前が嫌いだった。
だから新しいクラスになった時、ある試みをしてみた。
自己紹介の時に、
「新野葵です」
と名乗ってみたのだ。嘘は言っていない、この花の名前でもある漢字は、たしかにマモルとも読める。
それから彼の名前はマモルになったのだ。
しかし幼い新野の、狭い世界でただ一人、彼をそう呼ばない人物がいた。
「マモル! 一緒に帰ろうよ」
「今日はだめ、皆じゃあなー」
クラスの仲間のブーイングを背に受けながら、ランドセルを担いで新野は颯爽と学校を後にする。
はやる気持ちを抑えて校門を出ると、見慣れた自転車を見つける。
自転車と一緒に待っていた青年が、手を上げて新野を迎えた。
「葵! おかえり!」
「ちょっと待って、それあんまり大きい声で言わないで」
新野が慌てると、青年ははいはい、と呆れて肩をすくめる。
市内にひとつしかない、高校のブレザーに身を包む青年は自転車にまたがる。
「ほら行くぞ、乗れアオイ」
「だからやめてって」
抗議しながら自転車の荷台に座ると、ゆっくりと発進する。
自転車をこぐ青年の短い髪が風に揺れて、同時に明るく笑う声も後ろに流れてきた。
「お前も変な奴だなー、自分の名前を隠すなんて」
「いいじゃん別に。女みたいな名前でかっこ悪いし」
「いいと思うけどなあ、葵って綺麗な花なんだろ?」
「疑問形かよ、図鑑見てみたら。――どうせなら真守が良かった」
「残念それは俺のもんだ」
横を向いて、青年はにやっと笑う。新野は嘆息する。
「いいよなあ兄ちゃんは。先に生まれただけなのに」
「全くお前は。名前なんて、関係ないない!」
明るく言って、真守はぐんとスピードを上げる。急な下り坂にさしかかり、加速。
乗ったこともないジェットコースターのようだ、と葵は笑いながら兄の背につかまった。
葵が小学校高学年になった頃、両親は仕事で海外に行ってしまった。
それからは兄との二人暮らし。しかしもともと多忙な両親とは会えないことも多かったので、今さら二人暮らしに苦難を覚えることは無かった。
親戚が様子を見に来ることも多かったが、ほとんどの家事は二人で分担していた。
しかしきっと、小学生の葵には知れないところで、高校生の兄が頑張っていたことは少なくないだろう。
金銭面は葵にはさっぱりだったし、保護者に渡す書類なども全部兄に渡していた。
葵の生活を支えているのは兄の真守だったのだ。
具体的には知らなかった、それでも自然とどこかで、兄には敵わないと思える。
それは確かな尊敬の念だった。
ある晴天の日。
葵は教室で友達と喋っていた。
唐突に女子の悲鳴があがって見てみると、クラスメイトの男子がなにやらふざけていた。
教室で飼育していためだかの水槽に絵の具を入れていたのだ。
男子生徒は女子生徒に非難されていたが、何故か自慢げに笑っていた。
先生を呼ぼう、と友人が葵に言っていた。
それに頷きながら、しかし葵は水槽を凝視していた。
綺麗だった水に赤い色がにじんでいく。
飼育はクラスの全員で行っている。だから誰もが知っていた、水槽の水はカルキを抜いて、「メダカが生きられる水」にわざわざしていることに。
気づいた時には葵はその男子生徒に思い切り殴りかかっていた。
あとは無我夢中でほとんど覚えていない。
かけつけた教師におさえられて、あれよあれよというまに違う教室でかんかんに怒られた。
そしてすぐさま兄が息をきらしてかけつけたのだ。
「ほんとにすいません! すいません!」
ほうっておけば土下座でもしかねない勢いに謝罪する兄に葵は憤慨する。
悪いのは男子生徒のほうだ、と。
教師がいなくなってからその主張をした時、今まで見たこともないような顔を兄はした。
「そうか」
静かで無表情に。いや葵には少し悲しそうに見えた。
気づけば夕刻になっており生徒は皆帰っていた。
教師となにか話していた兄が戻って来ると、葵の手をひいて誰もいない教室に戻った。
しんと静まりかえった教室は肌寒かった。
バケツに水が汲まれていた。あらかじめ真守が用意していたようだった。
「メダカな、大丈夫だといいな」
静かに真守が水槽の水を交換する。口数の少なさにもしや怒っているのだろうか、と葵はなにも言えなかった。
「ほら、お前が手伝ってくれないと。俺水替えなんかしたことないし」
「ないの?」
「ないよ。動物飼ったことないもん。メダカ飼ってたなんて知らなかった、話してくれればいいのになあ」
口をとがらせる兄に葵はほっとして、作業を手伝うことにした。
兄が聞いてくるままに、メダカについて話した。他にも違う学年だった頃に飼っていたハムスターの話もした。
可愛いかった、こんなふうに動いた、と葵は笑顔で語る。兄も楽しそうに聞いてくれるので余計に夢中に話した。
しかし終盤になって葵は急に声を落とす。作業する手元をじっと凝視する。
「ハムスター出して遊んじゃったやつがいたんだ。先生に言っていっしょにいなきゃ駄目なのに。それで逃げちゃって、みんなで学校中探したんだ」
「そうなんだ」
「うん。俺がみつけた」
「へえ、葵が」
「うん。トイレで、水の中で死んでたけど」
しん、と一瞬空気が凍った気がした。が、兄の相槌はそれに染みるような温かい声色だった。
「そうか、残念だったな」
葵の表情は動かなかったが、小さく頷く。
ぽん、と頭に手をおかれた。真守の手だった。
「哀しかったろ。もっと、生きててほしかったもんな」
こくりと頷く。
「クラスの子、びっくりしたんじゃないか」
「うん、泣いてたよ」
「そうだよなあ、罪悪感感じちゃうよなあ」
葵は手元を凝視したまま、
「ほんと、馬鹿だなあって思ったよ」
兄の相槌はないが、気にせず淡々と続ける。
「いつもみたいにしないから。先生と見てれば逃げてもすぐ助けられたのに。自分のせいで死んじゃったのに泣いてて、馬鹿みたいだ」
「うーん」
ぽんぽん、と葵は頭を優しくはたかれた。
作業が終わったので兄の顔を見ると、困ったように眉根を寄せているのに口元はほころんでいた。
「じゃお前も馬鹿だ葵」
「は?」
「今日お前が殴った友達、骨折れたんだ。大怪我だ、しばらく寝てなくちゃだ。それってどういうことかわかるか?」
「え?」
言葉が急に、波のように葵を襲う。それに溺れて、葵はぱくぱくと口を開閉する。
「すごく痛かったろうな。お前は全然覚えてないみたいだけど、すごく泣いてた。病院にももちろん行っただろう、注射してもっと痛かったかもしれない。下手したら死んじゃってたかもな、ハムスターみたいに」
「死ん……」
「でも大丈夫。先生がとめてくれたし、相手の親御さんも謝ったら許してくれた。もちろん治療費とかは払うけど」
なんでもないことのように兄は言う。葵を責めるようなニュアンスは一切ないし、むしろどこか愉快そうだった。葵が驚いて硬直していることをただ面白がっているようだった。
「なに今さらびびってんだよ。ほんと、馬鹿だなあ」
言われて葵は、ぶわりと汗をかく。
急に心臓が早鐘を打つ。
兄はその様子をしばし眺めたあと、息を吐いて弟の頭を撫でた。
「嘘だ。全然馬鹿じゃない、お前が怒るのは当然のことだ、相手が悪いことをしたんだから。でも」
そっと兄の両手は弟の肩を握った。とても熱い手がじんわりと肩に熱を伝播する。
真っ向から真剣な目で、はじめて厳しい声で兄は告げる。
「でも、絶対に暴力は駄目だ。相手がいくら悪くても、殴ったのならお前も同じだ。それだけは絶対にやっちゃいけない。わかったか!」
びくりとはねた肩も兄の大きな手によってなかったことにされた。
兄の目の奥を見てわかった、自分は怒られているのではなく、叱られているのだと。
「お前は命を大切に思える、素晴らしい人間だ。だったら相手のこともそう思わないといけない。だから今回、お前の伝え方は間違っていた、わかるよな?」
なによりも兄の真剣な声と表情に、葵は感銘を受けていた。
それと一緒に目の奥がどんどん熱くなる。必死に耐えて頷いた。
「ごめん、なさい」
喉が震えたが嗚咽は飲み込んだ。かっこ悪くならないようにしっかりと、何度も謝罪する。
涙をこらえうつむく葵を真守は軽く抱いて、頭をまたぽんぽんと打った。
「大丈夫、間違うことはあるもんだ。また一緒に、謝りに行こう」
頷いてまた謝りながら、どこか葵はとてもほっとしていた。
クラスメイトとはそれからぎくしゃくしていたが、お互いにばつが悪かったからだ。
謝罪しあい、許し合った。
一か月もすると自然とむしろ仲が良くなった。
暴力をふるったことで葵がクラス中にどこか一目置かれるようになってしまったが、葵はそんな自分のイメージが嫌で払拭することに尽力した。
兄に相談して、他のイメージで上塗りする作戦をたてた。
興味のある動物や植物の知識を増やして友人に話したりした。
メダカの飼育以外に花壇を作ることを教師に提案し、率先して作業をした。
必死で行っているうちに、暴行事件は葵にも周囲にも忘れ去られ、葵はただの動物好きとなっていた。
「真守兄さん! 俺動物園の飼育員になりたいと思う」
葵が中学校にあがり、黒の詰襟の学生服になった頃、兄は社会人になっていた。
「おお、いいんじゃないか? お前好きだもんなあ、給料入ったら犬でも飼うか?」
「こんな貧乏の家に来るなんて犬が可哀想だろ」
「中学になって口も達者になったみたいだな」
兄は変わらず明るいままだった。
小学生の頃と変わらず葵は何度も兄に叱られることがあったが、それでも兄が間違っていると思うことは一度もなかった。
「人にも自分にも優しくしろって言ってるだろ!」
自分の年齢と比例して兄の厳しさは増すように思えたが、それも彼からの愛情がにじみ出ているようで嬉しかった。
以前のように二人で買い物に行く機会などは減ったが、食事は極力一緒に食べた。
一緒にいることが気恥ずかしかったり学校で家族の話をする時は困ったりすることもあった。
それでも葵にとって、真守はずっと特別だった。
中学生になって二年目の梅雨の時期だった。
ある日葵が帰宅すると、兄の傘が家に置き忘れられていた。
毎日のように雨が降っている時期だというのに、なんとぬけていることだろう。
面倒だったが「人に優しく」という兄の教えが頭に浮かぶ。仕方ない、と小雨の中近くのバス停まで迎えに行くことにした。
夜にさしかかった時刻、曇天では月明かりも無い。
星も見えない暗い道を葵は歩いていた。
人通りがなく狭い小道はしんと静まり返っている。
家の近くで子どもの頃から見知っている道だ、ぼーっと無心でも道に迷うことはない。いつも通り体が自然と角を曲がる。
最初に異変を感じたのは嗅覚だった。
鼻をついたのは錆の匂いだった。
嗅ぎ慣れていない匂いだったので、なんだこれ、と軽く思っただけで足を止めることはなかった。
傘をたたく雨の音。
ふと傘の端から視界にヒトの足が見えた。
それが裸足で、ようやく葵は立ち止まった。
よく見ようと傘を上げた時、その目と自分の目がかち合った。
レインコートを着た人物が、脱兎のごとく走って行った。
「は?」
走り去った者を不審に思いながらも、地面を見る。
雨の音だけが耳に充満していた。
長い髪が散っている。
むせかえるような匂いの正体、雨にまざって広がる液体のものだ。
人は驚愕が過ぎると声も出ない。
目を見開く葵の眼下にはうつ伏せに倒れる女性の姿がうつっていた。
「あ、きゅ、救急車」
ポケットを探る。携帯電話をひっつかんだ。
気が動転しつつも、傘を放り投げて女性に駆け寄る。
助けなければ、という一心が葵の心を覆う。
兄だったらこんな時どうするか、と想像したことを無心で模倣する。
服が濡れるのも構わず膝をついて、女性の首を触る。
「脈、ある、生きてる!」
心臓は煩く騒ぐし、手もがくがくに震えていたがなんとか番号をプッシュした。
震える声で応対しながら傘を拾って女性に雨がかからないよう置く。
しかしその必死さゆえに、葵は近づいている者に気が付かなかった。
視界の隅に裸足が見えた。
しめた、助けが来た、と希望をもって顔を上げると黄色いレインコートを着た人物が立っていた。
思わずぽかんとする。両手に軍手をしていて、その右手には包丁が握られていた。
ぞっとする間もなくその者は軽い動作で葵を斬りつけた。
反射で上がった葵の腕がすっぱりと切れた。
皮膚が割れて、腕からだらっと血があふれる。
「うわ……」
尻餅をついた葵を一度見たレインコートは、くるりと顔を下に向ける。
倒れている女性を見下ろしていた。
そして包丁が高々と振りかぶられる。
「やめ――!」
葵の制止の声よりも早く、走り込んできた真守がレインコートに体当たりをかました。
葵の横に二人が倒れ込む。
すぐさま真守が上半身を起こし、包丁を握る腕を掴んで地面に叩き付けた。
落ちた包丁を遠くに蹴り飛ばす。
うつ伏せのレインコートの両腕をつかみ上げ背中で交差させ、全身で覆いかぶさって足も首も抑えつける。
相手ももがくが、体格では真守が勝っていた。一度首に肘を叩きこむ。顔面を打ち付け、相手はぱたりと動かなくなった。
雨の音以外に真守の荒い息づかいが聞こえる。
「葵! 大丈夫か!」
兄が声を張り上げ、相手を抑え込んだまま必死な形相で葵を見上げる。
葵の腕から血はとめどなく流れていく。おさえつける手の下で傷口が痛みにうずくが、そんなに深くないと自己判断した。
ただ雨のせいで流れる量がおびただしいものに見える。
「だ、大丈夫。救急車呼んだし」
「腕を傘の下に入れろ、よく押さえとけ」
指示する兄の声はひどく硬かった。葵もあまり聞いたことがない、とても怒ったような有無を言わさない声色だった。
言う通りにした後、パトカーと救急車が近づく音が聞こえた。




