喃喃虎王
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眷属である那由多の視界を借りて、一頭の虎は見つめていた。
こちらに向かって信念ある瞳をまっすぐ向けてきている、自らのテュラノスの姿を。
全身真っ青の体毛がざわざわと波打っている。
長く太い尾はゆらゆらと不満に揺れている。
その美しく優雅な獣の首には、不似合な黒い首輪がはめられていた。
「そうかっかしないでくれよ」
いつの間にか虎の背後には青年が立っていた。喪服のような印象を受ける真っ黒な衣装に、橙に煌々と光る双眸。
彼は手に握る頑丈な鎖をぐい、と引っ張る。
その先とつながっている虎の首輪が少しだけ引かれた。
青年はくすくすと嗤う。
「だって、お前自身が決めたことだろう? それをまるで被害者のように見るなんて。お門違いだぜ、もうバカ!」
語尾はふざけた風に言って、青年は虎の頬をつつく。虎はみじんも動かない。
その頬に青年は顔を寄せて囁いた。
「さあそろそろおしまいにしてくれよ。愛するテュラノスだけが守れればいいんだろう? お前がそう言うなら、俺は約束を守ってやるよ。お望みを言ってごらん? 虎の王様」
おかしそうに言って嗤う青年の横で、青い虎は小さく頷いた。
◆◆◆
多大な威圧感を放出して構える三条に、那由多は後じさりしていた。
他の虎たちは那由多に続いておらず、それぞれが目の前の男にやられ動けないでいた。
四肢を残して立っているのは最早那由多一頭のみだ。
額の鉢巻を血に染め、隻眼の那由多同様片目から血をこぼしている三条は、しかし微塵の衰えもない構えをしている。
『全く貴様というやつは、呆れるほどに頑固なところは昔から変わらないな』
那由多の言葉も聞こえているが反応をせず、三条は距離だけをじりじりとつめてくる。
槍が届く範囲に入ったならば、湾曲した刃が那由多を一気に襲うことだろう。
三条の背後にある半壊した小屋にはもう誰もいない。
龍王が引き連れた人間たちも、長首龍が追っていった龍王のテュラノスたちも気配が追えない距離まで離れてしまった。
この場には虎と三条しかいない。
『赤子のロクを背負って毎日掃除に畑にとせわしなかったお前が懐かしいよ』
子どもの頃の話をしても三条の表情はぴくりともしない。
今は眼前の敵、那由多を倒すことだけに全身全霊を捧げている。そんな彼に那由多は目を細めた。
『わたしはやはり、お前が好きだ纈。だからひとつだけ言ってしまおうと思う』
迫ってきていた三条の気迫がわずかに止まる。
『虎王は今この時も大聖堂にいる、そこであの男に飼われているはずだ、じゃりゅ』
瞬間、三条の頬へ紅い血が飛んできた。
彼の目の前には、支えを無くして揺れる大きな虎の胴体。
四肢に力は入らずゆっくりとその場に、新野が珍しいといった白い体が座り込む。
首から上を失くして。
「なゆ……た様……」
三条の瞳がゆるゆると見開かれていく。
三条がまだテュラノスになる前に使っていた呼び方。
そう呼ぶとこの虎はきまって『様、は王に使え。わたしはそれ以外でお願いしたい!』ときらきらした眼で言ってきたものだった。思えばかわいげのある呼び方を期待していたのだろうが、真面目な三条は「那由多殿」と呼ぶことにした。『それはそれでいいけど、少しつまらない……』と言っていたことを本当は知っていた。
だからいつか、「殿」に変わる呼び方をと考えていた。
それが今不必要なことになった。
『わあああ!! 那由多さん!』
小さな大典太が悲鳴を上げた。片足を失くした安綱が、大声で怒号を上げながらひょこひょこと那由多に近づく。
宗近も国綱も大怪我を負った体をひきずって那由多へと駆け寄っていく。
三条は固まったまま、目を見開いていた。
「なぜ……こんな……」
呆然と呟く三条が見ている前で、首を失くした那由多が座っている。
断裂した首は黒くなっていた。
違和感がじわりと三条の頭を動かそうとする。
しかしいつもならすぐさま動くはずが、衝撃がそれを邪魔する。
だからその黒い傷口からどろりとなにかが這い出てきた時、反応できなかった。
那由多から溢れた黒いものはものすごい勢いで三条の胴を包み込んだ。
「なに!」
すぐさま振り払おうとしたが、それは一息で形状を変え、たちまち三条の全身を包み込んだ。
薄い、液体のような、ぷるぷると弾力がある黒いものは、血の匂いがしている。
全身を包んだそれは、端に二本突起をつくり、やがてコウモリの翼のようなものを形作る。
感触を確かめるようにひとつ羽ばたくと、その異様な翼は空へと羽を打った。
◆◆◆
指先からぽたりと血の雫が落ちる。
それを舐めて橙色の瞳をした青年はむすっと顔を歪めた。
「あの虎野郎、裏切ろうとしやがった。だから、仕様がないんだよ、わかるか?」
見下した先で青い虎が倒れている。
虎は低く、聞いた者が身をすくめるような怒りの唸り声を上げていた。
「そのままフセ、だ。文句があるならひと噛みしたっていいんだよ? ただし可愛かった眷属ちゃんと同じ運命に落ちることになるけども」
男は血が滴る指先を、銃口に見立てて青い虎へと向ける。
「ばあん! なんてね。――あははは!」
腹を抱えて笑う青年を、虎は昏い瞳で見つめていた。
逆立った毛に緊張した尾。
どこにぶつければいいかわからない憎しみに歯茎がめくれあがる。
虎の唸り声を、青年は冷えた眼差しで睨みつけた。
「うるっせえんだよ、黙ってろ。ほんとは眷属くんたちに連れてきてもらおうと思っていたのにさ、まあ結果は同じだからいいか。ご執心のテュラノスくんがもうすぐ来るぜ。喜べよ、嬉しいだろ、なあ?」
狂気をはらんだ瞳が虎の視線をのぞきこむ。
虎は無言でそれを静かに見つめかえした。
「ちえ、つまらない。まあだんまりは俺の命令だからいいけどな。従順なペットだよ全く」
青年は顎に手をついて、退屈そうに窓から外を眺めた。
「全くお前といい龍王といい、わからねえなあ。守りたい、とか助けたい、とか。土台無理なことばかり言って、こうしてその目標のため誰かが犠牲になると怒る。てめえのせいだってわかってるか、ん?」
鎖を乱暴に引き、虎の首を無意味に締め付けるが、青年はすぐに飽きてしまう。
「なにが不満なんだよ。俺はちゃんと約束を守っているだろ? この島全部落とすとしても、ここにいる全員殺すとしても、お前とお前のテュラノスは見逃してやるって。だからこうしてわざわざ拾ってやってるってのに。全くつまらない……。自分から言ってきたくせに。感謝のひとつでもしてほしいくらいなのに」
青年は椅子に背中を預ける。穏やかに揺れる椅子に身を任せて、ふんと青年は息をついた。
しかし次にはにやりと笑む。
「まあいい。お前のテュラノスが届いたらさっそく動くか。もう白銀龍も火龍も回収しなくていいだろ。俺はあいつと会えれば、それでいい……」
上機嫌に鼻歌を歌い出して、青年は揺れる椅子に身を任せる。
隣では、首輪の跡が痛々しい青い虎が、無言で窓の外を見つめていた。