侵攻 4
「くそ!」
新野は罵倒しながらすぐさま倒れる少女に駆け寄った。
そして息をのむ。うつろな目がそこにはあった。少女の左肩から先が無くなっている。
泣きわめくガシが少女の体を揺するが力なく揺れるばかりでヤサの瞳がなにも映していない。
新野の額が急激に熱くなる。
黒いひし形に広がる両翼のしるし。龍王のテュラノスの力が顕現し、背中から虹の翼が現れる。
小屋に入ってきた少女の父親の叫びが、今の新野には届かなかった。
額の熱はどんどん加速する。それに呼応し虹の翼も熱を持ち始め、質量を増していく。
天井に膨れ上がった翼が到達し、そのまま壁をつたって小屋の中に充満した。
新野の双眸は橙色に輝き、瞳孔は針のように細い。
龍の瞳になっていた。
「う、ぐ、ぐ……!」
歯を噛みしめた新野がおさえた苦鳴を漏らす。
尚も翼は巨大化し、転がるように入ってきたロクの顔面にもその羽毛を届けた。
「な、なんだこれは!?」
ふわりと軽い羽が頬をくすぐる。
強い虹の発光とは裏腹に、ほんのりと暖かい。
ロクはくすぐったさを覚え頬に触れる。驚くべきことに裂傷が触れた指の下で消えていく。
虹の光りは翼から触れた者へ伝播し、小屋の中を照らしていく。
(に、新野……)
最早背中から大樹のような翼を発している新野自身が、虹色に輝いていた。
呆然と見つめる龍王は、視線の先にあっと驚く。
倒れるヤサの左半身に広がる血の海が、ずるずると這って体に戻っていっていた。まるで生き物のように持ち主の中へと移動している。
新野の輝きは更に加熱し、新野の髪が毛先から橙色へと変わっていく。
(君は、本物の龍にでもなる気か。奇跡を起こす神秘の獣に)
新野の耳穴から血が一筋つたって落ちた。
ヤサの体に血色が戻っていく。見開いたガシの目も少女の包まれた輝きを反射している。
左肩から先は無いままだが、傷はふさがり平らな皮膚に包まれる。
血で汚れていた少女は綺麗になり、父親も感嘆の声を上げた。
ヤサの目に光が舞い戻る。
小屋の中は一瞬にしてもとの明るさへと戻った。
新野の翼はかき消え、輝きも消えた。
全身を襲う倦怠感に新野は息を吐ききった。フルスピードから急停止した車のように、全身の血が沸騰した負荷が一気に新野へと押し寄せる。
髪も瞳も元へ戻る。床に両手をついた新野からぼたぼたと汗が落ちていく。
静まりかえっていた小屋の中は、ふくれあがる歓声に充満した。
ヤサだけでなく、小屋にいた全員の傷が一瞬にして治ったのだ。
「ヤサ、ヤサ! よかった、よかった……!」
「もー、ガシ? なんで泣いてるの? とーちゃまで……、どうかしたの……?」
「いいんだ、いいんだよ。なんでもないから。良かったな、なあ!」
少年も父親も涙を流しながら少女の体を抱きしめる。
その光景を新野は間近で見ながら、薄く笑った。
しかし天井に重い衝撃が落ちる。小屋の騒ぎはぴたりと止む。
「また飛龍だ!」
ロクは抱えていた薙刀を構え直す。
新野はまだ荒い息だが、立ち上がろうと膝に力を入れる。
(馬鹿、動くな。あんな力を使った後だぞ!)
「ああ……」
吐息は肯定のようだったが、新野は天井から目を離さない。
(……もおー! 少しは自分のことも考えろってんだよ!)
「あ、おい」
のろい新野の制止を振り切り、龍王は天井の穴から外へ飛び出した。
屋根にはりつく飛龍、そして空中にもまだ数頭の龍が飛んでいた。
一瞬にして黒龍の体が膨張し、空気を押し出して巨大な冴龍が、龍王が両翼を広げた。
小さい体の時の可愛らしい声は消え、野太く腹の底に響く轟音の咆哮が轟く。
圧倒的な存在におののく飛龍へ、冴龍の牙が振り下ろされた。
三条は背後に響く龍王の咆哮にも視線を向けなかった。
『纈、本当にすまないと思っている! しかしお前を無二の友と思っての願いだ、どうかこの場は退いてくれないか!』
最早立ちふさがる敵となった那由多は、それでも快活なまま変わらない。
結界を破壊し邪龍を引き入れた張本人でありながら、そのすがすがしさにいっそ三条は笑いそうになった。
「……申し訳ありません。ここから先は一歩も通さぬ所存でございます。那由多殿とあっても、許すことはできませぬ」
昏く光る三条の双眸。言葉こそ穏やかだが、那由多は彼の心底の怒りをまざまざと感じる。
『それは残念だ。虎王もさぞ哀しむことだろう』
「虎王様……」
『許せ纈。我々眷属はいつだって王の味方なのだ』
とたん、那由多の周囲に四頭の虎が姿を現す。
「国綱、安綱、宗近、大典太……そろいもそろって。これが虎王様の意思だというのか……」
それぞれ毛色の異なる勇壮な虎たちは、無言で三条へと一歩を踏み出す。
そしてその五頭の虎の背後で、空が波のごとく波紋を起こした。
無数に並ぶ鱗がさざ波をたて、順に鮮やかな色が出現していく。
極彩色に飾られた巨大な蛇が頭を高く持ち上げてそこにいた。
長い舌が鋭い呼気とともに震えながら出し入れされる。
長首龍ガルバネンラは、丸い目を無感動に三条に向けた後、もう一度体の端から透明になっていく。
『邪龍は腹を空かしているのだ、哀れだろう? 慈悲の心で飯をめぐんてやればいいのだ、纈!』
那由多の一声に、四頭の虎が三条めがけ飛び上がった。三条は冷徹なまなざしのまま小さく鼻で笑う。
「であれば早く言ってくださればいいものを。毒の団子をふるまうことができましたのに」
赤茶の虎、国綱が咆哮を上げて長い牙を三条に振り下ろす。
一歩半下がった地点へ額に三日月模様をもつ宗近が飛び込む。
跳んだ三条へ、宗近の背を蹴って小さい黄色の虎、大典太が突進してくる。
向かう赤い口腔に槍の柄を噛ませ、三条は獣の腹を蹴り飛ばす。
吹っ飛んだ大典太と交差して那由多が吠えて跳んでくる。
姿勢を低くした三条が那由多の下を通って地面に転がる。素早く起き上がって続く四頭の爪を槍で跳ね上げた。
『捕まえろ! 多勢に無勢だ、負けてなるものか!』
「お前たちであろうと、立ち向かうならば斬る!」
吠える虎に負けず怒号を上げ、鬼の気迫で豪槍が突き出される。
真紅の毛色をした安綱が腹を裂かれながらも三条に迫る。巨大な爪が肩の鎧袖を切り落とした。
赤い三条の血が噴き出すが、全く勢い衰えず湾曲した刃が安綱の足をとる。
触れたと同時に鎌に似た槍がぐんと引き戻される。右後ろ足首から先が豪速とともに空に断ち放たれる。
虎の悲鳴をかいくぐり地面に身を落とした三条が次の標的に迫る。
鼻づらに皺を寄せ牙を見せつける虎の顔面に恐れなく詰め寄る。
前足を浮かせた宗近へ肉薄。虎が正面へ吠えた時しかし既に三条の姿はなく、次の瞬間背中を大きく斬られ宗近がぎゃっと苦鳴を上げる。
斬り上げた槍は三条の背中を回転し大典太を袈裟懸けに刈り、地面すらも断つ。
大典太が地面に落ちる前にそれを吹き飛ばし、大柄な国綱が三条へ太い足を振り下ろした。
それが届く前に三条は虎の胸に飛び込み、そのまま顎を掌底で突き上げる。
空中落下していた槍を足で払い上げ、つかんだと同時に全身でもって突き放つ。
国綱の左肩を重く貫通し、抜き放つと同時に蹴り飛ばした。
その蹴りの瞬間を狙って那由多が三条の背後から飛びかかる。
が虎の正面には槍の穂先がぐるんと回ってきて、那由多が勢いを殺す。
遅れて振り向こうとした三条の足場が大きく揺れた。
地面が盛り上がり、噴火のごとく吹き飛ぶ。宙に放られた三条を追って、地中から巨大な首が飛び出してきた。
顎関節を外し限界まで広がった蛇龍の口内は紅い。
ばつん! と空気が爆発したような音ともにガルバネンラの口が閉じられる。
『纈……!』
膨らんだ龍の閉じた口に那由多が声を漏らすが、次にはそれは驚愕に変わる。
「私はおそらく不味いぞ……長首龍よ」
ガルバネンラの口が内側から徐々に強制的に開けられていく。
そこから三条が見える。背中で上顎を、両足で舌を押し、広げていく。
牙に引っかかっていた槍を抜き、口蓋へ突き立てた。たまらず邪龍は首を盛大に振り、口内の獲物を吐き出す。
地面に躍り出た三条は間断なく立ち上がる。が、そこへ横薙ぎに衝撃。
腹をしたたかに打たれ、三条は結界の巨木へと全身を強く打ち付けた。
「ぐ……!」
背中と頭を打ち付け、視界が明滅する。
くずれ落ちる虎王のテュラノスへ虎たちが跳びかかろうと膝をたわめるが、すぐさま三条は立ち上がり槍を構えた。
『纈、さすがだな!』
感嘆の声を上げる那由多を睨み上げるが、見える景色は霞がかっていた。
虎の爪に裂かれた肩、邪龍の牙をかすめた額と脛から血を流した三条は肩で息をしている。
対する那由多の周りにも負傷した虎たち。
どちらも爛々と戦意に燃える眼に変化は見られない。
唸る長首龍の尾がゆらゆらと揺れている。
透明になったそれにたやすく大打撃を受けてしまって三条は目を細めた。
そして一旦静かに息を吐く。
那由多はその呼吸を見てごろごろと喉を鳴らした。
再び息を吸い込み、瞬きをした三条はすっと大樹の幹に預けていた背中をただす。
肩で息をしていたのは嘘だったように、穏やかな呼吸に戻る。
『友と戦うのは誠に残念極まりないが、しかし纈、本気のお前と戦うのはなかなか興奮するものだな!』
ぴんと立てた那由多の尾先が細かく振られる。
虎の高揚した声に、三条はほっそりと笑んだ。しかし目は全く笑っていない、眼前の敵をひたと見据えている。
「痛みを切り捨てました。何度打ち倒そうとも私はそのたびに起き上がりましょう。那由多殿、引き返すならば今ですよ」
満身創痍に見える、自分より小さいヒトが、並々ならぬ気迫を背負って立ちはだかる。
虎たちは牙をむき出しにし、姿勢を低くして唸る。
それは強者へ向かう時の姿勢だ。
迷彩、剛力、そして無痛。三条の能力を知っているからこそ、那由多は嬉しそうに喉を鳴らす。
虎王のテュラノスは、友であるこのヒトはなんの濁りもなく純粋な殺意とともに那由多に立ちはだかっている。
『わたしはお前のまっすぐなところは大好きなのだ。だからあまり苦しませたくないのだよ』
「ご心配召されるな。私が苦しむことなどありませぬ。それより御身の心配をなされよ」
けして軽くない怪我をなんともないように、三条は嗤った。