壊滅する手順
なにもかもが新野の予想、想像を軽く超えていた。
街は、本当に街だった。生活があり、営み、社会、住人があった。
鼠のすすめで、最初に連れられたのは病院だった。何でも、狼に連れられた人間も病院に預けられるらしい。
かなり腹が減っていたが、検査とやらを完了させなければ街を散策できないようだ、それならさっさと済まそうと急ぎ足でむかう。
白い壁に清潔そうな空間。異質な街に突如として建つ常識。
ロビーに入って、新野の知る「病院」そのものだったのでとりあえず安心する。
受付に座るのも制服に身を包む普通の人間の女性だった。頭髪が紫色をしていなければ、現実に戻ったような錯覚だ。
泥に汚れ、穴の開いたシャツを着た自分のほうがよっぽどおかしい気すらした。
おずおずと声をかけ、森に落ちて街にたどり着いた旨を話す。受付嬢は了解してなにか端末で確認を行う。沈黙がかなり苦しかった。
不安に新野は眉間にしわを寄せ、頭痛を我慢した。
「確認いたしました、では検査を行いますのでーーあら?」
受付嬢のにこやかな声が、頭にこだまする。それは水の中で聞こえる音のようで、
「大丈夫ですか? 顔色がわる――れか今呼びますか――聞こえ―――?!」
声は途切れ途切れになり、新野の視界は暗転した。
誰かの話し声で目を覚ました。
ひんやりとしたものを頬に感じる。
「あ、にいの! 大丈夫かい?」
鼠の跳ねた声に、隣に立つ看護師が振り返った。
「ああ、目が覚めましたね。大丈夫ですか? 気分はどう?」
「……大丈夫、です」
問われるままに答える。看護師は柔らかく微笑み点滴の作業に戻る。
ベッドに寝ている自分の姿を確認した。受付で気を失ったのを思い出す。
「疲労と、こっちの世界の空気に酔ったみたいですね。大丈夫、点滴打ってしばらく休めば直にぴんぴんしますよ」
なるほど点滴は左手につながっている。衣服もいつの間にか患者着にかわっていた。
「ごめんなさい、服はこちらで変えてしまったわ。一応とってあるけど、あちこち切れてたから、どうする?」
一瞬悩んだ。今となっては服だけが、唯一もとの世界から持ってきた物だったから。しかし着られない服を持っている必要など無いのも確かだった。
「捨ててください」
「わかりました。それと、街の入場権を得るにはいくつか質問に答えたり検査を受けないとなんです。もう少ししたら質問の担当の方がいらっしゃいます。体調がよくないようなら、明日にしてもらうけれど」
「大丈夫です」
看護師は微笑み頷いた。
「じゃあしばらく休んでくださいね。なにか欲しいものはある?」
「あー……、飯って、もらえますか?」
気まずく問うと看護師はくすりと笑った。
「ええもちろん。元気そうでよかったわ」
「にいのは食いしん坊なのか~」
「違う」
鼠の揶揄をきっぱり否定する。
「ん? なにが?」
首を傾げた彼女に、少し恥ずかしかったので、なんでもないと首を振る。
退室する看護師を見送って、新野は大きく息を吐いた。
ようやく落ち着く。するとあとからあとから考えなくてはいけないことが山積みになって、軽く首を振った。
「今は、戻る手だてを探すこと。それだけだ」
自分に言い聞かせる。それでも消えない、どうしても気になることだけを呟いてしまう。
「サラマンカ……」
この街のどこかにいるかもしれない、存在。
新野はふと思い出す。オレンジの髪の少女を。
そういえばあの少女が最初に言ったのだ、サラマンカのことを。穴に落ちる前に起きた不思議な出来事は片時も忘れていない。街の住民の頭髪がカラフルなことからも、なんとなしに気づいていた。
「あいつらはこの街から来た、のか?」
あるいはこの異世界から。もし少女とあの青年も見つけることができたなら、一発殴ってやりたいところだ!
ほんの少しの怒りが新野に覇気を取り戻させた。そのタイミングで届けられた食事にありつく間も(なんだかよくわからない色や味をしたものだったことはあえて考えないことにして)、入場権とやらをさっさと得て今にも行動したくてうずうずした。
と、個室の扉がノックされる。なんとタイミングがいいんだ、担当の方がいらっしゃったかと新野は応えようと口を開く。
その後ろ、窓に影がかかる。
盛大に窓が割れ、新野は叫び頭をかばった。
破片が体に降りかかる。幸い突き刺さることはない。驚く新野のベッドに誰かが着地して、大きくきしんだ。
その人物のブーツが視界に入る。ついでにそれにがっつり乗られている、自分の足も。
「いて、いてえ! 足踏んでる!!」
「あ、悪い」
騒ぎ立てる自分とは裏腹に涼しげな声を聞いた直後、左手に痛みを覚える。今の衝撃で点滴の針が抜けてしまった。血の点と、黒いブーツを交互に見て、沸騰する頭で相手を見上げた。
「なんだお前! てか窓! なにして――うお!?」
その人物は新野の首根っこを強引につかみあげると、とんでもない膂力で新野ごと窓から外へ飛び出した。
浮遊感は一瞬、すぐに落下の衝撃に声にもならない悲鳴をあげる。
部屋は三階。外に立つ木の中に、二人は落ちた。
「な、なに……!?」
両脇に枝をからませ、葉に埋もれて新野は目を白黒させる。息もつかぬうちにまた引かれ、また落ちる。
背中をしたたかに打ち肺から空気を吐き出した。痛みと苦しさにうめくうちに、新野を連れ出した者の声が聞こえる。
「いいぞ、出ろ!」
振動とエンジン音に頭が急速にクリアになっていく。車に乗せられている! 上半身を急いで起こす。形状は違えども、そこはトラックに似た乗り物の荷台だった。
「なっ……!?」
なんと叫ぶのが正解なのか、混乱したうえでは口をぱくぱくと開閉させることしかできない。
車は荒々しい運転で走行していた。
激しい揺れの中、襟首をつかんでいた隣の人物を見る。
灰色の髪をした男だった。
その横顔に思わず、
「なんだ、お前、ほんと意味わからん! 誘拐?!」
ヒステリックな声をあげると、男は新野を見て吹き出した。
突然笑われて、唖然とする。正面から見ると彼はまだ青年だった。まつ毛も瞳も灰色で、新野より線の細い印象を受ける。紺と青に染まる厚手のコートを羽織っていて、その印象は薄いが。
青年はすぐむすっとした表情になる。
「黙ってろよおっさん、舌噛むぜ?」
「はああ!? おっさん?!」
今までで一番の驚愕を見せる新野に逆に青年がちょっと驚く。同時に大きく荷台が跳ね、新野は頭を運転台の背中に真横から打ち付けた。
急激な酩酊感と、水に溶けるような視界が訪れる。
ごとりと新野の頭は荷台に落ち、
「なんだこいつ……」
青年の歪む声に、そらこっちのセリフだよ! と返してやりたかったが、そのまま完全に気絶してしまった。