03
「さて」
俺は金庫に向き直り、ダイヤルを父が言った通りに回した。カチカチカチという音がして最後に一際大きくカチ、という音を確認すると、恐る恐る取手に手をかける。まさか、人外のものなんて、うそだろう。食われるというのは比喩で、曾じいちゃんの知人と言って来るのはなにか曾じいちゃんに代々の恨みがあって、それで被害が俺たちに及んだ時の対処法としてこれを残したのだ。例えば、あの墓場の男はヤクザかなんかで、曾じいちゃんが仕事をしていた時に何か因縁をつけられたのだ。それで、ずっと恨んでいる、うん、これはこれで結構恐ろしい。
覚悟を決め俺は取手をぐい、と手前に引いた。少し埃が舞い軽く軋んで扉が開く。何か中から飛び出してきやしないかと恐れつつも覗くと、そこにあったのは何冊かの古びたノートだった。上の一冊を手に取り、薄く積もった埃をはらう。古めかしい大学ノートだ。表紙に大きく「其之一」と書いてある。親指と人差し指でそっとそれをめくると薄い灰色の中表紙が現れた。それもめくると次のページには鉛筆でぎっしりと文字が書き並べてあり、一番上に赤鉛筆で他言無用と大きく書いてある。曾祖父の手だ。カタカナと漢字の混じった文章は見るからに読みにくそうで、しかし全く読めないという程ではない。横書きでつながっている文字が少ないのはきっと未来の俺達の為に考慮したものだろう、と思う。たんに、縦書きのノートがなかっただけかもしれないが。
「他言無用。コレハ我ガ人生ニオイテノ秘密ト成功ノ記録デアル。今之ヲ見テイルダラフ君ハ我ガ孫デアルノカ、ハタマタ息子カ、ソレトモ遠イ子孫ダラウカ。ナンニセヨ、アレガ現レタノダラウ。ソレニツイテノ事ヲ語ラネバナルマイ。」
几帳面な字面だった。俺は曽祖父がどんな人物だったのか、まったく知らない。けれども並ぶ文字を見て、どことなく神経質そうなイメージをうけた。
「マズハ私ノ下積ミ時代カラ記ス事ニシヨウ。全テノ根源ハ此処ニ在リ、私ガマダ壱五歳ノ頃ノ事デアル」
いきなり本題に踏み込もうとしている文章を見るのをやめ、俺はとりあえず金庫の中のノートを全て取り出すことにした。冊数は、全部で八冊。全部パラパラと目を通してみると、最後のほうは走り書きのような短文がいくつも並ぶ形となっていた。これは、一から全部読めということだろうか。俺は時計をみた。八時三十八分。明日は学校があるから、せめて十二時までに寝ないと翌日こたえてしまう。八冊とも読み終えるのは、多分無理だろう。まだ宿題も終っていないのに。少し考えてから、とりあえず宿題を片付けることにした。命がかかっているかもしれないからノートを読め、といわれてもこの平和な世の中であまり信じがたいことだ。昼間の男は気持ちが悪かったけど、それでもただの変質者という可能性もまだある。それならば、現実的な問題で、明日が提出期限の宿題を第一に片付けたほうが良い。ノートのことは、すべて終って落ち着いてから考えよう。決まると行動は早く、もう一度金庫の中にノートを収め、ガチャンと扉をしめた。そして机に広げたままにしてある宿題にとりかかる。
しばらくすると、インターホンが鳴り、母が風呂だとつげてきた。一階のリビングから叫んでも、二階の部屋には声が届かない。だから、各部屋には一つずつ、インターホンがとりつけてある。機械越しに返事をして、それから風呂場へと直行した。父にあって、詮索をされたくない。なんていったって、まだなんの説明もできない状態なのだから。風呂場に入ると、中の窓が開いていた。どおりで、冷たい風が入り込んでいたわけだ。俺は湯船のふたを開ける前に、窓を閉めようとして手を伸ばした。
「・・・?」
暗闇の中、何か二つキラリと光る物が見えた気がした。見間違いかと思いよくよく目を凝らしてみると、家の塀の外に、ぼうっと人影が浮かび上がる。こんな時間に、何故こんな所に人が立っているのだろう。不思議に思いつつも、自分が全裸だったことを思い出し、さっと窓を閉めようとしたそのとき。
「やあ、逃げるとは失礼じゃないか」
声を、発した。ドクン、と一拍心臓が大きく脈打ちさっと全身に鳥肌がたつ。窓をしめようとした手は止まり、目をそらしたいのに闇の中の人型から目がそらせない。間違いない、この声は昼間の墓場の男の声だ。
「そんな育てられ方をしたのかな?」
変質者、ぱっとそんな言葉が頭の片隅で浮かんだ。何故、家まで知っているのだ。今日あれだけ追いかけられないか用心して帰ったはずなのに。いや、本当に曽祖父の代からの
知り合いならば、家ぐらい知っていて当然なのか?しかし、俺の立てた仮説でいくならば、何故こんな風呂場にあらわれるのだ。堂々と、玄関からくればよいのに。
「父さん!!」
気づいたら、夢中でそうさけんでいた。怖い。気味が悪い。あの男はなんなのだ。変質者か?どこか頭がおかしくなっているのだろうか?それとも、もしかしたら、本当に・・・
「どうした!?」
父が、急いで風呂場に駆け込んできた。俺はその音でやっと男から目をそらすことが出来、助けを請うように必死の形相の父を見た。
「あそこ!あそこにあいつが!」
窓に駆け寄った父の後ろからそっとのぞくと、先ほどまであった人影は消え、ただただ濃い闇ばかりがあった。まさか、そんな。
「消えた・・・」
もしかしたらそこらへんに隠れているのかもしれない、そう思いじっと目を凝らして見回したが、男は完全にいなくなっていた。
「冬冶」
父の呼びかけにはっとして、俺はすがるように彼を見た。
「違うよ!うそじゃない!本当にいたんだ!」
まるで小さい子供のように主張する。父は俺を見て、にっこりと笑った。
「ああ、わかった。いたんだな?」
「信じてくれるの?」
「もちろん。しかし、困ったな」
「消えちゃった・・・」
父はうん、とうなずき窓を閉めるととりあえずお前は風呂に入りなさい、と俺の頭を優しくなでた。
「外をちょっと見てくる」
「やめなよ、父さん!あいつ、気持ち悪い」
「だからだよ。男の子だったからよかったが、女の子だったら警察沙汰だ」
そう言い風呂場を出て行こうとする父を、俺は本気で引きとめようとした。
「駄目だ、父さん、今外に出たら何されるかわかんないよ!」
「大丈夫、木刀もっていくから」
「それでも駄目だ。絶対やめてくれ」
ただの変質者じゃない。もしかしたら、本当に父の言うとおり人ではないものかもしれない。とりあえず、今外に絶対に出てはいけない気がした。家の中とて安全かどうかわからないが、闇の中よりましだと思った。
「曾じいちゃんもいってたろ?金庫の中のものを確かめるまでは、あいつの相手はしちゃ駄目だって」
「金庫の中、みたのか?」
父の問いに、言葉が詰まった。正直に、ノートが入っていてそれに曽祖父の書いた記録らしき物が残っていたというべきであろうか。
「見たけど、まだ何もいえない」
考えた末、小さくつぶやくようにしてそう答えた。すると父はそうか、と言い、
「外にはでない。何かあったらまたすぐに呼ぶんだぞ」
と風呂場のドアをしめた。独りになった瞬間、また窓の外が気になり始める。しかしあけてみる勇気は無く、あの声が聞こえてくる前に手っ取り早く風呂を済ませてしまうことにした。寒かったけれども、湯船にはつからないでおこう。
宿題なんて悠長な事を言っている事態ではなかったのかもしれない。すぐに、ノートを見るべきだった。五分で体を洗い終り、ザバリと湯をかぶってあがった。体は全く温まっていなかったが、しょうがない。怖いのだ。リビングへ行くと父と母が並んでテレビを見ていた。母は心配そうにこちらを見て「あんたゴキブリぐらいでさわいでちゃ、一人暮らしできないわよ?」と言う。どうやら、父が巧くウソをついてくれていたらしい。軽くうなずくと俺はすぐに階段を駆け上がり廊下の全ての窓の外を見ずに部屋へと駆け込んだ。部屋のカーテンは全てしまっており、ほっとする。ドアを閉め、鍵をかけて金庫のふたを急いで開け中のノートを全て引っ張り出した。