何でもかんでも毒見役にさせるのはやめてほしい
「エリーゼ、悪いが先に飲んでくれないか」
「……アルフォンス様。先ほど侍女の方が毒見を済ませていらっしゃいましたよね?」
「ああ。だが、念には念を入れたいんだ。君も私の過去を知っているだろう?」
ベルンハルト伯爵家の応接室で、エリーゼ・ローゼンタールは婚約者から差し出された紅茶を見つめていた。白磁のカップには琥珀色の紅茶が注がれ、湯気とともに芳醇な香りが漂っている。王国南部で栽培された上質な茶葉を使用したもので、茶葉の仕入れを担当したのは、ほかならぬエリーゼの実家が経営するローゼンタール商会だった。
目の前の青年は、アルフォンス・ベルンハルト。二十三歳になるベルンハルト伯爵家の嫡男であり、二年前からエリーゼの婚約者となっている人物である。淡い金色の髪を丁寧に整え、灰青色の瞳を持つ彼は、社交界では礼儀正しく慎重な青年として知られていた。もっとも、その慎重さが婚約者にどれほどの負担を強いているのかを知る者は、伯爵家の使用人を除けばほとんどいなかった。
「存じています。ですが、これで三度目です」
「三度?」
「今日、私が毒見を頼まれた回数です。昼食のスープ、食後の焼き菓子、そして今度は紅茶。いずれも使用人の方が先に毒見を済ませていらっしゃいました」
「それだけ私が慎重になっているということだ。君には申し訳ないと思っているが、少し口をつけるだけで済む話じゃないか」
アルフォンスは困ったように眉を寄せた。まるで、婚約者がどうしてそのような些細なことを気にするのか理解できないとでも言いたげな表情だった。彼は自分のカップに手を伸ばしかけたものの、結局は口をつけず、再びソーサーの上へ戻してしまった。
エリーゼは十九歳になるローゼンタール男爵家の一人娘だった。艶のある栗色の髪と淡い緑色の瞳を持ち、華やかさよりも落ち着いた雰囲気を感じさせる令嬢である。幼い頃から商売の現場を見て育ったため、商品の品質や流通についても知識があり、特に茶葉や香辛料については専門の商人と対等に話せるほどだった。
ローゼンタール家は、元々貴族ではなかった。祖父の代から穀物や茶葉を扱う商売を営み、現在では王国各地に倉庫と支店を持つ大商会へと成長している。五年前、アルヴェリア王国が深刻な凶作に見舞われた際には、国外から大量の穀物を輸入して食料不足の緩和に貢献した。その功績を認められ、ローゼンタール家は国王から男爵位を授かったのである。
もっとも、爵位を得たからといって、古くから続く貴族たちに歓迎されたわけではない。商売によって財産を築いた新興貴族を成り上がりと呼び、血筋や家柄を理由に見下す者は少なくなかった。エリーゼも社交界に出るようになってから、幾度となく心ない言葉を向けられてきた。
そんな彼女に、ベルンハルト伯爵家から縁談が持ち込まれたのは二年前のことだった。
ベルンハルト家は王国建国の頃から続く名門貴族であり、歴代当主は王国の行政や軍務に携わってきた。広大な領地と由緒ある屋敷を所有し、社交界でも一定の影響力を持つ家柄である。もっとも、近年は領地の収益が減少し、屋敷の維持費や社交費によって財政が悪化していた。ローゼンタール商会からも多額の融資を受けており、経済的には決して余裕のある家ではなかった。
初めて顔を合わせたアルフォンスは、エリーゼの予想に反して穏やかな青年だった。彼女の出自を馬鹿にすることもなく、商会の仕事について興味深そうに質問してくれたのである。
「君の家は、王国の食料不足を救ったそうだね」
「はい。商会の皆が懸命に働いてくれたおかげです」
「立派なことだと思う。私も領地経営について学んでいるが、商売の仕組みにはまだ疎くてね。よければ、今度いろいろと教えてもらえないだろうか」
「私でよろしければ、喜んで」
エリーゼはその言葉を嬉しく思った。貴族社会では商家出身であることを理由に見下されることも多かったため、実家の仕事を認めてもらえたことが何より嬉しかったのである。アルフォンスも彼女の話に熱心に耳を傾け、二人は何度か茶会を重ねるうちに親しくなっていった。
婚約を受け入れる前、エリーゼはアルフォンスが過去に毒殺未遂事件の被害者となっていたことを知らされた。
十八歳の頃、伯爵家の財産と相続権を狙った遠縁の親族が使用人を買収し、夕食の料理に毒を混入させたのである。アルフォンスは食後まもなく激しい腹痛と吐き気に襲われ、意識を失った。医師の懸命な治療によって一命を取り留めたものの、長期間にわたって療養を余儀なくされた。
事件の犯人は逮捕され、実行犯となった使用人も処罰された。それでも、アルフォンスの心に残った恐怖は簡単には消えなかった。食事のたびに毒が入っているのではないかと疑い、誰かが用意した料理を安心して口にできなくなったのである。伯爵家では専属の毒見役を雇い、料理や飲み物の安全を確認させるようになったが、それでも彼の不安は完全には解消されなかった。
エリーゼはその話を聞き、胸を痛めた。命を狙われるという経験が、どれほど恐ろしいものなのか、彼女には想像することしかできなかった。だからこそ、婚約者となった自分が少しでも彼の支えになれればと考えていたのである。
婚約して半年ほど経った頃、アルフォンスは初めてエリーゼに毒見を頼んだ。
その日は伯爵家の庭園で茶会が開かれていた。春の花々が咲き誇る庭園には小鳥の声が響き、穏やかな日差しが降り注いでいた。侍女が運んできた焼き菓子を前に、アルフォンスは突然顔色を変えたのである。
「……エリーゼ。申し訳ないが、先に食べてもらえないだろうか」
「私が、ですか?」
「ああ。どうしても不安になってしまってね。使用人が毒見を済ませたことは分かっているんだが、以前の事件を思い出してしまうんだ」
「……分かりました。私でお役に立てるのでしたら」
エリーゼは彼の不安を和らげたい一心で、焼き菓子を一口食べた。アルフォンスはその様子をじっと見つめ、しばらくしてからようやく自分も菓子に手を伸ばした。安心したように微笑む婚約者を見て、エリーゼは自分の行動が彼の助けになったのだと感じた。
ところが、それを境にアルフォンスは頻繁に毒見を求めるようになった。最初は茶会で出される菓子や紅茶だけだったが、やがて昼食や夕食の料理、贈答品の果物、他家の夜会で振る舞われる飲み物にまで及ぶようになった。
エリーゼは最初のうち、彼の恐怖を理解しようと努めていた。毒殺未遂事件の被害者である以上、食事に不安を覚えるのは仕方がないことだと思っていたからだ。けれど、回数が増えるにつれて、次第に疑問を抱くようになった。
使用人が毒見を済ませたものまで、どうして自分が口にしなければならないのだろうか。そもそも、婚約者である自分が危険を引き受けることを、彼はなぜ当然だと思っているのだろうか。そんな疑問を抱くたびに、エリーゼは自分の考えが冷たいものなのではないかと悩んでいた。
ある日の夕食では、アルフォンスが料理長の用意した魚料理を前に、エリーゼへ毒見を命じたことがあった。彼女は魚介類の一部に体質的に合わないものがあり、その料理にも苦手な食材が使われていたため、食べることをためらった。
「アルフォンス様。申し訳ありませんが、こちらの料理は私の体質に合わない食材が使われておりますので……」
「少しくらいなら問題ないだろう」
「ですが、以前にも体調を崩したことがありまして」
「君は私が毒殺されかけたことを忘れたのか?」
アルフォンスは不機嫌そうに言い放った。その表情を見て、エリーゼはそれ以上反論することができなかった。彼の過去を持ち出されるたびに、自分が冷たい人間であるかのように感じてしまうのである。
結局、その日は別の料理を毒見することで納得してもらったが、エリーゼの胸には小さなわだかまりが残った。アルフォンスは自分の命を守るために慎重になっている。それなのに、彼女の体調や危険については、ほとんど気にかけていないように思えた。
その後も毒見の要求は続いた。エリーゼが伯爵家を訪れるたびに、アルフォンスは何かしらの飲食物を差し出し、先に口をつけるよう求めた。彼女が断ろうとすると、決まって過去の事件を持ち出し、婚約者なのだから協力してほしいと訴えるのである。
やがて、伯爵家の使用人たちもエリーゼが毒見をすることを当然のように受け止めるようになった。茶会の準備をする際には、最初から彼女の前に料理を置き、アルフォンスが口にする前に確認してもらおうとする者まで現れた。
ある日、エリーゼは侍女の一人に尋ねた。
「私が毒見をすることについて、伯爵様は何かおっしゃっていないのですか?」
「旦那様は、アルフォンス様が安心してお食事を取れるようになったことを喜んでいらっしゃいます」
「……そうですか」
「お嬢様がいらっしゃる日は、アルフォンス様もよく召し上がりますので。私どもも助かっております」
侍女に悪意がないことは分かっていた。彼女たちも、主人が食事を取れずに苦しむ姿を長年見てきたのだろう。だからこそ、エリーゼが毒見をすることでアルフォンスが安心できるのなら、それは良いことだと考えているのである。
けれど、エリーゼは自分が伯爵家の中でどのような存在として扱われているのか、少しずつ理解し始めていた。婚約者として招かれているはずなのに、食事のたびに毒見を求められる。彼女の好みや体調を気にかける者はほとんどおらず、アルフォンスが安心して食事を取れることばかりが重視されていた。
そんな彼女の気持ちが大きく揺らいだのは、ある晩餐会での出来事だった。
その日、ベルンハルト伯爵家では親しい貴族たちを招いた晩餐会が開かれていた。招待客の中には、アルフォンスの幼なじみや、伯爵家と長年付き合いのある貴族たちも含まれていた。エリーゼは婚約者として出席し、客人たちと談笑しながら食事を楽しんでいた。
ところが、主菜が運ばれてきたとき、アルフォンスは突然エリーゼに声をかけた。
「エリーゼ、先に食べてくれないか」
「……こちらのお料理を、ですか?」
「ああ。少し気になることがあってね」
周囲の貴族たちが不思議そうに二人を見つめた。エリーゼは戸惑いながらも、アルフォンスの表情が硬くなっていることに気づき、料理を一口食べた。すると、彼は安心したように微笑み、自分の皿に手を伸ばした。
その様子を見ていた年配の侯爵夫人が、怪訝そうに尋ねた。
「アルフォンス様。今のは、どういうことかしら?」
「何がでしょう?」
「婚約者の方に、先に料理を召し上がるようお願いしていらしたでしょう?」
「ああ。私は以前、毒殺されかけたことがありまして。それ以来、食事には慎重になっているのです」
「それは存じていますけれど……まさか、婚約者の方に毒見をさせているの?」
「ええ。エリーゼは私の婚約者ですから。将来の妻として、私の安全を守るために協力してくれているのです」
その言葉を聞いた瞬間、エリーゼは胸の奥が冷たくなるのを感じた。周囲の貴族たちも驚いた様子で顔を見合わせていたが、アルフォンスは自分の発言に何の問題もないと考えているらしい。
侯爵夫人はしばらく黙っていたものの、やがて静かに口を開いた。
「……アルフォンス様。毒見というのは、命に関わる役目でしょう?」
「もちろんです。だからこそ、信用できる者に任せているのです」
「信用できるからといって、その方を危険にさらしてよいということにはならないのではなくて?」
「ですが、エリーゼは私の婚約者ですから」
アルフォンスは当然のように答えた。その態度に、侯爵夫人はそれ以上何も言わなかった。けれど、彼女の表情には明らかな不快感が浮かんでおり、周囲の貴族たちも気まずそうに視線を逸らしていた。
エリーゼは俯いたまま、膝の上で手を握りしめた。自分がこれまで当然のように受け入れてきたことが、他人の目には異常な行為として映っている。その事実を、初めてはっきりと突きつけられたのである。
晩餐会が終わった後、エリーゼはアルフォンスに話を切り出した。
「アルフォンス様。今後、人前で毒見を命じることは控えていただけませんか?」
「どうしてだい?」
「今日のように、ほかの方々が驚かれることもありますし……何より、私自身が恥ずかしく感じました」
「恥ずかしい?私の安全を守ることが、そんなに恥ずかしいのか?」
「そういう意味ではありません。ですが、婚約者として食事に招かれているのに、毒見役のように扱われるのは……」
「君は随分と自分の立場を気にするようになったんだね」
アルフォンスは冷ややかな表情でエリーゼを見つめた。その目には、彼女の訴えを理解しようとする様子が見られなかった。
「君の家は、元々商家だろう。由緒ある伯爵家に嫁げるのだから、少しくらい私の役に立とうとは思わないのか?」
「……私の家柄が、何か関係あるのでしょうか?」
「もちろんあるさ。君の家が爵位を授かったのは、つい数年前のことだ。貴族社会での立場を考えれば、私との婚約がどれほど恵まれたものか分かるはずだろう」
エリーゼは言葉を失った。アルフォンスが商家出身の自分を見下しているのではないかと感じたことは、これまでにも何度かあった。けれど、彼がここまではっきりと口にしたのは初めてだった。
彼女は実家の商会を誇りに思っていた。凶作の際に多くの人々を救い、王国の発展に貢献してきた商会の仕事を、誰よりも尊敬していたのである。その功績を、アルフォンスは貴族としての歴史が浅いという理由だけで軽んじていた。
「……アルフォンス様は、私が商家の娘だから毒見をさせても構わないとお考えなのですか?」
「そんなことは言っていない。ただ、婚約者として私を支えるのは当然だろう」
「では、私が毒を飲んで倒れたら、どうなさるおつもりですか?」
「そんなことは滅多に起こらないさ」
エリーゼは、しばらく返事ができなかった。アルフォンスは毒殺されることを恐れている。だからこそ、食事のたびに誰かに毒見を求める。それなのに、エリーゼが毒を飲む可能性については、滅多に起こらないことだと言い切るのである。
「……滅多に起こらないことが、貴方には起きたのでしょう?」
「だからこそ慎重になっているんだ」
「では、私が毒を飲む可能性については、慎重にならなくてもよいのですか?」
アルフォンスは不機嫌そうに顔をしかめた。彼にとっては、自分の恐怖を理解してくれていたはずの婚約者が、突然わがままを言い始めたように感じられたのだろう。
「エリーゼ。君は少し考えすぎだよ。私は君を信用しているからこそ、毒見を頼んでいるんだ」
「……信用、ですか」
「ああ。使用人は買収されるかもしれない。だが、君は私の婚約者だ。私を裏切るはずがないだろう?」
エリーゼは静かに目を伏せた。アルフォンスが自分を信用していることは分かった。けれど、その信用は彼女の命を大切にすることとは結びついていない。彼は自分が裏切られないことばかりを考え、婚約者が危険にさらされることについては、ほとんど気にかけていなかった。
それから数日間、エリーゼは婚約について考え続けた。アルフォンスが毒殺未遂事件の被害者であることに変わりはなく、彼の恐怖を理解したいという気持ちも残っていた。けれど、婚約者として一生を共にすることを考えたとき、これから先も毒見を求められ続けるのではないかという不安が消えなかった。
彼が自分の恐怖を克服できる日が来るかどうかは分からない。だが、少なくとも今の彼は、エリーゼが危険を引き受けることを当然だと思っている。その考え方が変わらない限り、二人が対等な夫婦になることは難しいだろう。
そして、次の茶会の日が訪れた。
エリーゼはいつものように伯爵家を訪れ、応接室へ案内された。アルフォンスはすでに席についており、侍女が紅茶と焼き菓子を運んでくるのを待っていた。彼はエリーゼの顔を見ると、何事もなかったかのように微笑んだ。
「エリーゼ。今日は随分と早かったね」
「お話ししたいことがありましたので」
「そうか。まあ、まずはお茶にしよう」
侍女が紅茶を注ぎ、焼き菓子を並べた。アルフォンスはいつものようにカップを手に取ろうとしたが、途中で動きを止めた。そして、エリーゼの方へカップを差し出したのである。
「悪いが、先に飲んでくれないか」
「……お断りします」
「何だって?」
「毒見はいたしません」
アルフォンスは驚いたように目を見開いた。これまで何度も毒見を頼んできたが、エリーゼがはっきりと拒絶したことはほとんどなかったからだ。
「エリーゼ。以前の事件を忘れたわけではないだろう?」
「忘れておりません。ですが、私も自分の命を大切にしたいのです」
「君は私の婚約者だろう?」
「はい。だからこそ、これまで協力してまいりました。ですが、婚約者であることと、毒見役であることは違います」
アルフォンスは不満そうに眉を寄せた。彼にとっては、エリーゼが突然態度を変えたように感じられたのだろう。だが、エリーゼはこの日のために何度も考え、ようやく自分の気持ちを整理してきたのである。
「アルフォンス様。私は貴方の恐怖を理解したいと思っていました。命を狙われた経験が、どれほど恐ろしいものなのか、私には想像することしかできません。ですが、だからといって、私が命を危険にさらしてよい理由にはならないと思うのです」
「……大げさだよ。毒なんて入っているはずがないだろう?」
「では、どうして私に毒見をさせるのですか?」
アルフォンスは返事に詰まった。エリーゼはその様子を見つめながら、静かに言葉を続けた。
「貴方は毒が入っているかもしれないから、私に先に飲むようおっしゃるのでしょう?それなのに、私が危険を指摘すると、毒など入っているはずがないとおっしゃる。私には、その考え方が理解できません」
「私は君を信用しているんだ」
「信用している相手なら、危険にさらしても構わないのですか?」
アルフォンスは何も答えなかった。エリーゼはその沈黙を見つめながら、胸の奥に残っていた迷いが少しずつ消えていくのを感じた。
「……アルフォンス様。婚約を解消していただきたいのです」
「何だって?」
「私は、貴方と夫婦になることはできません」
アルフォンスはしばらく呆然としていたが、やがて顔をしかめた。彼にとって、婚約解消はあまりにも突然の申し出だったらしい。
「そんなことで婚約を解消するつもりなのか?」
「そんなこと、ですか」
「そうだろう。君は少し毒見を頼まれただけじゃないか」
「……少し、ですか」
エリーゼは静かに首を横に振った。これまで一年以上にわたって毒見を求められ、そのたびに不安を抱えてきた。何度も断ろうとしたが、アルフォンスの過去を思うと強く拒絶できなかったのである。
けれど、彼にとっては、そのすべてが些細なことだったらしい。
「貴方が毒を恐れていることは理解しています。ですが、私だって毒を飲めば死ぬのですよ?」
「……エリーゼ」
「私の命を、その程度にしか考えていらっしゃらない方とは、夫婦になれません」
エリーゼは立ち上がり、深く頭を下げた。アルフォンスは何かを言いかけたものの、結局は言葉を見つけられなかった。彼女はそのまま応接室を後にし、二年間の婚約生活に終止符を打ったのである。
婚約解消の知らせは、ほどなくして社交界にも広まった。
当初、アルフォンスはエリーゼが一時的に感情的になっているだけだと考えていた。由緒ある伯爵家との婚約を失うことが、商家から成り上がった男爵令嬢にとってどれほど大きな損失なのか、彼女もすぐに理解するだろうと思っていたのである。
ところが、エリーゼが婚約解消の意思を撤回することはなかった。
さらに、晩餐会でアルフォンスが婚約者に毒見をさせていたことを知った貴族たちの間では、彼の振る舞いを疑問視する声が広がり始めた。毒殺未遂事件の被害者であることには同情が集まったものの、婚約者を危険にさらしていたことについては、決して好意的に受け止められなかったのである。
特に、あの晩餐会に出席していた侯爵夫人は、親しい貴族たちに対して、婚約者を毒見役として扱うことがどれほど不適切であるかを語った。彼女の言葉は社交界でも一定の影響力を持っており、アルフォンスの評判は次第に悪化していった。
ベルンハルト伯爵家の財政事情も、婚約解消によって厳しさを増していた。ローゼンタール商会から受けていた融資については、契約に従って返済を続ける必要があったが、婚約関係を前提とした特別な優遇措置は終了した。追加融資を受けることも難しくなり、伯爵家は従来の生活を維持できなくなったのである。
伯爵家では、屋敷の維持費を削減するために使用人の数を減らし、高価な調度品や美術品を売却することになった。アルフォンスも以前のように贅沢な生活を送ることができなくなり、社交界での立場も次第に弱まっていった。
それでも、彼は自分が何を間違えたのか、なかなか理解できなかった。
婚約解消から二か月ほど経った頃、アルフォンスはエリーゼとの面会を求めた。
エリーゼは最初、面会を断ろうとした。けれど、彼が何を話すつもりなのか気になり、短い時間だけ会うことにしたのである。
久しぶりに顔を合わせたアルフォンスは、以前よりも疲れた様子だった。上等な衣服を身につけてはいたものの、以前のような余裕は感じられない。彼はエリーゼの姿を見ると、安堵したように微笑んだ。
「エリーゼ。久しぶりだね」
「お久しぶりです、アルフォンス様」
「……随分と冷たいんだな。以前はもっと親しく話してくれたじゃないか」
「婚約はすでに解消されておりますので」
アルフォンスは不満そうに眉を寄せたものの、すぐに表情を和らげた。彼は自分の置かれている状況を説明し、伯爵家の財政が厳しくなっていることを訴えた。
「父上も困っているんだ。君の家との取引が以前のように戻れば、何とか立て直せると思うんだが……」
「それは、商会との間でお話しなさることではありませんか?」
「もちろんそうだが、君が婚約を戻してくれれば、すべて元通りになるだろう?」
「……元通り、ですか」
エリーゼは静かにアルフォンスを見つめた。彼は婚約を解消された理由について、どこまで理解しているのだろうか。少なくとも、今の話を聞く限りでは、伯爵家の財政を立て直すことばかりを考えているように思えた。
「アルフォンス様。私が婚約を解消した理由を、覚えていらっしゃいますか?」
「もちろんだ。君が毒見を嫌がったからだろう?」
「……そうですね」
「だが、あれは誤解だったんだ。私は君を信用していたからこそ、毒見を頼んでいたんだよ」
アルフォンスは真剣な表情で説明した。彼にとっては、自分が婚約者を信用していたことが何より重要だったらしい。使用人は買収される可能性があるが、将来の妻となるエリーゼなら裏切るはずがない。だからこそ、彼女に毒見を頼んでいたのだと繰り返した。
エリーゼはその話を聞きながら、以前と何も変わっていないことを悟った。
「アルフォンス様。私は、貴方に信用されていたことを問題にしているのではありません」
「では、何が問題だったんだ?」
「貴方がご自身の命を守るために、私の命を危険にさらすことを当然だと考えていたことです」
「……だが、実際に毒が入っていたことなど一度もなかっただろう?」
「それは結果論です。もし毒が入っていたら、私はどうなっていたのでしょう?」
アルフォンスは返事に詰まった。エリーゼは彼を責め立てるつもりはなかったが、どうしても伝えておきたいことがあった。
「貴方が毒殺されかけたことは、本当にお気の毒だと思っています。命を落としかけた恐怖が、簡単に消えるものではないことも理解しているつもりです」
「だったら……」
「ですが、私だって毒を飲めば死ぬのですよ?」
エリーゼは静かな声で告げた。その言葉を聞いたアルフォンスは、何かを言い返そうとして口を開いたものの、結局は何も言えなかった。
彼は自分が毒を飲むことを恐れていた。だからこそ、料理や飲み物の安全を確かめるために、誰かに毒見を求めていたのである。けれど、その誰かにも命がある。自分が恐れている危険を、婚約者だからという理由で押し付けていた。その事実を、アルフォンスは初めて正面から突きつけられたのだった。
「……エリーゼ。私は、君を傷つけるつもりなどなかった」
「分かっています。ですが、傷つけるつもりがなければ、何をしても許されるわけではありません」
「それでも、もう一度やり直すことはできないだろうか?」
「申し訳ありませんが、私の気持ちは変わりません」
エリーゼは穏やかに答えた。アルフォンスの過去を思えば、彼を完全に責めることはできない。けれど、だからといって自分の人生を犠牲にする理由にもならなかった。
「どうか、ご自身の命を大切になさってください。私も、私の命を大切にしたいと思います」
それが、エリーゼから元婚約者へ贈る最後の言葉となった。
その後、ベルンハルト伯爵家は財政再建のために領地の一部を手放し、屋敷も規模の小さなものへ移ることになった。アルフォンスは別の縁談を探したものの、伯爵家の財政事情と過去の振る舞いが広く知られていたこともあり、話はなかなかまとまらなかった。
一方、エリーゼはローゼンタール商会で働き始めた。幼い頃から学んできた商売の知識を生かし、食料品の品質管理や取引先との交渉を任されるようになったのである。仕事は決して楽ではなかったが、自分の判断が誰かの役に立つことに、彼女は大きな喜びを感じていた。
ある日の午後、商会の執務室で仕事を終えたエリーゼのもとへ、侍女が紅茶を運んできた。温かな紅茶からは、彼女が昔から好んでいる茶葉の香りが漂っている。
「お疲れさまでした、お嬢様」
「ありがとう。いただくわね」
エリーゼはカップを手に取り、ゆっくりと紅茶を口に含んだ。ほどよい渋みと優しい香りが広がり、仕事で疲れた身体を心地よく癒やしてくれる。
以前は、紅茶を飲むことさえ憂鬱だった。自分のために用意されたものではなく、誰かの安全を確かめるために口をつけなければならなかったからだ。
けれど、今は違う。エリーゼは窓の外に広がる穏やかな街並みを眺めながら、もう一口、紅茶を味わった。これから先、誰かと食卓を囲むことがあったとしても、自分の命を差し出すような関係だけは二度と選ばないと決めている。
紅茶は、誰かの代わりに危険を確かめるためではなく、自分自身が楽しむために飲むものなのだから。




