【メリバ百合】「ノボテルタイムインハイム」全10話 冷たくなった彼女と一
「短編」 「完結」 【メリバ百合】死体になった親友と、永遠に終わらない愛の逃避行を 「ノボテルタイムインハイム」冷たくなった彼女と一全10話
とあるフリージャーナリストであった彼が失踪してから、三ヶ月。
仕事部屋は荒らされた形跡もなく、机の上には読みかけの民俗学の専門書と、一冊の赤いノートがぽつんと置かれているだけだった。
警察は「事件性なし」「仕事の重圧による自発的な蒸発」として早々に捜査を打ち切った。
彼が追っていたのは、地図から消された集落の因習か。それとも、身内に潜む静かな狂気だったのか。
以下は、そのノートの記述の抜粋である。
【5月12日】
妻が関係していると思われる県境の連続行方不明事件。
警察は関連性を否定しているが、私は別の角度から妙な符合を見つけた。
国土地理院の過去の航空写真と、最近公開された森林のLiDAR(航空レーザー測量)データを重ね合わせていた時のことだ。
旧〇〇村(現在は限界集落に近い)の奥地に、公式の地形図には存在しない「すり鉢状の巨大な窪地」が隠されている。
周囲の植生データが不自然に均一で、まるで意図的に窪地を隠すように、後から杉が密集して植林されているのだ。
【5月18日】
集落へ赴いた。
着くなり、少し違和感を覚えた。
住民たちは排他的というより、なにか「統制」されている様な気がする。
私が道を聞こうとすると、農作業をしていた老人が寄ってきて、もてなそうとする。
だが、私が「山の奥の地形」について尋ねた途端、周囲にいた数人の老人が音もなく集まり、私の行く手を物理的に塞いだ。
「GPSの故障でしょう」「そこは昭和の土砂崩れで埋まりました」と、誰もが同じ台詞を、感情のない声で繰り返す。
だが、彼ら背中からふと、ある林道の入り口が見えた。
有刺鉄線が張られ、その奥の木には、不自然なほど巨大な「鏡のようなもの」が山側へ向けて括り付けられていた。
違和感を覚えるとともに、何かをしているのか、あるいは「出てこないように」反射させているのか。
夕方帰宅すると、娘のマコが親友のアキちゃんとリビングでテスト勉強をしていた。平和な日常の光景に、ひどく安堵した。
【5月25日】
今日、ドローンを使って上空からのアプローチを試みたが、上空で操作不能となり、機体はロストした。
電池切れか、通信切れか……。
回収するためにも、歩いて行くしかない。
住民の監視を避け、夜明け前に別ルートの沢登りで斜面を越えた。
方向感覚を失いかけ、引き返そうとした時だ。
藪の中に、泥まみれの人工物が落ちているのを見つけた。
ドローンだった。
プロペラが折れ、ひどく損傷している。
ドローンが突っ込んだと思われる不自然な藪の切れ目を掻き分けた時、
突然、足元の地面が「消えた」
斜面を転がり落ちた私は、這い上がろうとして顔を上げ、息を呑んだ。
それはあった。
巨大な日本家屋だ。
この村の規模には到底見合わない。
しかも建築様式がおかしい。外側に向けて窓が一つもなく、すべての部屋が「内側の暗い中庭」を向いている。
まるで、外の光を入れるためではなく、家全体で「何かを重い蓋のように押さえつける」ための構造だ。
縁側の下の基礎コンクリートには、びっしりと黒い泥がへばりついていた。
近づいた時、床下からズズッ……という、泥の中を大勢の人間が這い回るような音が聞こえた気がして、逃げるように山を降りた。
【6月3日】
あの場所の「泥」を、家に持ち帰ってしまったかもしれない。
取材から帰って以来、玄関のあたりがややカビ臭い。
昨夜、ふと喉が渇いてキッチンへ行くと、暗闇の中でマコが、私の登山靴の前にしゃがみ込んでいた。
「何をしているんだ?」と声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向き、ニコリと笑った。
「理科の課題で、土の成分を調べるの」
だが、彼女が泥を削り取る手つきは、まるで宝石でも扱うかのようにうっとりとしていて、
私はなぜかそれ以上追及できなかった。
【6月8日】
錯覚が多くなった。
仕事部屋でパソコンに向かっていると、背後に誰かが立っているような気がして何度も振り返ってしまう。
家の空気が、湿っている。
除湿機をフル稼働させているのに、床が少しベタつく。
今日、マコの部屋のドアが少しだけ開いていた。
隙間から、彼女がベッドの上に座っているのが見えた。
背中を向けて、何かをハサミで細かく、細かく切り刻んでいる。
チョキ、チョキ、という単調な音が廊下まで響いていた。
思春期の娘だ。下手に干渉しない方がいいだろう。
【6月14日】
あの山奥の、秘匿された旧家。
どうしても、あの異常な空間が気にかかる。
あんな到達困難な窪地の底に、どうやって資材を運び、誰が何のためにあんな家を建てたのか。
最近の私は少し神経質になりすぎている。
あの家の中を確かめて、すべてをはっきりさせれば、この得体の知れない不安も消えるはずだ。
マコには、冷蔵庫のカレーを温めて食べるように書き置きを残した。
妻が失踪して以来、この家はずっと、あの子と私との二人きりの生活だった。
不便と迷惑をかけている。急な失踪は娘にとってもこの生活はストレスだろう……
あの子が頼れるのは、私しかいないのだ。
夕方には戻る。
今日、もう一度あそこへ行く。あの家の中に入って、何が隠されているのかこの目で確かめる。
ノートの記述は、ここで終わっている。
書きかけの文字がかすれることもなく、ただ日常の延長線上で、唐突に筆が置かれていた。
しかし、注意深く見ると、几帳面だった大人の男の字が、最後に向かうにつれて「若い女の子が書くような、丸みを帯びた字」へと変質しているような、気味の悪い違和感を覚えるのだ。
この赤いノートは、後に書斎から二人の女子高生――アキとマコの手によって見つけ出されることになる。
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