第9話 七年間、最前列を空けていたのは推しの方でした
王都の大演奏ホールは、千人の客席が埋まっていた。
私は最前列の、いつもの席に座っている。いつもの席——嘘だ。ここは侯爵家の音楽祭のホールではない。王都の公営大ホール。千人収容。天井にはシャンデリアが七つ。壁は白大理石で、音が蜂蜜のように柔らかく反響する。
でも最前列の中央だけは、「いつもの席」だった。
チケットを自分で手配した。最前列中央。誰にも譲れない。
舞台裏では二時間前からセラス様が調弦をしている。古語の発音を最終確認するヒルダの声が漏れ聞こえる。エドが舞台の花を直している。グレン弁護士が検閲局の担当者と最後の書類を確認している。
全部、私が段取りした。前世のイベント運営で培った技術が、推しの命運を握る日が来るとは思わなかった。招待状は二百通。検閲局関係者、王宮貴族、芸術家、新聞記者。全員の座席配置は頭に入っている。受付の対応手順書も作った。社畜根性が、人生で最も大事な場面で火を噴いている。
客席の後方に、見覚えのある顔があった。ブラント侯爵家の紋章が入った外套。フリッツだ。白髪の家令が背筋を伸ばして座っている。来てくれたのか。隣の席は空いている——ヴェルナーは来なかった。
開演のベルが鳴った。
ホールが暗くなる。舞台だけに燭台の明かりが集まる。千人の吐息が重なって、一つの沈黙になる。
◇◇◇
セラス様が舞台に立った。
擦り切れた革のチョッキは新しいものに変わっていた。エドが用意してくれた、リュート職人が着る伝統的な衣装。深い茶色の革に、金の留め具が一つだけ。装飾はそれだけだが、舞台に立つセラス様の佇まいが衣装を完成させていた。黒髪が舞台の燭台に照らされて、夜の水面みたいに光っている。
千人の観衆の前で、セラス様は一度だけ客席を見た。
最前列の。
私の方を。
一瞬だった。すぐにリュートに目を落とした。でも、その一瞬で——七年分の音楽祭が、いっぺんに蘇った。あの席で、あの人の視線が客席の一点に向いた瞬間。毎回、気のせいだと思っていた。
最初の曲。古語による原曲の演奏。
セラス様の声が、ホールを満たした。古語の歌詞は現代語より響きが柔らかく、旋律に寄り添うように流れる。ヒルダが復元した正しい発音で歌われる歌詞は、王家への感謝と敬意に満ちていた。
反逆の歌ではない。これは賛歌だ。
三百年前の詩人が王家に捧げた祈りの歌を、セラス様の魔力を帯びた声が蘇らせている。ホールの空気が金色に染まる。肌がぴりぴりする。隣の席の老婦人が、知らないうちに涙を流している。七年間聴き続けた音の魔力が、千人の聴衆を包んでいた。
曲が終わった。
沈黙。一秒、二秒。息をするのも憚られるような静寂。
そして、割れるような拍手。千人が同時に立ち上がった。
検閲局の担当者がヒルダの学術解説を聞き、書類に署名した。嫌疑の正式な取り下げ。副局長の顔は見えなかったが、会場に来ていないこと自体が彼の敗北を示していた。
セラス様の嫌疑は晴れた。
◇◇◇
拍手が収まりかけた時、セラス様が再びリュートを構えた。
「もう一曲だけ」
アンコール。プログラムにはない曲。
あの旋律が流れた瞬間、呼吸を忘れた。
先日サロンで聴いた曲だ。私の好きな曲のモチーフが織り込まれた、あの「練習曲」。タイトルはまだないと言っていた曲。
でも今、セラス様が千人の聴衆の前で、はっきりと告げた。
「曲名は——『最前列の君へ』」
頭が真っ白になった。
最前列の。君へ。
タイトルを聞いた瞬間、あの日サロンで「タイトルはまだない」と言ったセラス様の目を思い出した。嘘だと思った。あの時すでに、タイトルは決まっていたのだ。
旋律が流れている。柔らかくて、温かくて、秋の陽だまりみたいな音。その中に、私が好きだと言った曲のモチーフが何度も現れる。第三節の転調。半拍の余韻。全部入っている。七年間、私が感想として伝えてきた「好きな部分」が、一つの曲に編み上げられている。
涙が——だめだ。止まらない。
なんで。なんで七年間、ずっと。
セラス様は演奏しながら、最前列を見ていた。今度は一瞬ではなく、ずっと。七年間、一瞬だけだった視線が、今は私に向き続けている。
曲が終わった。最後の音が消えるまでの沈黙が、長い。長い。永遠みたいに長い。
セラス様がリュートを下ろし、舞台の前まで歩いてきた。最前列の、私の目の前まで。
「マリアベル様」
千人の前で。
「七年間、一度も最前列を空けなかったのは俺だ」
——え。
意味が。遅れて。脳に届いた。
あの席。音楽祭の最前列中央。「常に空いている」と思っていたあの席。他の客が座らないのは、人気席じゃないからだと。
違った。
セラス様が楽団側に頼んでいた。「あの席は常連の夫人のために」と。
七年間。ずっと。
「あなたが好きだと言った曲を、俺は毎回プログラムに入れた。あなたの感想が、七年間で唯一の音楽的対話だった」
だめだ。涙が。千人いるのに。恥ずかしいとかそういうのは。もう。どこかに。
「だから——」
セラス様の声が、初めて震えた。千人の前で演奏している時は微動だにしなかった声が。リュートの弦を何千回と弾いてきた指が、弦に触れずに宙で止まっている。
「推しとしてではなく、俺を見てほしい」
千人の沈黙。
誰も動かなかった。舞台と客席の間の空気が、音の魔力とは違う何かで満たされていた。
◇◇◇
セラス様が舞台の上で、リュートの弦を意味もなく弾いている。告白した後の沈黙に耐えかねて、いつもの癖が出ている。ぽん。ぽん。三つ目の音が、少し外れた。この人が音を外すのを聴いたのは、初めてだ。
客席の後方で、誰かが小さく拍手を始めた。フリッツだ。あの寡黙な家令が、一人で拍手をしている。それにつられるように、ぽつぽつと拍手が広がっていく。二人、三人、十人。やがてホール全体が温かい拍手に包まれた。
私はまだ最前列に座っている。涙でぐしゃぐしゃの顔で。
返事をしなければ。
でも、何と言えばいいのかわからない。「推しとしてではなく」と言われて、推しとファンの境界線が音を立てて崩れている。
七年間、最前列で聴いていた音楽。あの音が好きだった。あの転調が好きだった。半拍の余韻が好きだった。弦を弾く指の動きが好きだった。
でも、あの音を奏でている人のことも——。
答えは、最終話で。




