第8話 日本語を忘れました
フリッツからの手紙は、いつも正確で簡潔だ。今回も例外ではなかった。ただし内容が、少しだけ切迫していた。
——王都大音楽祭の招待状が、ブラント侯爵家に届きませんでした。芸術後援地区の認定更新手続きが未了であったため、認定が失効しております。奥方様が管理されていた手続きです。侯爵様は「なぜ招待状が来ない」と大変お怒りです。
——なお、リゼット・ミラー様が代替として音楽祭の主催を試みましたが、すべてのパトロンに断られております。ご参考までに、リゼット様は最近、空になった音楽ホールで一人歌っておられるとのことです。声は悪くないのですが、聴衆がおりません。
最後の一文で、手を止めた。
リゼットが、空のホールで一人歌っている。
あの人の歌声は、確かに悪くなかった。地方の社交界なら十分に通用するレベルだ。問題は方法であって、夢そのものは本物だった。セラス様への嫉妬も、「認められたい」という渇望から来ていた。
だからといって許すつもりはない。でも、空のホールで一人歌う姿を想像すると、ほんの少しだけ胸の奥が痛んだ。
手紙をたたんで、机の引き出しにしまった。今は演奏会の準備に集中する。
◇◇◇
サロンは少しずつ形になっていた。エドが看板を彫ってくれた。「エルムハルト音楽サロン」と、木目の美しい板に刻まれている。常連客が数人つき始めた。近所のパン屋の主人、隣町の布商人の妻、そして毎日夕方に来る退役騎士の老人。入場料は銅貨五枚。まだ細々とした収入だが、ゼロではない。
退役騎士の老人は、毎回同じ席に座ってセラス様の演奏を聴き、何も言わずに帰っていく。ある日、帰り際にぽつりと「昔、王都でこの曲を聴いた」と呟いた。セラス様の目が少し丸くなった。音楽を覚えている聴衆がいることに、驚いたのだろう。
持参金の返還も手続きが進んでいる。グレン弁護士から「異議申立期間が満了し、正式に離縁が成立しました」という通知が届いた。金貨三百枚相当の持参金が、来週には入金される。伯爵家の娘が侯爵家に嫁ぐ際の持参金としては標準的な額だ。そうなれば、王都のホールを借りるための資金も確保できる。
セラス様は毎日、古語の歌詞で練習をしている。ヒルダが送ってくれた発音表を見ながら、一音一音、正確に。彼の音の記憶力は異常で、一度聴いた発音は二度と間違えない。ただし古語の母音の微妙な違いだけは何度も確認している。完璧主義だ。楽器だけでなく声にも妥協しない。
「マリアベル様」
練習の合間に、セラス様が声をかけてきた。リュートを膝に置いて、窓の外を見ている横顔。午後の光が頬の輪郭を照らしている。
「新しい曲を書いた。試奏に付き合ってくれないか」
「もちろんです」
また返事が早すぎた。学ばない女だ。推しに「聴いてくれ」と言われて即答しない人間がいるのなら、それはファンではない。
セラス様が椅子の位置をほんの少しだけ調整した。私が座っている場所の方に寄せて。
「この位置の方が音響がいい」
また、その理由。前もそう言っていた。サロンの音響は場所によってそこまで変わらない。エドが壁を均一に仕上げてくれたからだ。本当に音響のことしか考えていないのだろうか。それとも——いや、推しの言葉を深読みするのはファンの悪い癖だ。
リュートの弦が鳴った。
最初の一音で、空気が変わった。
いつもの練習曲とは違う。柔らかい旋律。秋の陽だまりのような温かさ。そして——聴いたことのあるモチーフが、旋律の中に織り込まれていた。
私が「一番好きな曲」の冒頭。あの転調。半拍の余韻。
セラス様が、私の好きな曲のモチーフを自分の新曲に入れている。
指が震えそうになるのをこらえた。これは試奏だ。冷静に聴かなければ。感想を求められているのだから、プロフェッショナルな耳で聴かなければ。
曲が終わった。最後の音の余韻が、サロンの壁に反響して消えるまで、長い沈黙があった。
「どうだった」
「……第二楽章の後半、あの転調が入る箇所。原曲のモチーフを使っていますね」
「ああ」
「あれは——私の好きな曲の」
「知っている。あなたが好きだと言っていた」
知っていて、使った。
「あなたの耳が一番信頼できる。だから最初に聴いてほしかった」
処理落ちした。
完全に、処理落ちした。
前世で上司に「君のレポートが一番信頼できる」と言われた時に「あ、はい、今日の湿度が七十パーセントで」と答えて会議室を凍らせた、あの現象が再発した。
「耳は、二つありますけど」
何を言っているんだ私は。
セラス様が一瞬固まった。それから、肩が小さく震えた。
笑っている。
この人が笑うのを見たのは、初めてかもしれない。声を出さずに、肩だけで笑っている。目元に皺が寄って、いつもの無表情が崩れている。
「……すみません、今のは忘れてください」
「いや」
セラス様がリュートの弦を撫でた。笑みがまだ残っている。
「いい曲が書けそうだ」
「え?」
「今の反応で。……いい曲が書けそうだと思った」
意味がわからない。私の頓珍漢な返答から何のインスピレーションを得たのか。
セラス様がまた弦を弾いた。さっきとは違う旋律。即興だ。軽やかで、少しおどけた音。
「この曲のタイトルは?」
「練習曲だ。……タイトルはまだない」
嘘だ、と思った。あの人の目が、タイトルを知っている目をしていた。
でも聞けなかった。聞いたら、何かが変わってしまう気がした。推しとファンの、この距離が。
◇◇◇
夜、一人でサロンの帳簿をつけながら考えた。
セラス様は、私のために曲を書いた。
それは「恩返し」なのか。助けてもらった礼として曲を捧げるのは、楽師として自然なことだ。
でも、あの曲に私の好きな旋律が入っていたのは。
あの笑顔は。
——だめだ。推しと恋愛感情を混同してはいけない。推しは推し。それ以上のことは考えない。
帳簿の数字がにじんで見えた。疲れ目だ。それ以上の理由はない。
窓の外に、冬の最初の星が見えた。エルムハルトの空は侯爵領より広い。星が多い。前世でも今世でも、星を見上げる余裕がなかった。働いている間は空を見ない。推しのことを考えている間は足元しか見ない。
でも今夜は、少しだけ空を見ている。
サロンの奥から、セラス様がまだ弾いている音が聞こえる。あの「タイトルのない練習曲」のモチーフが、何度も繰り返されている。この人は好きなフレーズを見つけると、何百回でも繰り返す。
演奏会まであと二週間。セラス様の新曲がプログラムに加わる。王都で、一番大きいホールで、推しの晴れ舞台を最高のものにする。
それが今、私にできるすべてだ。
——本当に、それだけだろうか。
いや。今は考えない。演奏会の後に考える。




