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夫が私の推しを処刑しようとしたので、離婚届と辞表を同時に提出します  作者: 九葉(くずは)


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第7話 原典は見つかった

ヒルダは手袋をはめたまま、黄ばんだ羊皮紙をそっと広げた。


王立図書館の地下書庫。蜜蝋燭台の明かりが石壁に揺れている。埃と古い紙の匂いが濃い。ヒルダの研究室は本と資料の山に埋もれていて、足の踏み場もない。前世のデスクもこんな感じだった。片付けられない人間に悪い人はいない、という持論がまた強化された。


「これです、マリアベル様。三百年前の写本」


ヒルダの目が輝いている。小柄な女性で、分厚い眼鏡の奥の目がいつも何かに夢中になっている。芸術振興事業の助成金を出した時も、研究成果を早口で語るヒルダの熱量に圧倒されたのを覚えている。


羊皮紙の上に、古語で書かれた歌詞があった。インクは褪せているが、読めないほどではない。


「この歌詞、現代語に訳す際に致命的な誤訳が入っています。古語の『ケルトゥス』は現代語では『打倒する』と訳されていますが、原義は『讃える』です。語根が同じなんですが、接頭辞の有無で意味が逆転する。三百年の間に接頭辞が脱落したんです」


つまり。


「この民謡は、王家を打倒する歌ではなく、王家を讃える歌だった」


「その通りです。賛歌なんです」


笑いが込み上げた。三百年前の写本が、推しの無実を証明してくれる。


ヒルダは既に学術論文を書き上げていた。助成金の恩義があるとはいえ、二週間でここまで仕上げてくれたのは彼女の研究者としての情熱だろう。


「論文は完成しています。王宮検閲局に提出する準備も整っています」


「ヒルダ、本当にありがとう」


「お礼には及びません。三百年の誤訳を正す論文が書けるなんて、研究者冥利に尽きます。それに——」


ヒルダは眼鏡を拭きながら続けた。


「あの助成金がなければ、私はとっくに研究を辞めていました。王立図書館の予算は毎年削られて、古楽研究なんて真っ先に切られる分野です。マリアベル様が出してくださった助成金だけが、三年間の研究費でした」


知らなかった。そこまで追い詰められていたとは。


「だからこれは恩返しではなく、研究者としての義務です。誤訳された歌が正しく歌われるべきだという、それだけのことです」


ヒルダの目は真剣だった。この人もまた、自分の「好き」を守るために戦っている人だ。


◇◇◇


論文を王宮検閲局に提出した。


返答は三日後に来た。グレン弁護士が封を切り、中身を読み、眉間に深い皺を寄せた。


「副局長の回答です。『学術論文のみでは証明として不十分である。原曲を古語の原歌詞で公開演奏し、王宮関係者の面前で反逆の意図がないことを実演により証明せよ』」


椅子の肘掛けを握り込んだ。


学術的に証明されているのに、それでは不十分だと。論文を読めば誰でもわかる。接頭辞の脱落による誤訳だと。それを「実演で証明しろ」とは何だ。


「面子です」


グレン老人が静かに言った。


「ハインツ・ミラー副局長は、姪の告発を正式に受理した。学術論文一枚で嫌疑を取り下げれば、自分の判断が誤りだったと認めることになる。だから『手続き上、実演が必要』という形にして、面子を守ろうとしている」


「それは——」


「法的には正当です。検閲局には証明方法を指定する権限がある。嫌がらせですが、法の範囲内の嫌がらせです」


歯を食いしばった。こめかみの辺りがじんじんする。


前世で取引先の部長が、自分のミスを認めたくないために追加の資料を要求してきたことがある。結局、三回プレゼンをやり直して、四回目でやっと通った。あの時と同じだ。権力を持つ人間が面子のために動く時、正しさだけでは勝てない。正しさを「見せる」必要がある。


論文を握りしめた手が白くなっていた。ヒルダが二週間かけて書いた論文。三百年の誤訳を証明する、完璧な学術論文。それを「不十分」と切り捨てる権力。


でも、怒りで止まっている場合ではない。前世で学んだもう一つの教訓がある。相手がゴールポストを動かすなら、動かされた先のゴールで点を取ればいい。


ならば。


「公開演奏会を開きましょう」


グレン老人が目を丸くした。


「検閲局が実演を求めるなら、王都で一番大きいホールで堂々とやりましょう。王宮関係者も、芸術家も、一般市民も招いて。セラス様が古語の原歌詞で演奏し、ヒルダが学術解説をする。副局長が嫌がらせのつもりで要求した『公開演奏』を、セラス様の名誉回復の舞台に変えてやりましょう」


嫌がらせを逆手に取る。前世の広告代理店で学んだ技術だ。相手の土俵で戦う時は、相手の予想を超えるスケールでやる。


◇◇◇


その日の夕方、セラス様がサロンに来た。


王都への出頭から戻ったばかりで、旅塵がまだ服に残っている。以前なら「ここで弾いてもいいか」と聞いた。今日は違った。


「ここで弾きたい」


一語が変わっただけだ。でも、その一語の重みを私は聞き逃さなかった。


サロンの隅の椅子に座って、リュートを構える。私は向かいの机で演奏会の企画書を広げた。並んで作業する時間。楽譜を広げ、古語の発音について相談し、ヒルダの論文を一緒に読む。


セラス様が楽譜から目を上げて、私の横顔を見ているのに気づいた。目が合うと、すぐに楽譜に視線を戻す。耳の先が少し赤い。この人は感情が耳に出る。


「……古語の発音、ヒルダ殿に確認した方がいいか」


「ええ、お願いします。演奏会までに正しい発音で歌えるようにしましょう」


「三週間か」


「間に合いますか」


セラス様がリュートの弦を一度鳴らした。澄んだ音がサロンに広がる。壁に反響して、もう一度戻ってくる。エドが塗り直した壁の音響は、想像以上に良い。


「間に合わせる」


短い言葉だった。でもその声には、牢の中から手紙を書いていた時の弱さはなかった。あの「捨て置いてください」と書いた人と同じ人とは思えない。


窓の外が暗くなっていく。セラス様が古語の旋律を練習し始める。私は企画書に数字を書き込む。ホールの定員、入場料、招待状の枚数。座席配置は前世のイベント設計の経験を活かして、検閲局関係者を最前列ではなく三列目に配置する。最前列は空けておく。私の席のために。


この時間が、音楽より楽しいと思ってしまったのは。


きっと疲れているせいだ。そう思うことにした。


サロンの時計が十時を打った。セラス様がまだ弾いている。私はまだ数字を書いている。二人の間にある空気が、少し前とは違うものに変わっていることに、たぶん二人とも気づいている。


気づいていて、まだ名前をつけられないでいる。

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