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夫が私の推しを処刑しようとしたので、離婚届と辞表を同時に提出します  作者: 九葉(くずは)


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第6話 推しに推し活を否定されるのは、この世で一番つらい

手紙の封を開けた瞬間、インクの匂いがした。安いインクの匂い。


セラス様は王都への定期出頭のため、昨夜からサロンを離れている。出発前に、机の上にこの手紙が置いてあった。直接言えないことを紙に書く人だ。面と向かって言えないなら弾けばいいのに、と思ったが、今回は楽譜ではなく文字だった。


封を切る。折り畳まれた紙は薄くて、向こう側が透けて見える。文字は几帳面だった。楽譜を書く人の字だ。音符のように正確で、等間隔に並んでいる。


——マリアベル様。お伝えしたいことがあります。


——自分のことは捨て置いてください。


——あなたはご自分の人生をお歩きください。俺のために侯爵夫人の座を捨て、さらに王宮との問題にまで巻き込まれることは、俺の望みではありません。


——あなたの七年間を、俺のせいでこれ以上無駄にしないでください。


紙を握り潰していた。


気づいた時にはもう、手の中で手紙がくしゃくしゃになっていた。


無駄。


七年間を無駄にするな、と。


あの人の字は几帳面で、楽譜みたいに正確で、一文字一文字に迷いがなかった。それなのに書いてある内容は全部間違っている。全部。一行残らず。


あなたのせいで、と。


違う。


違う違う違う。


あなたのせいじゃない。私が好きで聴いていたんだ。好きで最前列に座っていたんだ。好きで朝の業務を片付けて、好きで音楽祭の準備をして、好きで封蝋の色を揃えて招待状を三十二通書いて──好きだから──。


前世でも同じだった。推しのライブに行くために残業を断って、上司に「趣味のために仕事を犠牲にするのか」と言われた。犠牲じゃない。選択だ。自分で選んで、自分の時間を使っている。それを「無駄」と呼ぶ権利は誰にもない。夫にもない。上司にもない。


なのに。


推しに。


当の推しに「自分のことは捨て置いて」と言われるのは。


この世で一番つらい。


「推しは関係ないと言うな」


声が出ていた。誰もいないサロンの中で、手紙を握り潰したまま、声が出ていた。


「私の七年は推しでできている」


目が熱い。喉が詰まる。泣いているのかもしれない。わからない。前世で過労死した時も、最後に思ったのは「推しのライブ、来月のチケット取ったのに」だった。


──ああ、これは怒りだ。


ヴェルナーへの怒りじゃない。リゼットへの怒りでもない。


自分の好きなものを好きだと言えなかった、前世と今世の両方に対する、七年分の怒り。


手紙をもう一度広げた。裏を見る。


小さく、楽譜の断片が書かれていた。五線譜に、数小節だけ。


あの曲のモチーフだ。私が一番好きだと言った曲の、冒頭の旋律。


なんでこれを書いたの。


捨て置いてほしいなら、なんで私の好きな曲を手紙の裏に書いたの。


◇◇◇


気づいたらエドの工房の前に立っていた。走ってきたらしい。息が上がっている。


扉を叩く前に、扉が開いた。エドが木屑だらけのエプロンのまま立っている。私の顔を見て、何も言わずに中に入れてくれた。


工房はリュートの木の匂いがした。松脂と杉と、ニスの混じった匂い。前世の実家の匂いに似ている。父が日曜大工をしていた時の、木を削る匂い。あの頃はまだ、好きなものを好きだと言えた。


壁に掛けられたリュートの型が、ずらりと並んでいる。大きいもの、小さいもの、弦の数が違うもの。エドが五十年かけて作り上げてきた型だ。


「手紙か」


エドが聞いた。私の顔を見ただけでわかったらしい。目が腫れているのだろう。


「セラス様が、自分のために人生を無駄にするなと」


「ふん」


「無駄じゃない。無駄なんかじゃない。私は自分で選んでここにいるのに、なんで本人にそれを否定されなきゃいけないの」


声が震えた。敬語が崩れている。伯爵家の令嬢として、こんな口の利き方はしない。でも今は、前世の自分と今世の自分がごちゃ混ぜになっていて、言葉を選ぶ余裕がない。


しばらく、木を削る音だけが響いていた。シュッ、シュッ、と規則的な音。


「あんたの好きなものを守るのが間違いなわけがないだろう」


エドは私を見なかった。手元のリュートの木を見ながら言った。


「好きなものを好きだと言えるのは、それだけで才能だ。大半の人間は、好きなものが何かもわからないまま死ぬ」


シュッ、と木が削れる音。


「俺もそうだった。この仕事を始めるまでの三十年間、自分が何を好きなのか知らなかった」


エドの声は荒いが、木目に沿って刃を走らせる手つきは繊細だった。リュートの曲線に沿って、一ミリずつ、丁寧に。


泣いていた。いつの間にか泣いていた。前世で泣いたのはいつだっただろう。思い出せない。泣く暇もなく働いて、泣く暇もなく死んだ。今世で泣いたのも、たぶん初めてだ。七年間、一度も泣かなかった。


「……ありがとう、エド」


「礼はいらん。サロンの壁、まだ三面残ってるぞ」


笑った。泣きながら笑った。


◇◇◇


夜、サロンに戻って、計画を練り直した。


静かにサロンを開いて、ひっそり暮らす。最初の計画はもう使えない。王宮案件になった以上、「放っておけば解決する」はありえない。


なら、正面からやる。


王都で公開演奏会を開く。古い民謡の原典を見つけ出して、歌詞が反逆ではないことを、音楽で証明する。検閲局が求めるなら、その土俵で勝つ。


ヒルダに連絡を取ろう。王立図書館にいるはずだ。侯爵家の芸術振興事業で助成金を出していた時、彼女は古い民謡の音楽史を研究していた。原典を探せる人間がいるとすれば、この国ではヒルダだけだ。


エドに会場の手配を相談しよう。エルムハルトでは小さすぎる。王都のホールを借りなければならない。資金は持参金の返還が間に合えば——間に合わなければ、伯爵家に頼み込む。


グレン弁護士に法的な段取りを確認しよう。公開演奏会が検閲局の「証明手段」として法的に認められるのか。仮釈放中のセラス様が王都で演奏することに問題はないのか。


机の上に紙を広げた。前世のプロジェクト管理シートと同じ要領で、タスクを書き出していく。期限、担当、優先順位。社畜の血が騒ぐ。


手紙の裏に書かれた楽譜の断片を、もう一度見た。


私の好きな曲の、冒頭の旋律。


「……待っていてください、セラス様」


推しの音楽を、今度こそ正面から守る。逃げるのではなく。


前世の私は逃げた。推し活を削り、仕事を優先し、そして結局すべてを失った。


今世は逃げない。絶対に。

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