第5話 推しを守る計画が炎上しました
検閲官、という肩書を名乗る男が、サロンの扉を叩いたのは昼下がりだった。
その朝は穏やかだった。サロンの窓から秋の陽が差し込んで、床に光の四角を作っていた。エドが直してくれた窓枠は歪みが取れて、風がぴたりと止まっている。セラス様が窓辺の椅子でリュートを弾いている。リハビリの練習曲だ。指はまだ少し鈍いと本人は言うが、私の耳には十分すぎるほど美しい。
弾いている曲は、去年の音楽祭で最も拍手を浴びた曲だった。短調の旋律が長調に転じる瞬間、空気が金色に変わるような音の魔力。何度聴いても背筋がぞくりとする。
「今の第三節、半拍だけ間を長くされましたね。転調の前にあの余韻を入れるの、好きです」
感想を伝えると、セラス様の指が一瞬止まった。振り返らないまま、小さく息を吐いた。
「……ああ、やはりあなたにはわかるのか」
何か言いたげな顔をしたが、すぐに視線をリュートに戻した。弦を一つ弾いて、また別の旋律に移る。さっきとは違う曲。優しい、子守唄のような旋律。聴いたことがない曲だ。
その声の響き方が、少しだけ柔らかくなった気がした。気のせいだろう。推しの新曲に胸が高鳴っているだけだ。
そんな穏やかな時間を引き裂いたのが、扉を叩く音だった。
◇◇◇
検閲官は黒い外套を着た中年の男で、名をグスタフと名乗った。王宮文化検閲局から派遣されたという。書状を差し出す手つきが事務的で、これが日常業務であるかのようだった。
「セラス・ヴァイルの演奏した楽曲に関し、反逆的内容の疑義が正式に受理されました」
正式に。
「待ってください。あの嫌疑はブラント侯爵家の内部告発です。領主裁判所の管轄のはずでは」
「告発状が王宮に直接提出されたため、管轄が移行しました。告発者はリゼット・ミラー殿。受理者は王宮文化検閲局副局長、ハインツ・ミラー」
ミラー。
リゼットと同じ姓。
指先が冷たくなった。副局長がリゼットの伯父だ。姪の告発を、伯父が王宮の権威を使って正式受理した。侯爵家の内輪の話が、王宮案件に格上げされた。ヴェルナーに侯爵家の問題として処理させていれば、せいぜい領主裁判所で「嫌疑なし」の判定が出て終わりだった。それが王宮の検閲局ともなれば話が全く違う。
──前世で、競合他社の役員リストを調べずにプレゼンに臨んで惨敗したことがある。クライアントの前で赤っ恥をかいた。あの時と同じだ。リゼットの親族関係を調べなかった。侯爵家にいた七年間、リゼットのことは「歌が上手い男爵令嬢」としか認識していなかった。彼女の背後にある人脈を見落とした。リサーチ不足。致命的なリサーチ不足。
「本件に伴い、ヴァイラー伯爵家による保釈保証は侯爵家内の嫌疑に対するものであり、王宮案件には効力が及びません。セラス・ヴァイルの身柄は現状、仮釈放の状態に移行します」
「仮釈放の条件は」
遮った。パニックになっている場合ではない。前世で炎上プロジェクトを何度も鎮火してきた。炎上時の鉄則は一つ。まず情報を集める。感情は後回しだ。
グスタフは少し驚いた顔をしたが、淡々と答えた。
「嫌疑の対象となった楽曲について、反逆の意図がないことを正式に証明すること。証明の方法は検閲局が指定します」
「期限は」
「特に定めはありませんが、証明がない場合は正式な裁判に移行します」
裁判。反逆罪の裁判。有罪になれば、投獄どころでは済まない。
検閲官が去った後、サロンの中は静かだった。セラス様がリュートを膝に置いたまま、壁を見ている。
「マリアベル様」
「はい」
「俺のために、あなたまで巻き込まれる必要はない。保証人として署名した以上、あなた自身も事情聴取の対象になりうる」
知っている。グスタフの言葉の端から、それは読み取れた。
「逃亡幇助と見なされれば——」
「セラス様」
遮った。
「推しを見捨てるファンがどこにいますか」
セラス様が目を見開いた。「ファン」の意味は相変わらずわからないだろうに、私の声の温度だけは伝わったらしい。
「あなたは——」
何か言いかけて、やめた。リュートの弦を意味もなく弾いた。ぽん、と小さな音。それからもう一度、ぽん。二つ目の音の方が、少し震えていた。
「……わかった。なら、俺も逃げない」
その声が静かで、硬くて、リュートの弦を押さえる時の指みたいだった。
◇◇◇
夜、弁護士のグレン老人と対策を練った。エドの工房の二階の小部屋を借りて、蜜蝋燭台の明かりの下で書類を広げた。レモングラスの冷茶がとっくに冷え切っても、話は尽きない。
「ハインツ・ミラーという男は出世欲が強い。姪の告発を受理したのは家族愛ではなく、侯爵家に恩を売る政治的計算でしょう」
「つまり、彼個人を説得しても無駄ということですか」
「感情では動かない。制度で動かすしかありません」
制度で動かす。法的に正面から突破する。
「嫌疑の対象は古い民謡の歌詞です。原典があれば、歌詞の意味を正しく立証できる可能性がある」
「古い民謡の原典……」
頭の中で、一つの名前が浮かんだ。ヒルダ。王立図書館の古楽研究者。侯爵家の芸術振興事業で助成金を出していた時に知り合った女性だ。
手がかりはある。手段はまだ見えないが、方向は見えた。
「古楽の原典が見つかれば、歌詞の真意を学術的に証明できます。それを検閲局に提出すれば——」
「法的に反論の余地がなくなる。副局長が政治的動機で動いていようと、学術的証拠の前では退くしかない」
グレン老人が頷いた。この人は法律の専門家だが、権力の機微にも精通している。前世でいう「デキる顧問弁護士」だ。
窓の外は暗い。前世の私なら、ここで残業に入るところだ。実際、今の状況は前世の炎上プロジェクトとそっくりだ。クライアント(推し)を守るために、法的根拠(原典)を見つけ、権力者(検閲局)を説得する。
違うのは一つだけ。
前世は会社のために走っていた。今は、自分が守りたいもののために走っている。
階下のサロンから、微かにリュートの音が聞こえた。セラス様がまだ弾いている。暗い部屋で、一人で。あの人はいつもそうだ。不安な時ほど楽器を手に取る。言葉の代わりに音を出す人だ。
その音を、もう二度と誰にも奪わせない。
その決意が、疲れた体にほんの少しだけ力をくれた。
明日、ヒルダに手紙を書こう。




