第4話 侯爵家のスケジュール帳が真っ白です、という報告が来ました
壁の漆喰を塗り直す、という作業を生まれて初めてやった。
前世でも今世でも、こういう「自分の手で作る」経験がなかった。広告代理店では企画書を作り、侯爵家では催事計画を立てていた。どちらも「頭の中のもの」を形にする仕事だったが、壁の漆喰は違う。腕が痛い。腰も痛い。白い粉が髪に積もる。
前世の引っ越しバイトを思い出す。大学時代、推しのライブ資金を稼ぐためにやった。あの時も腕がもげるかと思った。推しのためなら人間は何でもできる。
エルムハルトの小都市で借りた空き家は、元は小さな集会所だったらしい。天井が高く、音の響きがいい。音楽サロンにはうってつけだ。ただし壁は剥がれ、窓枠は歪み、床板は三枚ほど腐っている。
「お嬢さん、その塗り方じゃ三日で剥がれるぞ」
声のした方を見ると、白髪の老人が戸口に立っていた。革のエプロンに木屑がついている。手は大きく節くれ立っていて、職人の手だ。
「……すみません、初めてなもので」
「見ればわかる」
老人はずかずかと中に入ってきて、私の手からコテを取り上げた。一度壁を撫でただけで、漆喰が嘘のように平らになった。
「あなたは」
「エド。通りの向こうでリュート工房をやっている。ここに楽器の音が出入りするようになるなら、壁の仕上げくらい手を貸す」
ぶっきらぼうだが、悪い人ではなさそうだ。エドの工房は、マリアベルが侯爵家時代に芸術振興の助成金を出していた先の一つだった。名前は覚えている。
「あの助成金の——」
「ああ。あんたの名前が書類に載っていたな。ブラント侯爵夫人、とか」
「今はただのマリアベルです」
エドが鼻を鳴らした。「そうかい。ならマリアベル、漆喰の塗り方を教えてやる。まず水加減が全然なってない」
それから二時間、エドに漆喰の塗り方を叩き込まれた。水は少なめ、コテは寝かせて、一方向に。「壁を撫でるんじゃない、壁と話すんだ」というエドの指導は、正直よくわからなかったが、言われた通りにやると確かに仕上がりが違う。
サロンの内装は少しずつ形になりつつあった。椅子は伯爵家から古いものを八脚もらった。テーブルは街の家具屋で中古品を二台。カーテンはまだ買えていないが、セラス様が弾く場所だけは決まっている——部屋の奥、壁際。音が一番綺麗に反響する位置。
前世でイベント会場の設営を手伝った経験が、こんな形で役に立つとは思わなかった。動線を考えて、客席を配置して、演奏者の立ち位置を決める。やっていることは前世とほとんど同じだ。ただ、前世はクライアントのためにやっていた。今は推しのためにやっている。その違いだけで、腕の痛みが半分になる気がする。
◇◇◇
午後、セラス様がサロンに来た。
まだ開業前の、がらんとした部屋だ。壁は半分だけ白くなっていて、窓にはカーテンもない。秋の風が隙間から吹き込んで、埃を舞い上げる。
セラス様は部屋を見回して、隅にあった木の椅子に座った。
「ここで弾いてもいいか」
「もちろん」
返事が早すぎた。自分でびっくりするくらい早かった。推しが自分のサロンで弾きたいと言っている。前世の私が聞いたら失神する案件だ。
セラス様がリュートを構える。弦を一度鳴らして、部屋の響きを確かめるように耳を傾けた。それから、短い旋律を弾き始めた。
リハビリだ、と思った。牢の中で弾けなかった日数分、指が鈍っている。それでも、音が空間を満たす瞬間、がらんとした部屋が別の場所になった。
壁の漆喰が半分しか塗れていなくても。窓枠が歪んでいても。
この人の音が鳴れば、ここは音楽の場所になる。
セラス様が弾き終えて、椅子の位置を少しずらした。私が作業していた場所の近くに。
「この椅子の位置が一番音響がいい」
本当だろうか。まあ、音楽家がそう言うなら。
◇◇◇
夕方、フリッツからの手紙が届いた。
封を切る指が少し震えた。侯爵家の家令が、離縁した元夫人にわざわざ手紙をよこすのは穏やかな話ではない。
内容は簡潔だった。フリッツらしい、正確で無駄のない文面。
——秋季音楽祭のパトロン契約がすべて失効しました。契約書がマリアベル様の個人名義であったため、離縁に伴い自動的に効力を失ったものです。リゼット様が代替の契約を試みましたが、すべてのパトロンから「マリアベル様を通してほしい」と回答があり、新規契約は成立しておりません。音楽祭の開催は現状では不可能と思われます。侯爵様はこの件についてまだご存じありません。
読み終えて、息をついた。
最後の一文が重い。ヴェルナーはまだ知らないのだ。自分が「たかが妻の趣味」と呼んでいたものが、侯爵家の社交的地位の根幹だったことを。
わかっていたことだ。芸術パトロンとの関係は、書類ではなく信頼で成り立っている。私が七年かけて築いた信頼は、引き継ぎ資料には載らない。
少しだけ、申し訳ない気持ちが胸をよぎった。フリッツは優秀な家令だ。彼に非はない。けれど芸術事業は彼の専門外で、私がいなくなった穴を埋められる人材は侯爵家にはいない。
——それは、私が「意図的に独占した」のではなく、ヴェルナーが「たかが妻の趣味」と人員増強を拒否し続けた結果だ。
引き継ぎ資料は置いた。口頭での引き継ぎも申し出た。拒否したのは向こうだ。
手紙をたたんだ。
「どうした」
エドが作業の手を止めてこちらを見ていた。
「……侯爵家の音楽祭が、開催できなくなりそうです」
「ふん。あんたが抜けたんだから当然だろう」
当然、か。そう言い切ってくれると、少し楽になる。
「あんたはもう向こうの人間じゃない。こっちのサロンのことだけ考えろ」
エドの言葉は荒いが、温かかった。リュートの木を削る手つきと同じで、不器用だけど正確だ。
窓の外が暗くなってきた。セラス様がまだ隅の椅子で弾いている。小さな音で、何かの旋律を繰り返し繰り返し。薄暗い部屋の中で、リュートの音だけが光っているみたいだった。暖炉にくべた薪の爆ぜる音が、演奏の合間に小さく混ざる。
明日は窓枠を直す。その次は床板。それから看板を作る。エドが「看板の文字くらいは彫ってやる」と言ってくれた。ぶっきらぼうな優しさに、鼻の奥がつんとした。
小さなサロンだ。でもここから始める。
推しの音楽が鳴る場所を、私の手で作る。




