第3話 推しの顔面が良すぎて離縁の説明がうまくできない
釈放されたセラス様は、牢から出てもなおリュートを抱えていた。
服は汚れている。擦り切れた革のチョッキに泥がこびりつき、髪は数日洗っていないのが見てわかる。なのに、楽器だけは傷ひとつない。弦の一本一本まで丁寧に守られている。
この人は本当に、楽器のことしか考えていないのだろう。
「セラス様、馬車を用意しています。まず私の実家へ」
「……ああ」
短い返事。声が掠れていた。牢の中で水すらまともに飲んでいなかったのではないか。グレン弁護士が手配してくれた馬車に乗り込む。父の保証人署名のおかげで、保釈手続きは思ったよりスムーズに進んだ。
馬車の中は狭かった。向かい合わせの座席で、セラス様との距離が近い。
近い。
前世で推しのライブの最前列を取った時の感動に似ている。いや、あの時は舞台と客席の間に距離があった。今は手を伸ばせば届く場所に推しがいる。しかも二人きり。この状況、前世の私が知ったら卒倒する。
セラス様の手を見た。リュートの弦を押さえ続けてきた左手の指先に、硬い繭ができている。右手の爪は短く整えられていて、弦を弾くための形になっている。楽器のための手だ。
……いけない。手をじろじろ見るのはファンの所業として不審すぎる。
「……侯爵夫人」
「あ、もうその肩書は。昨日離縁しましたので」
「では、なんとお呼びすれば」
「マリアベルで。ヴァイラー伯爵家の令嬢に戻りました」
セラス様が少し首を傾げた。長い髪が肩にかかる。汚れているのに、それすら絵になるのは何なんだ。顔面偏差値がバグっている。前世でもこういうタイプの推しだった──不遇で、寡黙で、才能だけが突出している。私は同じ沼に二回落ちたことになる。
「マリアベル、様」
「はい」
「なぜ、そこまでしてくださったのですか」
きた。この質問が来ることはわかっていた。答えも用意してある。前世のプレゼンと同じだ。想定問答集は大事。
「ファンだからです」
セラス様が黙った。
まあ、そうだろう。この世界に「ファン」という概念はない。推し活も、推しも。
「あなたの演奏を、七年間聴いてきました。あの音楽祭の最前列が、私の七年間の全部でした。それを奪われるくらいなら、侯爵夫人の肩書なんていりません」
言い過ぎた、と思った。でも嘘ではない。
セラス様はしばらく黙っていた。リュートの弦を、意味もなく指で弾いている。ぽん、と小さな音が馬車の中に響いた。
「……あなたは、毎回感想を伝えてくださっていた」
「え」
「催事の打ち合わせだと思っていた。でも、あの感想は——第二楽章の転調のことまで言及できる聴衆を、俺は他に知らない」
知っていた。
セラス様は、私の感想を覚えていた。
馬車の窓から秋の風が入ってくる。頬が熱い。いや待て、これは推しに認知された感動であって恋愛感情ではない。断じて。推しと恋愛は別ジャンルだ。混同してはいけない。
◇◇◇
ヴァイラー伯爵邸に着いた。
実家の門をくぐるのは、結婚以来七年ぶりだ。石壁に絡まる蔦の色が赤く染まっている。庭の銀木犀が私の背丈を超えるほど大きくなっている。玄関の石段は少し欠けていて、あ、ここ子供の頃に転んだ場所だ、と思い出した。時間が経ったのだと実感する。
父が玄関で待っていた。白髪が増えた。母は一昨年に亡くなったから、今はこの人が一人で伯爵家を守っている。
「マリアベル」
「ただいま戻りました、お父様」
父は私を見て、それからセラス様を見て、また私を見た。何かを言いかけて、やめて、もう一度口を開いた。
「よく頑張ったな」
その一言で、何かが崩れそうになった。
「あ、えっと、お天気が……」
──また出た。褒められると処理落ちする癖。前世からこうだった。仕事を褒められても「あ、はい、ありがとうございます、今日の湿度が」と意味不明なことを言って同僚を困惑させていた。
父が小さく笑った。この人は私のこの癖を知っている。昔からそうだった。
セラス様が不思議そうにこちらを見ている。見ないでほしい。今の私は人類として最低限の会話能力を失っている。
◇◇◇
実家の客間にセラス様を通した。侍女が温かい林檎の煮詰め酒を持ってきてくれた。セラス様が一口飲んで、ほんの少しだけ肩の力が抜けたのが見えた。牢の中ではきっと、冷たい水すらまともにもらえなかったのだろう。
私は父の書斎で今後の計画を話した。
隣領の小都市エルムハルトで、音楽サロンを開く。前世の企画力と、今世で培った芸術パトロンの人脈を使って。小さな場所でいい。推しが安心して弾ける場所があれば、それでいい。
「資金は?」
「当面は個人の貯蓄で。家政手当から七年間、少しずつ貯めていました。持参金が返還されれば本格的に動けます。離縁の異議申立期間が三十日ですから、それまでは伯爵家のご支援をお願いできれば」
父は頷いた。「足りなければ言いなさい。うちは軍事には弱いが、芸術家を支えることだけは代々やってきた」
ありがたかった。実家が芸術後援の家だったことに、今ほど感謝したことはない。母が生きていたら、きっと真っ先にサロンの内装を考え始めていただろう。壁の色はクリーム、カーテンは深紅、ホールには必ず生花を──母の美意識は、私の芸術事業の原点だった。
書斎を出ると、廊下の突き当たりの窓際に、セラス様が立っていた。夕日を浴びてリュートを調弦している。弦を一本ずつ、丁寧に。
「借りは必ず返します」
振り向かないまま、セラス様が言った。
「借りなんて」
「俺の音楽を聴いてくれた。七年間。それに対する、正しい返し方を考えている」
正しい返し方。
音楽家は音楽で返す、という意味だろうか。それとも──。
考えすぎだ。推しは推し。それ以上のことは考えない。
セラス様がまたリュートの弦を弾いた。今度は調弦ではなく、短い旋律だった。聴いたことがある。去年の音楽祭で演奏された、あの曲の一節。
私が「一番好きな曲」だと、催事の打合せのついでに伝えた曲だ。
偶然だろう。偶然に決まっている。
窓の外で銀木犀が揺れている。甘い匂いが廊下に流れ込んでくる。秋の夕暮れの光がセラス様の横顔を照らしていて、私はその横顔から目をそらすのに、少しだけ時間がかかった。
明日からエルムハルトに向かう。推しのための舞台を、自分の手で作る。
前世でも今世でも叶わなかった夢だ。推しの一番近くで、推しの音楽を守ること。




