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夫が私の推しを処刑しようとしたので、離婚届と辞表を同時に提出します  作者: 九葉(くずは)


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第2話 引き継ぎ資料三百頁、お読みになれますか?

侯爵の執務机は、黒檀の一枚板でできている。


七年間磨き続けたその表面に、三百頁の引き継ぎ資料を置いた。表紙には「ブラント侯爵家 文化事業・社交業務 引き継ぎ資料 全巻」と記してある。その横に、離縁届を一枚。


まだ夜明け前だった。窓の外は薄紫で、廊下には誰の足音もない。蜜蝋の残り香だけが漂っている。


資料の上に、付箋を一枚貼った。「目次は三頁です。まずそちらからお読みください」と書いてある。前世で学んだことがある。どんな完璧な引き継ぎ書も、読まれなければ意味がない。だから目次だけは、一目で全体像がわかるように作った。


第一部・催事運営。第二部・パトロン関係。第三部・芸術助成金。第四部・各家の社交情報。第五部・緊急連絡先と対応マニュアル。


半年かけた力作だ。前世の退職引き継ぎが百頁だったことを思えば、三倍。あの時は引き継ぎ書を渡した瞬間に「あ、じゃあもう来なくていいよ」と言われたっけ。今回も似たような反応になるだろう。


──まあ、読まないだろうけど。


自室に戻り、身支度を整える。象牙色のシルクドレスを選んだ。侯爵夫人として最後に着る服だ。なんとなく、白がいいと思った。鏡に映る自分を見る。二十五歳。前世で死んだ年齢より七つ若い。こっちの人生はまだ長い。


荷物は最小限にまとめてある。衣類の詰まった旅行鞄が二つ。パトロン契約書の写しが入った革鞄が一つ。個人名義の契約書は私の財産だから、持ち出して法的な問題はない。


窓の外が白んできた。


そろそろだ。


◇◇◇


執務室に戻ると、ヴェルナーがいた。


資料の山を前に立っている。表紙を見ただけで、中身は開いていない。予想通り。


「何の真似だ、マリアベル」


「白い結婚七年条項に基づき、本日をもって離縁を申し立てます」


声は震えなかった。三ヶ月間、鏡の前で練習した甲斐がある。前世のプレゼンと同じだ。本番で動揺しないためには、事前準備がすべて。


ヴェルナーの眉が動いた。ほんの少しだけ。


「白い結婚、だと?」


「婚姻の実質なき婚姻が七年継続した場合、一方からの申立てにより離縁が成立します。王国法典第三十二条の二。異議申立期間は三十日。書類はすべて弁護士に預けてあります」


法律の条文を暗唱するのは、交渉の基本だ。具体的な数字と条文番号を出すと、相手は反論しにくくなる。


ヴェルナーの表情が変わった。面倒そうな顔から、初めて見る顔に。戸惑い、だろうか。いや、違う。プライドを傷つけられた男の顔だ。


「七年──俺に不満があったなら、言えばよかっただろう」


不満。


七年分の不満を、今ここで並べろと?


パン粥の冷めた朝食を一人で食べた朝の数。リゼットの歌唱会のために音楽祭の予算を削られた日。パトロンとの交渉結果を報告しても「ああ」の一言で済まされた夜。「たかが楽師」。「たかが音楽祭」。「たかが妻の趣味」。


言わなかった。言っても変わらないと知っていたから。前世でも今世でも、理解する気のない人に説明するほど無駄なことはない。


「不満ではありません。条件が整っただけです」


「条件?」


「ええ。それから──」


一拍置いた。この台詞だけは、三ヶ月前から決めていた。


「あの音楽祭、私がいなくても開けますか?」


沈黙。


ヴェルナーが答えない。当然だ。彼は音楽祭の運営に一度も関わっていない。パトロンの顔も名前も知らないだろう。招待状の封蝋の色分けルールも、会場の花の仕入先も、楽団の出演料の相場も。


三百頁の資料には、全部書いてある。読めば、わかる。読めば。


「引き継ぎ資料はお机の上に。文化事業担当のアンナ、カロル、ユーリには口頭で概要を伝えてありますが、彼女たちへの引き継ぎ面談を希望します。ご許可をいただけますか」


「……待て。話が急すぎる」


「七年は、急とは申しません」


ヴェルナーの唇が薄く開いて、そのまま閉じた。


この人が言葉に詰まるのを、初めて見た。七年間、一度も。


◇◇◇


結局、引き継ぎ面談は許可されなかった。


「頭を冷やせ」と言われた。冷えている。七年かけて、とっくに凍っている。


文化事業担当のアンナが廊下で待っていた。目が赤い。


「奥様……」


「引き継ぎ資料は執務室の机に。目次を見ればわかるようにしてあるから。困ったらフリッツに」


「でも」


「あなたたちは優秀よ。資料さえ読めば、日常業務は回せる」


アンナの肩にそっと触れた。パトロンとの個人的な信頼関係だけは、資料では渡せない。それはわかっている。でも、それ以外のことは全部書いた。


門を出た。振り返らなかった。


秋の朝の空気が冷たくて、吐く息が白い。革鞄の取っ手が手のひらに食い込む。こんなに荷物が少ないのに、なんで重いのだろう。


──いや、軽い。


七年分の「たかが」を全部置いてきた。三百頁の紙の束に変えて。


弁護士との待ち合わせは、街の東門の茶館だ。セラス様の身柄引取りの手続きを始めなければ。反逆の嫌疑で投獄されたままでは、裁判にかけられる可能性もある。


茶館の扉を開けると、レモングラスの冷茶の香りがした。弁護士のグレン老人は奥の席で待っていた。白髪を丁寧に撫でつけた、穏やかな老紳士だ。


「お待たせしました」


「いいえ。──お顔の色がよろしい。決意なさったのですね」


「ええ。離縁届は侯爵の机に。引き継ぎ面談は不許可でしたが、資料は置いてきました」


グレン氏は頷いた。細い指で書類を広げながら、淡々と手続きを説明する。セラス様の身柄引取りは、私が個人として保証人になる形で申請できる。ただし、伯爵家の家名での保証が必要になる。


「父に頼みます。伯爵家の保証人署名が必要でしょう?」


「ええ。侯爵家の嫌疑であれば、伯爵家以上の保証で保釈が可能です」


父は引き受けてくれるだろう。ヴァイラー伯爵家は代々、芸術家を守ることに誇りを持っている。娘が楽師の保釈を願い出たところで、眉をひそめる人ではない。


歩きながら考えた。前世で炎上案件を鎮火する手順を。まず事実確認、次に法的根拠の整理、それから関係者への根回し──。


ああ、結局こうなる。


社畜は死んでも社畜のまま、推しのために走り回るのだ。


でも今度は、自分で選んで走っている。


茶館を出て、東門の石畳を歩く。靴音が、侯爵邸の廊下を歩く時とは違って聞こえた。同じ靴なのに。


空が高い。


こんなに空が広いことを、七年間忘れていた。

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