第10話 推しが隣にいる人生を、私はずっと待っていた
蜂蜜とナッツのタルトが焼けた匂いで目が覚めた。
隣の部屋から、リュートの音が聞こえる。毎朝の調弦。一本ずつ、丁寧に合わせていく音。もう聞き慣れた。一ヶ月前までは夢のような音だったのに、今は日常になっている。
エルムハルトの朝は静かだ。窓を開けると、冬の始まりの冷たい空気が頬を撫でる。庭の冬薔薇が一輪だけ咲いていた。赤ではなく、白い薔薇。季節を間違えたみたいに、凛と立っている。
厨房に降りると、エドが焼いたタルトがテーブルに置いてあった。このリュート職人は、なぜか製菓の腕もある。「手先の器用さは共通だ」と本人は言うが、リュートを彫る手で蜂蜜を練る姿はなかなかのギャップだ。
「おはよう、エド」
「タルトが焼けた。食え」
ぶっきらぼうだが、毎朝焼いてくれる。この人なりの優しさだ。
◇◇◇
あの演奏会から一ヶ月が経った。
季節は秋から冬に変わった。エルムハルトの街路樹はすべて葉を落とし、石畳に霜が降りる朝が増えた。サロンの暖炉には毎朝薪をくべる。エドが「薪は多めにくべろ、リュートは寒さに弱い」と口煩い。楽器への愛が、人への愛より先に来る男だ。
セラス様への返事は、演奏会の翌日にした。千人の前で泣きじゃくった翌日、サロンの窓辺で。朝の光が差し込んで、セラス様の髪に琥珀色の影を作っていた。
私が言ったのはこうだ。
「セラス様。私はあなたの音楽のファンです。それは変わりません」
セラス様の顔が曇りかけた。
「でも——推しの音楽が好きなのと、推しの人が好きなのは、別のことだと思っていました」
弦を弾く指が止まった。
「思って『いました』。過去形です。今はもう、区別がつきません」
セラス様は何も言わなかった。ただリュートを膝に置いて、私の方を向いた。まっすぐに。
「あなたの音楽が好きです。あなたの不器用な優しさが好きです。椅子の位置を変える時に『音響がいい』と嘘をつくところも、手紙の裏に私の好きな曲を書くところも。全部」
セラス様の耳が赤くなった。この人が赤面するのを見るのは初めてだった。
「……聞こえていたのか、音響の件」
「最初から怪しいと思っていました」
セラス様が小さく笑った。肩で笑う癖。あの笑い方が好きだ。
「では、俺も」
リュートの弦を一度鳴らした。
「あなたの耳が好きだ。俺の音楽を聴いてくれる耳が。……二つとも」
「——それは、あの時の仕返しですか」
「さあ。練習曲だ」
笑った。二人で笑った。サロンの窓から冬の朝日が差し込んでいて、リュートの胴に光が反射して、壁に小さな虹を作っていた。
◇◇◇
フリッツからの手紙が、月に一度届く。
今月の手紙は、いつもより長かった。
まず、王家の文化功労者表彰について。演奏会をきっかけに調査が入り、ブラント侯爵名義で申請されていた芸術振興の功績が、すべてマリアベル個人のものと判明した。表彰はマリアベル個人に変更された。ヴェルナーは「妻の手柄を横取りした男」として社交界中に知れ渡ったという。
フリッツの筆致は事実だけを淡々と記していたが、最後に一文だけ「当然の結果と存じます」と書かれていた。あの人は最初からわかっていたのだ。
侯爵家の近況。ヴェルナーは文化功労者表彰の一件で社交界からの信用を大きく損ない、中央政界への進出は事実上頓挫した。軍事面では相変わらず有能で、領軍の統率には問題がない。だが社交の場には出づらくなっている。
リゼットは侯爵家を去った。行き先は南部の地方都市。小さな劇場で歌っているらしい。フリッツの手紙には「声は悪くないと評判です」と書かれていた。
方法は最低だった。でも、彼女がようやく自分の場所で歌えるようになったのなら、それは——それでいい、と思うことにした。
ヴェルナーについては、何も思わない。嘘だ。少しだけ思う。
あの人は「たかが」という言葉で、自分にとって何が大切なのかを見失った人だった。妻の仕事を「たかが趣味」と呼び、楽師を「たかが一人」と切り捨てた。「たかが」と言った瞬間に、それがどれだけの重みを持っていたか、気づけなかった。
空になった音楽祭の跡地で、ヴェルナーが最前列の席を見つめている。フリッツの手紙にはそう書いてあった。もう座る人のいない席を。
それが、七年間の答えだ。
◇◇◇
音楽サロンは、繁盛とまではいかないが、軌道に乗り始めている。
常連客が十五人ほど。近隣の職人、商人、たまに遠方から来る芸術家。王都の公開演奏会の評判を聞いて「あのセラス・ヴァイルが弾くサロン」として知られるようになった。先週は王都の画商が訪ねてきて、「サロンの壁に絵を飾らないか」と提案してくれた。少しずつ、少しずつ、広がっていく。いきなりではなく、一歩ずつ。
前世の私なら「もっと効率よく拡大できるのに」と焦っただろう。今は焦らない。推しの音楽が鳴る場所を、急がずに育てていく。それでいい。
ヒルダが月に一度、古楽の講演をしに来てくれる。エドが看板の横に小さな花壇を作った。冬薔薇と、銀木犀の苗を植えた。「音楽と花はセットだ」と言って、エプロンに土をつけていた。
セラス様は——セラスは、毎日サロンで弾いている。
呼び方が変わったのは、先週のことだ。
二人でサロンの帳簿をつけていた時。向かい合わせの机で、私は数字を、セラス様は楽譜を広げていた。蜜蝋燭台の明かりが二つの影を壁に落としている。窓の外から冬の風が鳴っていた。
「セラス様」と呼んだら、弦を弾く手が止まった。
「……その呼び方を、やめてほしい」
「え」
「敬称はいらない。名前だけでいい」
「セラス」
口にした瞬間、顔が熱くなった。たった三文字なのに、敬称がなくなるだけで声の響きが全く違う。セラスも耳が赤い。燭台の明かりのせいではない、と言い切れる程度には。二人して赤面している。エドが厨房から「何をやっているんだお前たち」と呆れた声を出した。
◇◇◇
今日の午後、サロンで小さな演奏会がある。
客席は十五席。最前列は三席しかない。
私はその最前列に——座らなかった。
代わりに、セラスの隣に立っている。受付係として。入場者の名前を確認し、席を案内する。前世のイベントスタッフと同じだ。でも、推しの隣でやっている。
セラスがリュートを構えた。窓辺の定位置。「音響が一番いい椅子」。あの嘘がばれた椅子。
演奏が始まる前に、セラスが小声で言った。
「最前列、空いているが」
「今日はいい。ここの方が近いから」
セラスがまた肩で笑った。
演奏が始まった。十五人の聴衆が息を呑む。リュートの音が、サロンの白い壁に反響する。エドが塗り直してくれた、あの壁に。
前世では叶わなかった。推しの一番近くで、推しの音楽を聴くこと。推しが隣にいる日常を送ること。
前世の私は、推し活を削って働いて、死んだ。
今世の私は、推しを守るために働いて——推しに守られた。
最前列の席は、今日も空いている。
でも私はもう、あの席には座らない。
推しは——セラスは、私の隣にいる。
タルトの匂い。リュートの音。冬薔薇の白。
これが私の、新しい日常だ。
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