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夫が私の推しを処刑しようとしたので、離婚届と辞表を同時に提出します  作者: 九葉(くずは)


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第1話 推しが逮捕されたので、七年分の辞表を書きます

今日の音楽祭の演目は、セラス様の新曲だった。


──「だった」なんて過去形を使わなければならないことが、まだ信じられない。


朝のブラント侯爵邸は、いつも通りだった。石壁に染み込んだ蜜蝋燭台の甘い匂い。使用人たちが廊下を行き交う靴音。厨房から漂うパン粥の湯気。そして私──マリアベル・フォン・ブラントは、いつも通り山積みの書類と向き合っている。


オーク材の机に広げた今日の予定。まず、来月の秋季音楽祭のパトロン向け招待状を三十二通。封蝋の色を各家の格式に合わせるのがまた面倒で、侯爵以上は金、伯爵は銀、男爵は赤。次に、王都から届いた芸術助成金の申請書類。それから、リュート職人エド氏の工房支援の稟議書──。


前世で広告代理店の朝礼に追われていた頃と、やっていることが大して変わらない気がする。転生して侯爵夫人になったはずなのに。まあ、社畜は死んでも社畜だ。来世があるなら今度こそニートになりたい。


まあ、いい。今日の仕事さえ片付ければ、午後は音楽祭だ。


セラス様の新曲。


それだけで朝から頬が緩むのを止められない。宮廷楽師セラス・ヴァイルの演奏は、この七年間で私が唯一、純粋に楽しみにしていたものだ。


あの人がリュートの弦に指を走らせると、空気が変わる。音に魔力が宿るというのは本当で、ホールの温度が一度上がるような、肌がぴりぴりするような──言葉にすると安っぽくなる。とにかく、すごいのだ。


だから最前列は譲れない。


あの席だけが、私の七年間の報酬だった。


◇◇◇


異変に気づいたのは、音楽祭の会場に向かう馬車の中だった。


ホールの前に、侯爵家の兵士が集まっている。楽団の搬入口に。何かがおかしい。


「どうしたの」


御者に声をかける前に、目に飛び込んできた。


セラス様が、兵士二人に腕を掴まれていた。


リュートだけは自分で抱えている。擦り切れた革のチョッキが引っ張られて、肩の縫い目がほつれかけている。髪が乱れて、頬に擦り傷がある。でも表情は恐ろしく静かだった。周囲が騒いでいるのに、あの人だけが凪いでいる。


楽器ケースが地面に転がっていた。中身は空。リュートを自分の腕で守ったのだ。


馬車を降りた。石畳に降りた瞬間、秋風が頬を叩いた。走った。ヒールが石畳に引っかかりそうになりながら、走ったことは覚えている。


「──何をしているの!」


兵士が振り返る。私の顔を見て、一瞬ひるんだ。侯爵夫人の顔は、まだ効力があるらしい。


「奥様、こちらは侯爵様の命令で……」


「命令?」


「宮廷楽師セラス・ヴァイルを、反逆の嫌疑により拘束せよ、と」


反逆。


この人が。音楽しか知らないこの人が。


「どういうことか、詳しく説明なさい」


「リゼット・ミラー様より告発がございまして。先日の演奏で反逆を煽る歌詞を──」


聞いた瞬間に理解した。リゼットだ。あの女がやったのだ。


夫の愛人で、歌手志望の男爵令嬢。セラス様の音楽祭の枠を奪って、自分が歌いたい──その一心で、こんなことを。


足が震えた。怒りで。


セラス様が私の方を見た。何も言わなかった。ただ、リュートを少し抱え直しただけだ。


その仕草が、余計に腹が立つ。あの人は自分のことより楽器の心配をしている。


◇◇◇


ヴェルナーの執務室に乗り込んだ。


夫は窓際に立っていた。金糸の刺繍が入った軍服の背中。窓から差す午後の陽光が肩章を光らせている。振り返りもしない。


「セラス・ヴァイルの拘束命令は何です」


「リゼットが告発した。正当な手続きだ」


「あの演奏に反逆の要素はありません。私は全曲聴いています」


やっと振り返った。面倒そうな顔。七年間で見飽きた表情だ。この人は私の話をまともに聞く時、視線が少し上にずれる。今は真正面を見ている。つまり聞いていない。


「たかが楽師一人だ、マリアベル。そう騒ぐことでもないだろう」


たかが。


たかが楽師。


私の七年間を支えた音楽を、あなたは「たかが」と言うのか。


反論は飲み込んだ。この人に何を言っても無駄だということは、七年かけて学んでいる。前世の上司と同じだ。理解する気のない人間に説明するのは時間の無駄。プレゼン資料を百頁作っても、目を通す気がない人には紙くずと同じ。


「……そうですか」


二文字で切った。ヴェルナーは私の目を見ていない。もう興味を失っている。あるいは最初から、興味がなかったのかもしれない。この人にとって私は「便利な妻」であって、「人間」ではなかったのだろう。


自室に戻る廊下を歩きながら、考えていた。


いや、考えるまでもなかった。


あの席から侍女長に声をかけた。


「すみません。私の個人金庫から、パトロン契約書の束を出してください。全部です」


侍女長が目を丸くした。


自室の机に座る。引き出しの奥から、一枚の書類を取り出した。


白い結婚七年条項に基づく離縁届。


三ヶ月前に準備していた。白い結婚──婚姻の実質なき婚姻が七年継続した場合、一方が申し立てれば離縁が成立する。古い慣習法だが、王国法典にしっかり明記されている。七年条項の成立まであと十日だったから、まだ出さないつもりだった。でも十日のずれは異議申立期間に吸収できる。弁護士には確認済みだ。


引き継ぎ資料は──ある。三百頁。社畜の習性で、半年前から少しずつまとめていた。催事運営の手順書、パトロンの連絡先一覧、各家の担当者の性格メモ、好みのお茶の種類まで。芸術助成金の申請フォーマット、過去七年分の事業報告。前世の退職引き継ぎが百頁だったことを考えると、我ながら異常な量だ。


文化事業担当のアンナたちにも、口頭で業務の概要は伝えてある。文書化されていない暗黙知が問題だが、それは──もう、しかたない。


離縁届の上に、万年筆を走らせる。


手が震えている。


恐怖ではない。


七年分の「たかが」が、指先に溜まっている。


明日の朝、この書類を夫の机に置く。引き継ぎ資料と一緒に。


それから弁護士に連絡して、セラス様の身柄引取りの手続きを始める。


推しを守れないなら、この結婚に意味はない。


最初から、意味なんてなかったけれど。


万年筆を置いた。インクが乾くのを待つ間、窓の外を見た。


秋の風が、銀杏の葉を揺らしている。音楽祭のホールの方角だ。今日、あの舞台には誰も立たない。


でも、明日からは私が動く。


推しの音楽を、誰にも奪わせない。

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