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1996.0渋谷のマッキントッシュ  作者: 代々木ノブ
select from SystemBank where FaxNo and…
9/16

2.1_1996年Num Lockが外れる日

1996年1月24日。

有楽町のオフィスビルのワンフロアは、年明け特有の落ち着かない雰囲気が治まり通常モードが動いていた。


「あけましておめでとうございます」の挨拶はなくなり、代わりに鳴り始めたのはFAXの甲高い受信音と、コピー機の乾いた駆動音だ。

紙が排出されるたびに、インクとトナーの匂いが空気に混じる。灰色のブラインド越しに差し込む冬の光は弱く、天井の蛍光灯だけが規則正しく、無機質な白を床に落としていた。


机の上には分厚いファイル、電話、伝票、名刺入れ。

その片隅に置かれたパソコンは、まだ「業務の中心」ではない。「あると便利な箱」か、あるいは「触ると怖い何か」だ。


情報システム部の島は、その喧騒から半歩、いや半テンポだけ距離を取った場所にあった。

営業フロアの熱量と、管理部門の停滞。その中間で、静かに機械の呼吸を管理する場所。


石川美雪は、CRTモニタを正面に据え、キーボードを一定のリズムで叩いていた。

Windows 95のデスクトップが立ち上がり、NOSのログイン画面が表示される。ネットワークは今日も安定している。少なくとも、今のところは。


――平和だな。


彼女はそう思いながらも、油断はしない。

こういう仏滅の朝に限って、必ず何かが起きる。


美雪は高専卒で入社して五年目。

社内ではすでに「若手」ではなく、「分かっている人」に分類される立場だ。

しかも女性で、情報通信系に詳しい。希少性は高く、期待値も高い。

その分、無言の要求も多い。


それでも彼女は、表情を崩さず、姿勢を正し、淡々と仕事をする。

会社では、それが最適解だと分かっている。


――ここはライブハウスじゃない。

――音は出さず、刻むだけ。


そう心の中で言い聞かせていると、島の入口で、わずかに空気が揺れた。


「……あの、石川さん」


呼びかける声。

営業三年目の小松新次郎だった。


背筋は伸びている。スーツも一応似合っている。

だが、全身から漂うのは「自信がある自分を演出している最中」という独特の匂いだ。若手営業特有の、前に出たい気持ちと、まだ地面を踏みしめきれていない不安定さ。


美雪はキーボードを打つ手を止め、ゆっくりと顔を上げた。


「どうしました?」


声は柔らかく、抑揚も穏やか。

それが社内仕様の石川美雪だ。


「いや、その……困ったというか、これは一つの課題だと思っていまして」


――もう嫌な予感しかしない。


「コンピューターって、便利なものじゃないですか。でも便利だからこそ、人間側が置いていかれることもあると思うんです」


――始まった。


「で、今まさにその象徴的な状況が、僕の机の上で起きていると言いますか」


――要点を言え。


だが、美雪は急かさない。

営業マンは「話させると満足する」生き物だと、五年で学んだ。


「それでですね、数字が入らないんです」


「数字、、ですか」


「はい。数字が入らないということは、つまり数字が入力されないという状態でして」


――その説明で、世界は何も前に進んでいない。


美雪は静かに立ち上がった。


「分かりました。見に行きましょう」


それだけ言うと、新次郎の前を歩き出す。

営業フロアへ向かう通路には、電話の声が飛び交っていた。


「それは前向きに検討させていただきます——」

「上司と相談しまして——」

「先日の見積もりですが——」


机の上に積み上がる紙資料。

PCは起動しているが、画面は止まったまま。使われているというより、「置いてある」だけだ。


新次郎の席に着くと、美雪は何も言わず、キーボードを見下ろした。

Num Lockのランプが、消えている。


「Num Lock、押してみてください」


短く、端的に。


「……なるほどお」


新次郎は大きく頷いた。


「つまり、オンとオフがあるということですね。これは、人生にも通じる話で——」


――いや通じない。あと、お前「なるほど」の使い方間違えてないか。


キーを押す。

ランプが点灯する。

テンキーから数字が入力される。


「あ、入った」


「はい」


「やっぱり、機械って、人間の意識を試してくるところがありますよね」


――機械は何も試してない。お前が試されて落ちただけだ。


美雪は画面を指差した。


「あと、Caps Lockも点いてますねえ」


「ということは、大文字であるということが、小文字ではない、ということですね」


――それを言うと、深いと思ってるだろうが浅い、浅すぎる!。


キーを押す。

入力が正常に戻る。


「これで問題ないです」


「いやあ……文明の利器って、使う側の成熟度が問われると思うんですよ」


――説明書を読め。


だが、美雪は微笑んだ。25歳。

社内で生き残るための、柔らかい仮面。


「大丈夫ですよ。最初は皆さん、同じところでつまずきますから」


新次郎は、完全に安心した顔になる。


「石川さんがいてくれることで、この会社の未来は、確実に前進している気がします」

――言葉が軽い。アルミホイル並み、いや、羽毛並みだ。


美雪は一拍置き、少しだけ首を傾げた。


「じゃあ~……」


「はい?」


「今度、一杯奢ってください!コリドー街に新しくできたイタリアンが良いかな」


新次郎は一瞬、言葉を失い、それから笑った。


「それはもちろんです。投資は、未来に向けてするものですから」


――その投資判断、確実に甘い。


「その時は、お知り合い(…の男性)も連れてきてくださいね。営業さん、顔が広そうですし」


プライドを撫で、退路を塞ぐ。新次郎は満足そうに頷いた。


「任せてください。人脈は、営業の命ですから」


美雪は軽く会釈し、その場を離れた。

だが、背中にすぐ、次の声が飛ぶ。


「石川さん!」


振り返ると、営業部の中年課長が、明らかに困り切った顔で立っていた。

営業第2部3課課長、山中誠二。42歳。

温厚な笑顔の裏に、確かな序列意識を持つ男。

営業部以外を、特に情シス含めた管理部系組織を、どこか「下」に見ている言動が目立つ曲者だ。管理部の女性達からは「BT(ブラック狸)」とあだ名されている。

ネクタイは緩み、額には薄く汗。


「マウスが動かなくてね」


――第二ラウンド開始かよ。


課長の席で、美雪は無言でマウスを裏返した。

ゴムボールは埃で白くなっている。


「……掃除しますね」


にこやかに。完璧なコンパニオンスマイル。

ボールを外し、布で拭く。

戻す。カーソルが滑らかに動く。


「おお……動いた!」

「いやあ、助かるよ。やっぱりこういうのは、専門の人じゃないとね」


——専門じゃない。常識だ。


「定期的に掃除してくださいねえ。」


「なるほど……習慣が大事なんだな」


――全部そうだ。お前も「なるほど」の使い方間違えてねえか。


山中はすっかり上機嫌だ。

復活したカーソルの動きをしばらく眺めてから、満足そうに椅子に深く腰掛けた。

その表情には、「自分が解決したわけではない」という事実への自覚は微塵もない。ただ、目の前の不具合が消えたことで、世界が自分に優しくなったとでも思っている顔だった。


「いやあ、本当に助かったよ、石川くん」


語尾が柔らかい。

それがこの男の“温厚さ”の正体だと、美雪は理解している。


「こういうのはね、営業部じゃどうにもならないから」


――最初から触る気もないくせに。


山中は少し声を落とし、周囲を一瞥してから、親しげに続けた。


「せっかくだしさ、今度、いっぱい奢ってあげるよ」


「……ありがとうございます」


美雪は即座に、少しだけ嬉しそうな表情を作る。

相手が求めているのは、感謝と好意の“気配”であって、実体ではない。


「それとね」


山中は、さらに距離を詰めるように身を乗り出した。


「お得意先の会食にも、同席しない?来週あるんだけど。」


——来た。


「若い女性がいると、場が和むからさ。向こうも喜ぶし」


——便利な装飾品扱い、ありがとうございます。


山中の声には、悪意はない。それが一番、厄介だった。


美雪の脳裏に、一瞬、鋭利な鉄の棺が浮かぶ。

内側に並んだ無数の突起。ゆっくりと閉じていく蓋。


——このままアイアンメイデンに閉じ込めてやろうか。


だが、そのイメージは、即座に変換される。

歪んだギターリフ。疾走するドラム。


——♪ The Trooper。


頭の中で、IRON MAIDENの旋律が鳴り響く。

殺意は、音に置き換えられ、制御される。


美雪は、にこやかな笑顔のまま、首をわずかに横に振った。


「お気持ちは、すごく嬉しいんですけど……」


声は柔らかく、丁寧で、角がない。


「私、接待はあまり向いていなくて」


山中は意外そうに眉を上げる。


「そう? 全然そんなふうに見えないけど」


山中のその一言に、美雪は笑顔を崩さないまま、内側だけで小さく息を吐いた。


——分かってる。


自分がどう見えているかくらい、嫌というほど分かっている。

朝は時間をかけすぎない範囲で身だしなみを整える。

肌も髪も、最低限ではなく「手をかけている側」に入るよう気を遣う。

体型も、何もしなければ崩れる年齢に入りつつあることは自覚しているから、無理のない範囲で維持している。

これまでも、社内外から言い寄られたことは一度や二度じゃない。

飲みの席で、打ち合わせの後で、あるいは「仕事の相談」という名目で。

そのたびに、美雪は理解してきた。


——私は、いわゆる「綺麗な子」の部類に入る。


自惚れではない。

観測結果としての事実ファクトからの考察だ。

そして正直に言えば、それを否定するほど殊勝でもない。


——悪い気はしない。

——まんざらでもない。


だが。

——それは、お前の都合で配置される駒になるためじゃない。


接待の席を彩るためでも、場を和ませるためでも、

「若い女がいると助かる」ためでもない。

努力してきたのは、選択肢を持つためだ。

使われる側になるためじゃない。


——私は、装飾じゃない。

——武器だ。


その思考を、彼女は表情の奥に完全に隠したまま、

再び柔らかな声を口に乗せる。

「いえ……お酒もあまり強くないですし」


——嘘。普通に飲める。家ではガンガン飲む。むしろ大好きだ。


「それに、途中でシステムのトラブルが起きたら、私、そっちが気になっちゃうと思うんです。うちってえ、海外時間とのやり取りもあるじゃないですかあ。」


海外営業は、社内でもエリートが集団営業第一部の更に精鋭が集まった2課だ。

ヒエラルキーが全ての彼にとって、挙げてほしくない話題をやんわりと刺す。


山中は一瞬、言葉を探す。

“断られた”という認識が、ゆっくりと浸透していく。


だが、美雪は畳みかけない。

ただ、少し困ったように微笑むだけだ。


「せっかくの大事なお客様ですし、営業の皆さんだけで、しっかり楽しんでいただいた方がいいと思います」


——あなたの舞台に、私は立たない。


数秒の沈黙のあと、山中は「ああ、そうか」と笑った。


「まあ、無理にとは言わないよ」


「ありがとうございます」


「奢る話だけは、別でね」


「はい。機会があれば、ぜひ」


——機会は来ない。


山中は満足そうに頷き、椅子を回して自分の仕事に戻っていった。

完全に“いいことをした上司”の顔だ。


美雪はその背中を見送りながら、心の中で深く刻む。


——Trust the riff.

——No mercy, no noise.


一連を終え、美雪は情シスの島へ戻る。

席に座り、CRTモニタを見つめ、FとJに左右の人差し指を置いた。

首を振りたい(ヘッドバンギング)衝動が、喉元まで込み上げる。

だが、今は抑える。


――ステージはまだ先。

――音を出すな。今は刻め。


彼女は心の中で、信者だけが知る言葉をさらに繰り返す。


――Trust the riff.

――Keep it brutal, keep it clean.


メカニカルキーボードを叩く指は、正確で、無駄がない。

1996年冬のオフィスの片隅で、未来の社長は、今日も静かにヘッドバンギングを封じ込めていた。

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