1.6_1996年の守護神
地下鉄に向かう途中、石川が足を止めた
「ああ、電車はやめよう。タクシーだ。歩くのがめんどい。」
たしかに、石川の飲むペースが速かった。さすがに酔っぱらった中、電車に揺られて渋谷に向かうよりはタクシーの方が早いし難儀にならない。
大通り沿いで誠が手を挙げると、ちょうど「空車」の赤い文字が見えた。
誠にとっては懐かしい、セダン型のタクシー。
2026年のタクシーといえば、自動ドアが静かに開き、後部座席には大きな液晶モニターが鎮座し、決済は電子マネー。車内は無臭に近いほど清潔だ。
しかし、1996年のタクシーはまるで勝手が違った。
誠と石川を乗せたクラウン・コンフォートの車内には、使い古されたシートカバーの糊の匂いと、芳香剤と、微かなタバコの残り香が混ざり合って充満している。ダッシュボードにカーナビの姿はなく、あるのは無線機と、カチカチと機械的な音を立てて金額を刻むアナログな料金メーターだけだった。
ぶっきらぼうで無口な運転手の操るタクシーは、秋葉原の雑多な電気街を背にして走り出すと、靖国通りを抜け、靖国神社の石垣をかすめるように左へ折れた。
車体が揺れるたび、古びたエンジンが低く唸り、車内の空気まで震わせる。
左手には、冬枯れの濠をたたえた皇居の森が広がり、黒々とした樹々の影がフロントガラスに流れ込んでくる。
運転手は相変わらず無言のまま、信号の変わり目を鋭く読み取り、三宅坂の大きなカーブを右へ切り込んだ。
そこから先は、国道246号線。
渋谷へ向かう幹線の流れに乗った途端、タクシーはまるで何かに追われるように加速し、エンジン音はさらに荒々しさを増す。ビルの谷間を縫うように、白いヘッドライトの帯が渋谷へとまっすぐ伸びていた。
窓の外には「DDIポケット」や「デジタルツーカー」といった、2026年では歴史の教科書でしか見られない看板が眩しく輝く。
――
タクシーを降りた二人は、冷たい夜気に包まれた「東●生命ビル」の前に立っていた。 30年後の未来では『渋谷クロスタワー』と呼ばれ、IT企業や人材系企業のオフィスがひしめく高層ビル。しかし、1996年の今、その姿は青白い照明に照らされ、どこか威圧的な「昭和の巨塔」としての風格を残している。
二人は歩道橋から直結する広大なテラスへと足を踏み入れた。 夜のテラスは、吹き抜けの構造ゆえに容赦のない冬のビル風が吹き荒れている。街灯に照らされた尾崎豊の歌碑の周りには、彼を悼む若者たちがマジックで書き残した落書きやメッセージがびっしりと並んでいた。それは単なる落書きというより、時代の閉塞感に抗おうとした若者たちの「生きた証」の墓標のように、静謐な空気を湛えていた。
「……ここだ。ここに、僕は現れたんだ」
早速石川は、手持ちのガウスメーターを起動させる。
「さてさて、残り香はあるかな・・・。目には見えねえ磁場の歪みか、あるいは物理学がひっくり返ったような空間の断裂がよ。」
センサーを周囲にゆっくり振り回し、アナログのメーターをのぞき込む。
ゆっくりと歩きながら腕を振るが、何も反応がない。
ただ石川は入念に、一歩ずつテラスを歩いて計測を試みる。
何度も、何度も。。
ただ、寒空の中、酒が覚め始めたころ、、
「う~ん。どうもうまくいきそうにねえなあ、何の反応もない。」
そんな石川の背中を見て、誠は思いついた。
「あ、、これ使えるかもです!」
誠は震える指で、ポケットからiPhone 15 Proを取り出し、LiDARスキャナを起動。
iPhoneの背後にあるセンサーから、不可視の赤外線レーザーが放たれる。
画面上では、周囲の石造りの壁や尾崎の歌碑、そして冷たい床が、無数のポリゴンのドットとしてリアルタイムで構築されていく。 1996年のこの場所で、最新鋭の空間認識機能が周囲を「スキャン」している光景は、まるで目に見えない異世界の網を広げているかのようだった。
「おいおいおいおいおいおいおいおい、、、、、、ちょっとまて・・その鏡はそんなこともできんのか!」
石川が、驚きと言うよりも、あきれの吐息を吐いた。
誠は息を呑んで画面を注視する。時空の歪みがあるならば、光の屈折や座標のズレがエラーとして現れるはずだ。
だが――。
画面に映し出されるのは、冷酷なまでに正確に構築された「ただの壁」と「ただの床」だけだった。
「……ダメだ。何の反応もない」
家のWi-Fi強度を図るためにインストールした電波検知アプリも起動させてみたが、そこにあるのはPHSの微弱なアナログ電波のノイズと、周囲のトランスから漏れる50ヘルツの交流磁界だけだ。
未来への帰還を暗示するような、高エネルギーの異常数値は見当たらない。
テラス中を歩き回り、何度も位置を変えてスキャンを繰り返すも、iPhoneの画面には、1996年の「現実」だけが冷徹に描写され続ける。
「くそっ、やっぱりそんなに簡単じゃねえか……。原因不明のジャンプなんだ、出口が開きっぱなしなわけねえよな」
石川が毒づき、凍える指にハァーっと息を吹きかけた。
20時を過ぎ、夜の冷気はいっそう厳しさを増していく。
2026年のスマートなコート姿の誠と、1996年の油汚れのついた作業着の石川。
暗闇のテラスで途方に暮れるアラフィフの「おっさん二人」は、ただ寒さに震えるしかなかった。希望の火が、風前の灯火のように揺れている。
その時、、、、。
「あ、あんときのお兄さんじゃん! まだそんな変なコート着てんだ。超ウケる」
背後から聞こえた、静寂を切り裂くような場違いに明るい声。
誠は弾かれたように肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこにいたのは、あの時この場所で出会ったあの茶髪のギャルだ。
彼女は相変わらず、クロスタワーの冷たい風をものともせず、短いスカートに厚底ブーツを鳴らして歩み寄ってくる。指先には、今さっき火を点けたばかりのセブンスターが揺れている。
「あ、君か……」
「お兄さんこそ、まだここで何してんの? しかも、何その隣の作業着のおじさん。……もしかして、変な宗教の勧誘? 『明日、地球が滅びます』とか言っちゃう感じ?」
あずさは、失礼極まりない好奇の視線で、石川と誠を交互にジロジロと眺めた。
「おい、嬢ちゃん。俺はこれでも秋葉原じゃ名の知れたエンジニアだぜ。宗教家と一緒にすんじゃねえ」
「えー、エンジニア? 余計怪しいじゃん。何かヤバい電波とかキャッチしてんの?」
言い返そうとした石川を制し、誠は彼女を凝視した。
昼間の強烈な印象に隠れて気づかなかったが、彼女が小脇に抱えている重そうなヴィトンのバッグから、何冊かの分厚い本が覗いている。
街灯の下でその背表紙の金字が光る――『民法講義』『憲法概論』。
「……君は、青学(青山学院大学)の学生さんなのかな。名前を、聞いてもいいかな」
「え? ナンパ? まあいいけど。……降旗あずさ。法学部の二年生。おじさんは?」
「……降旗……あずさ!?」
その名を聞いた瞬間、誠の脳裏に、2026年の記憶が鮮烈に蘇る。
誠の会社が競合他社からの悪質な特許侵害訴訟に巻き込まれ、絶体絶命の淵に立たされたあの時。老練な弁護士たちが「和解しかない」と匙を投げる中、彼女だけは違った。膨大な資料を読み解き、10年以上前の小さな判例を掘り起こし、相手の嘘を論理の刃で切り刻んだ。
――『柴崎あずさ』。
彼女は仕事上では旧姓を使用していた。その旧姓こそ、まさに『降旗』。
「……あ、、自分は上條です。こちらは石川さん…
あ、あの、降旗さん。君、、もしかして弁護士を目指しているのかな?」
「え、何でわかんの? ストーカー? 怖っ・・・・」
あずさは大げさに身を引く素振りを見せたが、その瞳の奥には、好奇心と、そして何者にも媚びない鋭い知性が宿っていた。
「まあね。この不公平な世の中、法律でぶん殴って変えてやろうと思ってんの。……おじさん、意外と勘がいいね。居残りの勉強帰りに、変なストーカーにナンパされるとは思わなかったけど」
茶髪に、濃いアイライン、そしてセブンスターの匂い。
2026年の、あの隙のない高級スーツに身を包み、法廷で冷徹に微笑んでいた彼女からは想像もつかない姿だ。
だが、その芯の強さ、物事を恐れない不敵な笑みは、間違いなく未来の誠を救った「守護神」のものだった。
誠は隣に立つ石川の袖を強く引き、耳元でこそこそと声を潜めた。
「石川さん……信じられない。この子、僕がいた未来で、僕の人生を救ってくれた敏腕弁護士なんです。今はこんな格好ですけど、将来は法曹界の守護神と呼ばれる存在になる……」
石川はあずさをルーペで見定めるような鋭い視線で一瞥し、短く吐き捨てた。
「未来の守護神、ねえ……。だが、お前がこっちに飛ばされたその場所に、将来お前と縁がある人間が居合わせた。……単なる偶然か、あるいは時空の歪みが引き寄せた『磁力』か。どっちにしろ、未来と繋がりのある人間を味方につけておくのは悪くねえ。……エンジニアの勘だ、こいつは乗るべき変律だぜ」
早口な石川の言葉に背中を押され、誠は深く息を吸い込んだ。
そして、タバコを指に挟んだまま怪訝そうにこちらを見ているあずさに向かって、真っ直ぐに一歩踏み出し。
「降旗さん。……ナンパじゃありません。不審者にしか見えないことは重々承知していますが、どうしても、あなたにしかお願いできないことがあるんです」
誠は一歩前に出て、彼女の目を見た。
「‥‥ナンパでも、ストーカーでもない。君の……法律を志す、その鋭い力が必要なんです。僕はこの街で、ある『とてつもない戦い』を始めようとしている。力を貸してくれないでしょうか」
誠の瞳には、打算も邪念もなかった。そこにあるのは、家族の元へ帰りたいという悲痛なまでの誠実さだけだ。
あずさは、吸い殻を携帯灰皿に押し込み、少しだけ面白そうに口角を上げた。
「……おじさん、目がマジじゃん。うーーーん、いいよ、面白そうなコトならまずは話を聞いてあげる。その代わり、この風、超寒いから。どっか暖かい所でも入ろ。
んで、お腹空いているから夕飯奢ってね。」
「っく、あざといなあ姉ちゃん、いいよ奢ってやる。」
今、金づるは自分しかいない事に気付いた石川が苦笑交じりで答える。
誠の心の中に、消えかかっていた熱が再び灯った。
1996年の渋谷。尾崎豊の歌碑の前。 孤独だった誠の周りに、時代を超えた「チーム」の輪郭が、ぼんやりながらも見え始めていた。
一人は「ハードウェア(物質)」を理解し、一人は「ソフトウェア(論理)」を司る。そして自分は「未来の知識」を持っている。
そのチームの組成には、まず「守護神降旗あずさ」を取り入れないとだめだ。
誠はiPhoneを力強く握りしめた。
2回の表裏終了。
この試合の勝ち筋が少しだけ見え始めた気がした。




