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1.5_秋葉の赤提灯と渋谷の聖域

秋葉原のガード下。

軒を連ねる「赤提灯」の灯りが、排気ガスと湿り気を帯びた夜風に揺れている。

高架下を通り過ぎる山手線の重低音が、店内の安っぽいテーブルを微かに震わせていた。


一歩足を踏み入れると、そこは2026年の日本からは完全に絶滅したはずの、色濃い「紫煙と脂の聖域」。

天井は長年の煙に燻されて琥珀色に変色し、換気扇は油で真っ黒に固まり、唸りを上げている。

だが、その吸気力は、店内に充満したタバコの煙を吸い出すにはあまりにも力が不足していた。


どのテーブルも、安っぽいネクタイを緩めたサラリーマンたちで埋め尽くされている。彼らは、仕切りのない狭い空間で隣の客と肩をぶつけ合いながら、ジョッキを煽り、大声で笑い、そして何かに取り憑かれたようにタバコを吸い、灰皿にその灰を叩きつけていた。


(……空気が、茶色いな)


誠は喉を突くようなヤニと揚げ物の匂いに、思わず目を細めた。現代のクリーンで、どこか無機質な居酒屋とは違う。ここには、人間の剥き出しの生活臭と、明日への得体の知れないエネルギーが、熱い澱みとなって溜まっている。


ふと、隣のテーブルで後輩らしき若手に説教を垂れている、中年の男に目が止まった。くたびれたダブルのスーツに、ポマードで固めた七三分けに父親の姿が重なってしまったのだ。


誠の父親は、信州の松本で堅実に勤め上げた銀行員だった。

子供の頃の記憶にある父も、いつもこのインクとタバコと安酒が混ざり合ったような匂いをさせて、夜遅くに帰ってきた。


あの頃は、その匂いが「古臭い昭和の遺物」のように思えて、少しだけ嫌いだった。だが、どうしてだろう。2026年の無菌状態の世界から放り出された今、その背中が、たまらなく愛おしく、そして二度と手の届かないほど遠い場所に感じられてしまう。


「おい!何ぼーっとしてんだ。ここは鑑賞する場所じゃねえ、流し込む場所だぜ。」


石川が、使い込まれて細かな傷が無数に入ったジョッキを、ガタついた木製テーブルに叩きつけるように置き、お通しのひからびた枝豆をつまんだ。

石川の爪の間には、先ほどまで触っていた電子部品の汚れだろうか、黒い筋が残っている。それが逆に、この時代の「現場のエンジニア」としての重みを放っていた。


「……すみません。少し、懐かしくて」


「懐かしい? お前、いくつだよ。この平成の混沌が懐かしいなんて、じじいみたいなこと抜かしやがって」


「……四十五です」


誠が静かに答えると、ちょうどビールを煽っていた石川が「ぶふっ!」と盛大に吹き出した。


「……げほっ、ごほっ! お前、今なんて言った? 四十五? 嘘つけ、冗談だろ!」


石川は手元の布巾で口元を拭いながら、信じられないものを見る目で誠を凝視した。


「ずいぶん若作りだな、おい。……俺は四十七だぞ。たった三つしか違わねえじゃねえか」


石川は、深く刻まれた目尻の皺や、油と煤にまみれた自分の手を忌々しそうに見つめ、首を振った。


「未来には、見た目までごまかす技術でもあるのかよ。自分と歳が変わらねえ男がこれだけ若ぇってのは、なんだか嘆かわしくなってくるな」


(……ああ、やっぱり本当だったんだな)


誠は、石川の驚きを見ながら内心で苦笑した。

2026年のSNSでは、昔と今の俳優やタレントの写真を見比べて、「昔の四十代は老けすぎ」「今の四十代が若すぎるのか」というネタが定期的にバズっていたが、どうやらあれは単なる加工のせいではなかったらしい。

目の前にいる石川は、現代の感覚なら還暦を過ぎていてもおかしくないほど、濃い「生」の時間をその顔に刻んでいた。


石川は鼻で笑い、残った黄金色の液体を喉に流し込んだ。


「……で、誠。とりあえずの食い扶持と寝床は確保できたわけだ。普通の人間なら、ここで『未来の知識を使って株だの競馬だので一儲けしてやろう』と野心を燃やすところだが、お前の目はさっきから死んだ魚みたいだぜ。まるで、大事な魂を30年後のどこかに置き忘れてきたみたいだ」


石川の射抜くような鋭い指摘に、誠はジョッキには手を付けず、ポケットに手を伸ばした。取り出したのは、石川を驚かせたあのiPhone 15 Pro。プライベート用だ。


1996年の最新鋭である「携帯電話」……

ようやくデジタル方式が普及し始め、画面に文字が出るだけで喜んでいた時代。それとは比較にならない、一切の無垢な美しさを湛えたチタニウムの質感。消灯した画面は、深淵のような黒を湛えている。

誠がサイドボタンを軽く押すと、1996年には存在し得ない、圧倒的な解像度の有機ELディスプレイが夜の闇を切り裂くように発光する。


石川が息を呑むのが分かった。

誠はそのまま、「写真」の中に保存された一枚の写真を見せた。


そこには、黄色い通園帽子を被り、少し大きめの園服に身を包んで満面の笑みを浮かべる幼い少女と、その横で彼女の肩を抱き、優しく微笑む女性の姿があった。


「……娘と妻です。娘は2026年の4月に、小学校に入学する予定なんです」


誠の声は、頭上を通り過ぎる山手線の轟音に消されそうなほど細かった。だが、その響きには、どんな技術解説よりも重い、切実な真実が宿っていた。


「出張中に出ようとしたら、気づいたら今ここにいました。……僕は、世界を救いに来たわけでも、歴史を正しに来た救世主でもありません。ただの、父親なんです。何が何でも、娘と妻のいる場所に帰らなきゃいけない。4月の入学式に、僕は父親として隣に立って、あいつのランドセル姿を写真に収めなきゃいけない。それが、僕が今、果たさなきゃいけないことなんです。」


石川は枝豆を口に運ぶ手を止め、無言で画面を見つめた。

1996年の今、液晶画面といえば、バックライトがムラになり、ドットの荒い「計算機の延長」でしかなかった。だが、誠の手の中にあるそれは、もはや「映像」という概念を超えて、そこにある「現実」をそのまま切り取って持ってきた「窓」そのものに見えた。


「石川さん、あなたは僕のツールを『オーパーツ』とおっしゃいました。でも、これは僕にとって、過去と未来を繋ぐ唯一の命綱なんです。これを解析して、あるいはあなたの知識を借りて、何らかの物理的な手がかりを見つけられないでしょうか。……タイムスリップなんて、理屈じゃ説明できないのは分かってます。でも、現に僕はここにいて、この端末もここにある。物理法則が完全に壊れたわけじゃないなら、そこには必ず、僕をこちら側へ押し出した『理屈』があるはずなんです」


誠は、喉の奥から絞り出すように言葉を続けた。指先が、わずかに震えている。


「……石川さん、僕は、帰らなきゃいけないんです。その方法を、0.01%でもいいから見つけたい。僕を……僕を助けてくれませんか」


石川はしばらくの間、黙って誠の目を見つめていた。やがて、ジョッキに残ったビールを一気に煽り、ふぅーっと重い息を吐き出した。それは呆れではなく、腹を括った男の吐息だった。


「いいか、俺はエンジニアだ。幽霊も神様も信じねえ。だが、『現物』は信じる。お前がここにいて、その出鱈目なブツがここにある。なら、そこには必ず、物理的な『入口』があったはずだ。エネルギーの不変法則ってやつが正しいなら、お前をこっちへ飛ばすために使われた膨大なエネルギーかなんぞやの残り香が、どこかに眠っているはずなんだよ」


石川はタバコを一本咥え、愛用のジッポーの蓋を小気味よい音で跳ね上げた。シュカッ、という音と共に、青白い火が灯る。


「帰る方法、ね……。理論をこねくり回す前に、まずは現場だ。お前、こっち側に『現れた』時、どこにいた?」


誠は、記憶の糸を必死に手繰り寄せた。

あの日の記憶は、強烈な光と眩暈で断片化しているが、あの瞬間の空気の冷たさだけは、皮膚が覚えている。


「……渋谷です。坂の上の、見晴らしのいいテラス。『渋谷クロスタワー』の、3階にある広場です。」


「……クロス・タワー?」


石川が眉をひそめ、煙を吐き出す。

「なんだそりゃ。渋谷の再開発ビルか何かか? 少なくとも、今この街にそんな名前の建物はねえな。渋谷にあるデカいビルなんざ、109か東急百貨店、あとは精々……」


「えっ……. そんなはずは、あそこは昔からある……。ええと、あそこです。尾崎豊の石碑がある、広いテラス。歩道橋から直結していて、国道246号線を見下ろせる場所です。2026年では、待ち合わせ場所なんかにも使われています。」


石川の顔が、ハッとしたように動いた。何かに気づいたような、苦笑に近い表情だ。


「ああ! なんだ、『東●生命ビル』のことかよ! 紛らわしいこと言いやがって。尾崎のファンが毎日溜まって、壁に落書きしまくってる、あの青白い巨大ビルだろ。お前らの時代じゃ、名前が変わっちまってるのか」


誠は、その響きに聞き覚えがあった。

そうか、2026年では当たり前に呼んでいた『クロスタワー』は、経営破綻や合併を繰り返した後の、かつての名称を上書きしてしまった未来の名前だったのだ。

1996年の今、あのビルはまだ「東●生命」の看板を掲げ、この狂騒の時代を見下ろしているのだ。


「いいか、誠。何かが起きた場所には、必ず『残り香』がある。回路がショートした場所には、肉眼じゃ見えねえ熱の痕跡が残る。タイムスリップなんて大層なもんが起きたなら、磁場の歪みか、あるいは別の何かが残ってるかもしれねえ」


石川は少し考え込むように視線を落とした。


「うちの店にな、工場を閉めた研究所から引き取ってきた計測器がいくつかある。……ガウスメーター(磁束密度計)や、電界強度を測れるやつだ。1996年の最新鋭じゃ、幽霊の正体までは掴めねえだろうが、お前という『異物』がこの世界に現れた時に生じた歪みくらいは、数値として拾えるかもしれねえ。」


石川は伝票を掴んで立ち上がると、無造作に千円札を数枚テーブルに叩きつけた。


「そうとなりゃ、まずは現場を抑えるぞ。……おい、モタモタすんな。娘の入学式に遅れたくねえんだろ?」


誠は、一瞬呆然とした後、力強く頷いた。

胸の奥で、冷え切っていた希望の火が、石川という男の熱気に煽られて再燃するのを感じた。


「……はい!」


ガード下を出ると、1月の冷たい夜風が吹き抜けた。

だが、先ほどまでの寒々しさはなかった。 頭上の鉄橋を、火花を散らしながら、轟音を立てて山手線が通過していく。その鉄の軋みさえも、今は誠の帰還を促す鼓動のように聞こえる。


二人は、煌々と光る1996年の不夜城、混沌と希望が入り混じる渋谷へと向かうため、営団地下鉄の入り口へと走り出した。


2回表。

試合の趨勢に光が灯った。



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