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5.2_最終話_秋葉のホログラム

 2026年2月7日、土曜日。秋葉原。

 かつて「石川無線」と呼ばれた雑居ビルの一室には、今、冬の午後の柔らかな陽光が差し込んでいた。窓の外に見える景色は、1996年のあの煤けた街並みではない。洗練された高層ビルが並び、無数のデジタルサイネージが音もなく情報を垂れ流し、空を舞うドローンの羽音が生活音の一部となった、上條誠が「変えた」あとの2026年の秋葉原だ。


「ありがとうございましたー!」

「はい、さようなら。車に気をつけて帰れよ。……あと、基板を素手でベタベタ触るな。静電気で逝っちまうからな!」


 石川のしわがれた、けれど張りのある声が教室に響く。

 ここは今、石川が引退後に開いた「ジュニア・エンジニア・アカデミー」となっていた。かつて、日本のPC市場を席巻した巨大メーカー「ハードウェブ」の創業者であり、伝説のエンジニアとして知られる石川から直接指導を受けられるとあって、この教室は今や、抽選待ちが一年続くほどの超人気スポットだ。


「石川先生、また来週!」

「おう、次はもっと面白い回路を見せてやるよ」


 子供たちが賑やかに去っていった後の教室内には、独特の匂いが漂っていた。ハンダが溶ける時のどこか懐かしい焦げた匂い、オゾンの香り、そして最新の液冷システムが発する静かな駆動音。

 石川は大きく伸びをして、節々の鳴る腰を叩いた。


「ふぅ……。ったく、ガキ共のエネルギーってのは、ハンダごてより熱いな」


 石川は一人、店の奥にある使い込まれたワークデスクに腰掛けた。壁には、かつての「石川無線」の古びた看板が、額装されて大切に飾られている。


 石川は日課の一本を取り出した。銘柄は、三十年前から変わらない「キャメル」。

ジッポのライターで火を灯し、ゆっくりと煙を吸い込む。かつては一日に三箱を空けるヘビースモーカーだったが、今は一日にこの一本、授業を終えた後のこの瞬間だけと決めている。


(……77歳、か。まさか、俺がこんなに長生きするとは思わなかったな)


石川は、自分の節くれ立った、けれど今なお正確にピンセットを操れる手を見つめた。三十年前、1996年のあの蒸し暑い夏。秋葉原の狭いラボで、誠は不意に石川の顔を覗き込んで、ひどく真面目な顔でこう言ったのだ。


『石川さん。今すぐ生活を改めるべきだ』


 あの時、石川は咳き込みながら笑ったものだ。「余計なお世話だ、この若造が」と。だが、誠は一歩も引かなかった。


『いいですか、「腸活」ですよ。まずはヨーグルトと納豆。発酵食品を摂って、腸内環境を整えてください。それと……タバコを減らして、少しでいいから走りましょう。45歳を過ぎたら、筋肉と内臓が資本になるんです。これ、未来の常識ですよ』


 あいつの目は、冗談を言っているようには見えなかった。

 誠が霧の中に消えた後、石川はなぜかその言葉が頭から離れなくなった。誠がいなくなった寂しさを埋めるように、石川は言いつけを守り始めた。毎朝のヨーグルト、夕食の納豆。48歳からは、週末に小金井公園の周りをゆっくりと走るようになった。


 走り始めると、不思議とタバコを吸う本数も減っていった。

 何より驚いたのは、妻の紀子の変化。


『あなた、最近顔色が良くなったわね。私も付き合うわ』


 そう言って二人で「腸活」に励むようになり、気づけば三十年。今の石川は、同年代の友人が膝や腰の痛みを訴える中で、驚くほど軽快に階段を駆け上がることができる。紀子に至っては、近所の主婦仲間から「どうしてそんなに肌にツヤがあるの?」と不思議がられるほど若々しい。


(誠の野郎……。あいつがあの時言ったのは、単なる健康法じゃなかった。俺たちに、この『三十年後』を健康な目で見届けさせるための、最後のプレゼントだったんだな)


 紫煙を眺めながら、石川は小さく笑った。1月23日、博多で再会した誠の、あのどこか誇らしげで、けれど感謝に満ちた瞳を思い出す。あいつはちゃんと帰っていった。そして、自分たちも、あいつが教えてくれた「未来」を生き抜いたのだ。


 その時、閉めかけた自動ドアが、電子音を立てて開いた。


「ああ、悪いね。今日はもう店じまいなんだ……」


 石川が顔を上げると、入り口の逆光の中に一人のシルエットが浮かび上がっていた。思わず目を細める。その女性の姿が、あまりにも「異質」だったからだ。


 彼女の着ている服は、2026年の流行とは明らかに一線を画していた。一見するとシンプルなジャケットだが、光の当たる角度によって、まるで生き物のように色が揺らめいている。スマートファブリックの一種だろうか、いや、石川の知るどんな素材よりも薄く、そして機能的だ。


 そして、その顔立ち。石川の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。


(美雪……? いや、違うな。だが……)


 彼女の持つ、意志の強そうな眉、少し吊り上がった知的な瞳、そして何より、周囲を圧倒するような気品。それは、ハードウェブの社長として君臨する今の美雪に生き写しだった。いや、正確には、三十年前に秋葉原で共に過ごした「あの頃の美雪」が、そのまま未来の服を着て現れたかのような錯覚を覚えた。


「あの……このデバイスについてお話が……あ、その前に、これを見ていただけますか」


 彼女の声は、涼やかで、けれどどこか懐かしい響きを持っていた。

 彼女は大切そうに抱えていた、野球ボールより少し小さい、白く真珠のような光沢を放つ球体を取り出した。


 彼女が球体の上部に指を触れる。

 瞬間、石川の目の前の空間が、激しく波打った。


「……っ!?」


それは、2026年の技術で実現されている「空中結像」や「スカウター」の比ではなかった。

 空気そのものが発光し、そこに実体を持ったかのような「映像」が浮かび上がる。投影されたのは、今日の秋葉原の街並みだった。だが、その解像度は異常だった。ビルの壁面の細かな傷、通行人の髪の毛一本一本の揺れ、そして大気中の塵の動きまでもが、まるでその場に「実在」しているかのように再現されている。


「これは……ホログラムじゃねえ。……空間そのものを再構築してやがるのか?」


 石川のエンジニアとしての魂が、猛烈に叫び始め、1996年に誠がiPhoneを取り出した時の衝撃、あの時の興奮が、三十年の時を超えて、全身を駆け巡った。


「いやはや。長生きしてみるもんだなあ」


 石川は手に持っていたキャメルの火を揉み消した。

 灰皿から立ち上る一筋の煙が、投影された「未来の光」の中に溶けていく。


「こりゃあ、また面白いことが起こりそうだ」


 石川は立ち上がり、膝の痛みなど微塵も感じさせない足取りで、その女性に歩み寄った。

彼女の瞳の中に、自分たちが作り上げた「206年の秋葉原」が映っている。だが、彼女が持ってきたのは、さらにその先にある「何か」だ。


「どうした姉ちゃん。何か困り事か? えらくいい身なりをしてるな。……名前はなんてんだ?」


 石川英吉、七十七歳。

 彼の第二の人生は、ここで終わるのではない。

 また新しい、未知の「部品ピース」を組み立てるための新しい回路が、今、カチリと音を立てて繋がった。


 石川はニヤリと不敵に笑い、道具箱を手に取った。

 1996年のあの日、誠を迎え入れた時と同じように。

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