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1996.0渋谷のマッキントッシュ  作者: 代々木ノブ
VALUES(’Kelly','Johnson’,'巫女')
22/36

3.5_春の嵐-2 襲撃

 五反田。

 山手線のガード下から漂う湿った排気ガスと、安っぽいネオンが混じり合う一角。雑居ビルの地下にあるキャバクラ『バニー』の隅で、寅谷はぬるくなった水割りを、喉を鳴らして煽っていた。


「……クソが。どいつもこいつも、俺をバカにしやがって」


 卓上の灰皿には、短くなったタバコの吸い殻が山をなしている。

 一年前、彼は山八証券の「期待の若手」として、銀座高級クラブで領収書を切っていた。それが今や、不況の波に呑まれ、上司からは「数字を上げられないなら窓から飛び降りろ」とまで罵倒される日々。かつて切り捨てた石川無線の盛況ぶりは、今の彼にとって、自分の無能さを突きつける毒薬でしかなかった。


「景気が悪い顔してんな、エリート証券マンさんよ」


 背後から、鼓膜にへばりつくような粘り気のある声が響いた。

 振り返らなくてもわかる。渋谷の裏通りで「悪いやつら」を束ねるチンピラ、木瀬きせだ。

 数ヶ月前、寅谷がヤケ酒の末に他人の財布に手をかけようとした醜態を、木瀬に動画アナログのハンディカムに収められて以来、寅谷は木瀬の「歩くATM」に成り下がっていた。


「……木瀬さん。金なら、今は本当に持ち合わせが……」

「ねえなら、知恵を出せよ。お前、大手証券の社員だろ? どこに金が眠ってるかくらい、鼻が利くはずだ」


 木瀬が寅谷の首筋に太い腕を回し、耳元で囁く。安っぽい香水の匂いと、隠しきれない暴力の気配が寅谷の思考を麻痺させる。


(……このままじゃ、俺の人生はこいつに食い潰される)


 極限の恐怖の中で、寅谷の歪んだ脳細胞が火花を散らした。

 そうだ、木瀬に石川無線を襲わせればいい。

 木瀬たちに強盗として押し入らせ、金目のブツを盗ませる。自分は「熱心な営業」を装って現場付近に張り込み、犯行の瞬間に警察へ通報する。そうすれば木瀬は刑務所行きとなり、自分への強請りは止まる。さらに、石川無線には「強盗をいち早く発見した恩人」として、決定的な信頼を勝ち取れる。


「……木瀬さん。良い話があります。秋葉原の『石川無線』ですよ」


 寅谷は声を潜め、獲物を誘う蜘蛛のように言葉を紡いだ。

「あそこには今、ダイヤモンドが店先に転がっているようなもんです。CPU、メモリ……手のひらに乗るチップ一つが、数万円で右から左へ動く。セキュリティは甘々のオタクショップ。木瀬さんのような『本物』が行けば、連中、腰を抜かして逃げ出しますよ」


 木瀬の瞳の奥に、獣のような光が宿った。


――――――――


 四月中旬。

 秋葉原の石川無線は、かつての長閑のどかな電子部品店の面影を失いつつあった。誠の提案と、塩川社長の迅速な手配により、店内外には複数台の監視カメラが据えられ、ラボや仮眠室の入り口には電子ロック付きの重厚な鉄扉が備えられた。石川、誠、ケリー、そして看板娘のあずさと美雪。さらにバックアップを自任する宗正憲までもが、当時はまだ珍しい「携帯電話」を腰に下げている。


 そんな折、店の仮眠室の配管から激しい漏水が見つかった。老朽化によるもので、数日の工事が必要だという。


「誠、これじゃ今夜は眠れないだろう。不便をかけるが、工事が終わるまで小金井のうちに来い」


 石川の言葉に甘え、誠は数日間、石川宅へ居候することになった。荷物をまとめる誠に、その日シフトに入っていたあずさが笑顔で駆け寄る。


 「お兄さん、私に任せて。今日は私がしっかり戸締まりして帰るから。二十時にはシャッターを閉める。それなら人通りも多いし、大丈夫でしょ?」


 あずさは法学部三年生になっていた。最近は試験やレポートが重なり、分厚い法学全集をバッグに詰め込んで登校している。誠は一瞬、言葉にできない不安を覚えたが、彼女の快活な瞳に押されるように店を後にした。


――――――


 小金井の石川宅には、誠が忘れかけていた「家庭の温もり」があった。

 妻の紀子は、美雪がそのまま歳を重ねたような秋田美人。透き通るような肌と、穏やかな微笑み。彼女が作る肉じゃがの湯気が、誠の鼻腔をくすぐる。


「誠さん、遠慮なさらずに。主人があんなに生き生きと仕事の話をするのは、何年ぶりかしら。あなたのおかげですよ」


 紀子は誠の「未来人」としての素性を知らない。だが、夫がこれほどまでに信頼を寄せるこの男が、一体何者なのか、何歳なのか、不思議そうに、しかし深くは追求せずに温かくもてなした。

 その瞳には「夫を支えてくれる大切な人」への深い慈しみがあった。


(……2026年4月の俺の家も、こんな風に暖かい食卓を囲んでいたんだろうか)


 誠は、喉の奥に込み上げる切なさを、熱い味噌汁と一緒に飲み込んだ。石川と紀子の厚意が、冷え切っていた彼の心に染み渡っていく。


――――――


 その頃、秋葉原。

 店を閉めたあずさは、駅前の喫茶店で教科書を広げていた。


「……民法第百七十七条。不動産に関する物権の得喪及び変更は……」


 コーヒーの香りに包まれ、勉強に没頭すること一時間。ようやく一区切りつき、一服しようとバッグを探る。


「あ……ライター。お店に忘れちゃった」


 ハートのロゴが入った、銀色のZippo。二十歳の誕生日に友人から贈られた大切なものだ。


「ちょっと戻るか。まだそんなに遅くないし」


 あずさは軽い足取りで、夜の秋葉原の路地を店へと引き返した。

 だが、石川無線の前に着いた瞬間、彼女の全身の毛穴が逆立つ。


「……ん?‥え?」


 閉めたはずのシャッターが、大人の腰の高さほどまでこじ開けられている。不審に思い、中を覗き込む。暗い店内で、懐中電灯の光が忙しく踊っていた。

 

 ガシャアァン! という激しいガラスの破砕音。


「急げ! 高い方のチップだけを袋に詰めろ!」

「木瀬さん、これ、一個五万もするんですか!?」


(ドロボウ……!)


 あずさは震える手で、ポケットの携帯電話を取り出した。短縮ダイヤル。石川の番号。


 その時、自宅では石川が風呂に入っており、居間のテーブルで鳴り響く着信音には誠が気づく。ディスプレイには『あずさ』の文字。


「あずささんからだ。……はい、上條です」


『誠さん! 大変、店に誰か……っ!』


「あずささん? どうした、何があった!」


 電話越しに、あずさの悲鳴が響く。

 そして、電話越しに男たちの罵声が飛び込んできた。


『……おい、何してんだ、テメェ!』


『チッ、女か! 携帯持ってやがるぞ、取り上げろ!!』


「あずささん!! あずささん!!!」


 誠の叫びも虚しく、電話の向こうから聞こえてきたのは、激しい争い合う音と、あずさが放った渾身の蹴りが誰かの股間に当たったような呻き声、そして——。


『……離せ! 離してよ!!』

『うるせえ! 車に放り込め!』

 急発進するタイヤの焦げる匂いが、電話越しに伝わってくるようだった。

 ガチャン、という大きな音と共に、通話が途切れた。


「……石川さん! あずささんが危ない!!」


――――――


 風呂から飛び出した石川と共に、誠はなりふり構わずタクシーを飛ばした。

 現場には、連絡を受けたケリー、そして宗正憲も、冷徹な表情で既に到着していた。


 店内の惨状は筆舌に尽くしがたい。


 最新のPentiumプロセッサや大容量メモリが詰まっていたショーケースは粉砕され、棚はなぎ倒されている。だが、誠の目に映ったのは、床に転がっり分厚い本が飛び出たあずさの鞄と、粉々に砕かれた彼女の携帯電話だった。


「警察に……警察に連絡しましょう!!」

誠が叫ぶが、石川がその肩を強く掴んだ。

「待て……! 今警察を呼べば、鑑識が入る。数日は店を封鎖される。それだけじゃない、誠、お前の身元が洗われる。宗さんやケリーの立場も危うくなるんだぞ!」


「そんなこと言ってる場合ですか! あずささんの命がかかってるんだ!!」


「……おちつけ、上條くん」

 宗正憲の、重い声がラボに響く。その瞳には、かつてないほどの静かな「怒り」が宿っていた。

「俺たちでやれることを考えるんだ…」


「そうその通りだマサヨシ。マコト、イシカワさん。怒りはエネルギーの無駄だ。今は情報を整理しよう」

 ケリーの低く、よく通る声が空気を切り裂いた。その瞳には、あずさを心配する情愛と共に冷徹な光が宿っている。まるでこういった緊急事態を経験したかのような態度だ。

「パニックなにも生まない。…まずは監視カメラの解析だよ」


 (非常時の対処は欧米人の方が慣れているのか…)

 「静寂」を纏うケリーの所作に誠も石川も落ち着きをもどした。


 2Fのラボでケリーが慣れた手つきで端末を操作し、録画データを巻き戻す。

 モニターにその光景が映る。

 店内に侵入した連中はフェイスマスクで顔を隠していた。だが、その動きや服装には、秋葉原の人間にはない特有の「汚れ」があった。渋谷を拠点にするチーマーのそれだ。


「犯人は四人。秋葉原にはいない風体の男たちだ。だが、不可解な点が一つある」

 ケリーは一時停止ボタンを押し、店外カメラ用のモニタ映像を映す。

 画面の端に映り込んだ一人の男を指し示した。狐のような目をした背広姿の男。

あずさがバンに押し込まれる凄惨な光景の直後、狼狽しながらそれを見つめ、逃げるように車を追いかける、山八証券の寅谷だ。


「……寅谷だ、なんでこいつがいやがる?」

 石川が唸るように言った。カメラに向いたその狐目の顔には、卑屈な打算と、想定外の事態に震える小心者の恐怖が張り付いていた。


「この男。彼はあずさがさらわれる瞬間を、至近距離で目撃している。映像を見る限り、彼は携帯電話を持っている、あるいは近くの公衆電話に駆け込む時間も十分にあった。……だが、彼はそれをしなかった」

 ケリーは映像をコマ送りした。寅谷は通報する素振りも見せず、狼狽しながら、あずさを乗せたバンを追っている。画面の端の方で、緑色のタクシーのブレーキランプが見えた。おそらくタクシーを捕まえてバンを追いかけたのだろう。


「なぜ、彼は警察に連絡しない? 一般的な市民なら恐怖で足がすくむか、すぐに110番する。だが彼は、まるで『計画が狂った』ことに焦っているかのような動きをしている。通報をせず、自ら現場から離脱して犯人を追う……。これは、彼がこの事件の『関係者』、あるいは『首謀者』である決定的な証拠だ」


誠はケリーの言葉に息を呑んだ。

「……共犯、ということか?あの野郎……。」

はらわたが煮えくりかえるような怒りが、全身を震わせる。


「……おちつけと言っても無理なのはわかっている。俺だって、今すぐあいつをこの手で……」

宗が誠の肩に手を置いた。その手もまた、微かに震えていた。

「だが、さっきも言った通り、怒りは力に変えろ。どうすれば助けられるか、それだけを考えるんだ」


 夜が明けるまで、誠達は荒らされた店内を片付けながら手がかりを探す。宗も自ら箒を持ち、夜中ながら秘書に連絡して「明日の全予定をキャンセル」とだけ告げた。企業のトップが、一人の少女を救うために、そのすべてを投げ打ったのだ。


 そして翌朝……


 四月中旬の陽光が、皮肉なほど穏やかに秋葉原の路地を照らしている。

石川無線の前に立った柴崎和夫は、手に持った和菓子の袋を握りしめたまま、その場に釘付けになった。


「……なんだ、これは」


 午前中だというのに、店のシャッターが中途半端に閉まっている。その隙間から漏れ聞こえてくるのは、いつもの快活な笑い声ではなく、重く湿った、男たちの焦燥が混じり合った声だった。

 柴崎の脳内で、眠っていた「警戒アラート」が静かに、しかし激しく鳴り響く。彼は無意識のうちに姿勢を低くし、足音を消してシャッターの側へ歩み寄った。


「……あずさが、さらわれたんだ」

「渋谷のチーマー……車に無理やり……」


『あずさ』『さらわれた』。

 その単語が鼓膜を叩いた瞬間、柴崎の全身の毛穴が逆立ち、体内の血流が沸騰したような激流となって駆け巡った。

 視界が急速に狭まり、逆に焦点が恐ろしいほど鋭くなる。

 彼の中で、和菓子屋の跡取りとしての顔が崩れ、数ヶ月前まで数千メートルの上空から敵陣へと飛び込んでいた「第一空挺団・2等陸曹」としての冷徹な人格が表層に浮上した。


 ガシャリ、と重い音を立てて、柴崎はシャッターを力ずくで押し上げた。


 店内にいた誠、石川、宗正憲、そしてケリーの四人が、驚愕して入り口を振り返る。逆光を背に立っていたのは、数日前まで穏やかに笑っていた、あの「柴崎くん」ではなかった。


「……何があったんですか」


 その声は、深淵の底から響くような、低く、温度を失った冷淡な響きだった。

 誠は息を呑んだ。目の前の柴崎から放たれる圧倒的な「殺気」に近いプレッシャー。それは、2026年のビジネス界で数多の修羅場をくぐり抜けてきた誠でさえ、本能的に一歩後退りしてしまうほどの暴力的な気迫だった。

 日本有数の時価総額を誇る企業のトップである宗正憲ですら、その武人としての凄みに圧倒され、一瞬たじろいだ。


「柴崎くん……君、その目は……」

 石川が呆然と呟く。

 

 柴崎は、石川の言葉に答える代わりに、壊れたショーケースと床に散乱したパーツ、そして隅に落ちているあずさの持ち物を、獲物を探す猛禽類のような鋭い眼差しでスキャンした。


「状況を説明してください。今すぐに。……SITREP(状況報告)を」

 その口調は、もはや質問ではなく「命令」だった。


 誠は、圧倒されながらも、必死に断片的な情報を整理して伝えた。昨夜、強盗が入り、偶然居合わせたあずさが連れ去られたこと——。


 一通り誠が説明し終えた、その矢先だった。


 ジリリリリッ! と、静まり返った店内に電話のベルがつんざくように鳴り響いた。

 全員の視線が一点に集まる。柴崎が、鋭い目配せで石川に受話器を取るよう促した。石川は唾を飲み込み、受話器を取る。


「……はい、石川無線です」


『……よお、石川さんよ。お宅の可愛い看板娘、預かってるぜ』


 受話器越しにも聞こえる、木瀬の卑怯な笑い声。

 柴崎は瞬時に手近なメモ帳に猛然とペンを走らせ、石川の目の前に突きつけた。

《なるべく長く話す。情報引き出す》


 石川は柴崎の指示通り、とぼけたふりをして声を震わせた。


「あ、あんた誰だ……! あずさを、あずさをどうしたんだ!」


『ガタガタ騒ぐな。1,000万用意しろ。今日の二十二時。神泉の裏通りにある廃業したラブホ跡地だ。……いいか、警察に言ってみろ。この女の顔がどうなっても知らねえぞ』


「し、神泉……? どこだそこは! 渋谷の土地勘がないんだ。もっと詳しく教えてくれ。それに、一人でそんな大金を持って行けるわけがないだろう……!」


 石川の必死の演技に、木瀬は「オタクオヤジが狼狽している」と確信し、得意げにベラベラと実情を話し始めた。


『フン、神泉の交番の裏を入った奥だよ。廃屋になってるからすぐわかる。……心配しなくても、こっちには渋谷のチーマーが20人もいるんだ。お前らみたいなオタクどもが徒党を組んでやってきても、全員返り討ちにしてやるよ。変なことしなければこの女には何もしねえよ。いいか、二十二時だぞ。遅れるんじゃねえぞ。』


 ツーツーという非情な切断音。

 石川が受話器を置くと、柴崎が独り言のように呟いた。


「……場所は神泉。敵は約20人。……戦力開示するあたり相手は、素人ですね」


 その言葉は、冷徹なまでの敵情分析だった。

 柴崎がそう言った瞬間、その冷徹な瞳の奥に、一筋の烈火のような情念が走った。


「彼女を傷つける者は、たとえ誰であろうと、俺がこの手で排除します」


 その静かな宣言には、一切の迷いも、慈悲もなかった。彼は愛する者を奪おうとする者に対し、文字通りの「死神」になる決意を固めていた。


「おじさん達。一旦、ここで待っていてください。1時間以内に戻ります」


 柴崎はそう言い残すと、弾丸のような速さで店を飛び出していった。その背中は、和菓子屋の跡取りではない。国を背負って戦うプロフェッショナル、のそれだった。


 ケリーは柴崎の足運びと、瞬時に店内の状況をスキャンした眼光、そして石川への的確な指示をみて、小さく頷いた。


(……彼は私と『同類』ではない。私よりも遥かに『修羅場(前線)』に近い場所の人間だ…。だとしたら、自分ができる事は‥‥)


 まだ誠や石川、宗までも呆然とする中、ケリーはラボに向かう。解析済みのデータを柴崎へと共有する準備のために。

 

 その素早い動きを誠は片目で垣間見て

(技術者としての精密な頭脳なのか、それとも経験者なのか。ケリーさんは一体何者だ‥‥いや今はそれじゃない。)


 と、ケリーへの疑問を覚えつつ誠は、

「石川さん、地図ってありますか?具体的な場所を確認しましょう」

 誠は、迅速な動きを見せるケリーを垣間見つつ、石川に伝える。

 まずは、神泉の地図と場所を把握し何かできる事を探ろうとしたのだ。


「マコト。わかっているね。戦闘に地図は必需品なんだ。

 大丈夫、あのシバサキという人、軍人だろ。心強いよ。

 あずさは、必ず帰ってくる。僕と、彼がここにいる以上、失敗させない」


(これが……有事に慣れた人間の姿なのか、ケリーの素性はあとあと時間のある時に考えよう。)


 1996年、秋葉原の小さなラボは、もはやただのパーツショップではなかった。

そこは、愛する者を救い出すために集結した、プロフェッショナルたちの「司令部」が構築されようとしていた。

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