3.4_春の嵐-1 暗雲
1996年4月6日。
街のあちこちで桜が舞い、ピカピカのランドセルを背負った子供たちが、誇らしげに親の隣を歩いている。
もし、2026年の「あの日」が来なければ、今日は娘の小学校の入学式だったはずだ。誠の脳裏に、ドレスに身を包んで照れくさそうに笑う娘と、その姿を涙ぐみながらビデオに収める妻の姿が、痛いほど鮮明に浮かぶ。
だが、自分は今、30年前の秋葉原にいる。
1月に自分が消えたあとの2026年は、一体どうなっているのだろうか。働き盛りの夫が突如として消息を絶ち、妻は憔悴しきっているのではないか。何より、特別養子縁組で家族として迎え入れた娘に、「ある日突然、父親がいなくなった」という残酷な傷を負わせてしまったのではないか。その焦燥感が、冷たい指先で心臓を直接掴まれるような感覚となって誠を襲う。
しかし、冷静な自分が頭の片隅で囁く。この1996年という時間軸において、2026年の惨劇はまだ「起きていない」のも事実だ。
時間は一本の道なのか、それとも分岐した枝なのか。どれほど考察を巡らせても、答えの出ないパラドックスの渦に意識が飲み込まれそうになる。
(……っ、ダメだ。今は、これじゃない)
誠は両手で自分の頬を強く叩いた。パチン、と乾いた音がラボの静寂を破る。
痛みが思考の霧を晴らしていく。2026年の家族を救う唯一の方法は、不確かな未来を嘆くことではない。今、目の前にある1996年の現実を、誰よりも泥臭く、着実に生き抜き、そして2026年に帰る方法を探る事だ。
誠は深く息を吐き出し、鋭い眼差しでPC-98の画面とSurfaceのリンクを見つめた。
すると‥‥
「……なんじゃ、こりゃあっ!」
窓際でドットインパクトプリンターが吐き出したばかりの連続用紙を眺めていた石川が、喉を震わせるような絶叫を上げた。あまりの驚きに、口に咥えていたセブンスターの灰が、使い古された作業着の胸元にポトリと落ちる。
「どうかしましたか、石川さん」
「誠……これ、見間違いじゃねえよな? 3月の月次試算表だ。システムバンクからの業務委託売上を除いても、店舗の物販だけで前年比200%を超えてるぞ!」
石川の手にある紙には、信じがたい数字が並んでいた。
かつては「玄人好みの偏屈な店」だった石川無線。その空気を一変させたのは、誠の提案で雇い入れた、あずさをはじめとする3人のギャル店員たちだった。そして彼女たちが持ち込んだ圧倒的な陽のエネルギーと、週末に降臨する「アイアンクイーン」こと美雪のカリスマ性は、秋葉原という街に潜んでいた「オタク」たちの潜在的な購買意欲を爆発させた。
「あそこに行けば、最先端のパーツが手に入り、可愛い女の子たちが活気よく迎えてくれる」
そんな口コミが、パソコン通信や地べたのネットワークを通じて巨大な渦となり、店には札束を握りしめた客が引きも切らず押し寄せていた。
しかし、石川を何より驚愕させたのは、その経営状況が「今、この瞬間に可視化されている」という事実だった。
「……それにしても、まだ4月に入って5営業日目だぞ。なんで、もう先月の数字が上がってるんだ。以前なら、領収書の束を前に紀子と二人で唸りながら、試算表が出るのは20日を過ぎてからだったっていうのに」
石川が不思議そうに、部屋の隅にある「異形の装置」に目をやった。
そこには、1996年現在の覇者であるPC-9821と、誠のSurface Proを繋ぐ不格好なケーブルがあった。
これこそが、ケリーと石川が心血を注いだ「時代を繋ぐ架け橋」だった。
1996年1月に発表されたばかりの最新規格「USB 1.0」。まだ世界中の誰もその端子すら手にしていない時期に、ケリーは英語の仕様書を完璧に読み解き、石川はシステムバンクの資金を元に揃えた最新の工作機械でそれを形にした。
元大手電機メーカーの技術責任者としてFDDの構造を知り尽くした石川と、電子工学の天才ケリー。この二人のタッグが、PC-98からデータを吸い出し、Surfaceへと転送する専用のインターフェースユニットを作り上げていたのだ。
「PC-98で入力した仕訳データを、このユニット経由でSurfaceに放り込み、僕が組んだ会計ロジックで処理しました。石川さんの技術と、このマシンの爆速処理能力があれば、試算表なんて一瞬です」
誠は微笑んだが、そこには経営企画部長としての彼の財務知見も凝縮されている。石川にとって、それは魔法に等しいスピードだった。
「未来の力、恐るべしだな……」
石川が感嘆の溜息をついた、その時、、
「社長~、誠さーん! 塩川商事の社長さんが、CPUの納品に来ましたよ。2階でお話ししたいって!」
今日シフトに入っている、かなっちの明るい声が階下から響く。
やってきたのは、石川の旧知の仲である塩川商事の塩川社長。
塩川と石川の縁は、石川が脱サラしてこの店を始めたばかりの頃に遡る。実績も信用もない石川に、二つ返事で商材を卸してくれたのが塩川だった。
塩川自身もかつて、卸売りを始めたばかりの頃に大手に冷遇され、苦汁をなめた経験がある。その時、手を差し伸べてくれた先輩経営者の恩義を忘れていなかった。「秋葉原を、技術と情熱がある奴が報われる街にしたい」という共通の想いが、二人を固い絆で結びつけていた。
「いやあ、石川さん! 景気がよろしいようで。2月にあの高級オシロスコープやらワークステーションやらをドカッと注文された時は、正直、あんたも焼きが回って博打に打って出たのかと心配したがね……。3月の入金を確認して、腰が抜けましたよ。一円の狂いもなく、しかもこの時期にこれだけのキャッシュを動かせる中小なんて、そうはない…」
塩川は、誠に軽く会釈をしながら、どっかと腰を下ろし、豪快に笑った。だが、その目は経営者としての鋭さを失っていない。
誠は傍らで、二人のやり取りを見守る。
「何があったんです?、一体。急に羽振りが良くなりすぎて、こっちが怖いくらいですよ」
「まあ、色々とな。大手と組むことになったのと……あとは、店に華を置いたら、オタクたちが吸い寄せられてきただけだよ」
塩川もそれ以上は深追いせず、
「…ただ、一つだけ忠告させてくださいな。」
と声を落として言った。
「石川さん。店に高価な部材を並べるようになったなら、セキュリティには気をつけなさいよ。最近、新宿あたりのショップに夜な夜な強盗が入り、高級パーツを盗んでは転売する連中がいると聞く。」
「強盗、か……」
石川の表情が引き締まる。
「一応、このラボやら仮眠室は鉄扉にしてるが、店舗の方はまだ手薄かもしれんな…」
「防犯カメラや金庫が必要なら、うちでも手配できますよ。旧知の仲だ、利益抜きでやらせてもらう。あんたの店を守ることは、秋葉原の秩序を守ることだと思ってるからね」
「恩に着るよ、塩川さん。……確かに、備えは必要だな。ちょっと考えるよ。」
誠は傍らで、二人のやり取りを見つめていた。そこにあるのは、1996年という時代特有の、泥臭くも温かい信頼関係だった。
商談を終え、満足げに店を出た塩川が、トラックに乗り込もうとしたその時だった。
「……いやあ、塩川社長! お疲れ様です!」
ねっとりとした声が、背後からかかった。そこに立っていたのは、仕立てだけは立派だが、どこか不気味さを漂わせる狐目の男だった。
山八証券の営業、寅谷。
かつて石川無線の担当だった寅谷は、店が小さいうちはあからさまに軽んじ、挨拶すら欠かしていた。だが、バブル崩壊後の不況で山八証券自体の業績が悪化。今や、かつて見向きもしなかった小規模な案件まで必死にかき集めなければ、上司からの連日の「詰め」から逃れられない。
寅谷は、最近の石川無線の盛況ぶりを嗅ぎつけ、何とか仕事を取ろうと連日のように店の前を徘徊していたのだ。
「……山八の寅谷さんか。あんたも石川さんとこに御用かい?」
塩川が冷淡に問い返す。
「ええ、まあ! 昔馴染みですから。ところで塩川さん、さっき石川さんと何を話してたんです? 設備投資ですか? それとも増資の話?」
寅谷は揉み手をしながら近づいてくる。だが、塩川はそんな彼を蛇蝎のごとく嫌っていた。
「あんたさあ……」
塩川はトラックのドアハンドルを握り、冷たく言い放った。
「営業なら、相手の情報を引き出そうとする前に、自分の不義理を詫びるのが先だろう。石川さんは、あんたのそういう『薄っぺらさ』を全部見抜いてるんだよ。自助努力で何とかしな。……あばよ」
「あいや、そんなことは言わず…」
「おいあんちゃん、どいて」
運転席に乗ろうとした塩川の部下が寅谷の背後で圧をかける。
身長は185㎝はあろうか、捲った腕には筋肉筋が目立つ屈強な男。
「あ、あ、ごめんなさい・・・」
バタンとドアが閉まり、トラックは激しい排気音と共に去っていく。
…………
トラックを見送る寅谷の顔から、瞬時に営業スマイルが消えた。
「……チッ、糞が! なんだあの貧乏商社の親父。偉そうに能書き垂れやがって」
狐目が、ドス黒い憎悪を宿して細められた。彼は自分のスーツの袖を忌々しげに払うと、石川無線の看板を睨みつけた。
「石川の野郎……たかがパーツ屋の分際で。上の詰めがどれだけキツいか、分かってんのか? ……まあいい。ぜったいに石川無線の間口を広げさせてやる。合法でも、そうでなくてもな……」
寅谷は地面に唾を吐くと、雑踏の中へと消えていった。
2階のラボ。
窓の隙間から、階下で繰り広げられていた不穏なやり取りを静かに見下ろしていた誠が、背後の石川に声をかける。
「石川さん。……あそこで塩川社長に絡んでいた背広の男は、誰ですか?」
石川は灰皿に煙草を押し付け、不機嫌そうに鼻を鳴らし。
「ああ、見えたか。……山八証券の寅谷って男だ。昔、うちがまだ食うや食わずの時に担当だったんだが、まあ、典型的な『強いものにはへこへこし、弱いものは踏みつける』タイプのいやらしい営業でね。うちが小さいと見るや露骨に無視しやがった。……それが、今更なんの用だか」
石川が吐き捨てるように言った。
だが、「山八証券」という名を聞いた瞬間、誠の脳裏に、2026年の歴史に刻まれた「確定した未来」が、凄まじい濁流となって蘇った。
(山八証券……まさか)
誠の背筋を冷たい悪寒が走る。
誠の知る歴史では、来年——1997年11月。日本を代表する四大証券の一角が、巨額の簿外債務を抱えて自主廃業に追い込まれる。
それは、戦後の日本経済を支えてきた「護送船団方式」という神話が、音を立てて崩壊する終わりの始まり。この事件を契機に、日本の金融システムに対する信頼は失墜し、極端な円高、株安、そして貸し渋りが加速する。1995年の大震災、そしてバブル崩壊後の長いトンネルを抜け出そうともがいていた日本経済に、止めを刺すような「泣きっ面に蜂」のどん底へと叩き落とす歴史的惨劇。
誠の知る未来では、その「山八」が倒れた波により、銀行の貸し渋りが激化。多くの善良で将来性ある中小企業が連鎖的に命を絶たれるような悲劇が繰り返されたのだ。
(あの狐目の男は……今、まさに沈みゆく泥舟の中から、道連れにする獲物を探しているのか?)
だが誠は、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
『来年、その会社は潰れます。日本経済はどん底に落ちます』
そう伝えるべきか。だが、今この瞬間の石川にそれを伝えたところで、あまりに現実離れした予言に混乱を招くだけではないか。未来を知る者としての責任と、歴史の奔流に抗えない無力感が誠の胸を締め付ける。
「……誠? どうした、顔色が悪いぞ」
石川の怪訝そうな声に、誠はハッと我に返る。
そして、拳を強く握りしめ、自分に言い聞かせた。
未来の崩壊を嘆くより、今、この手の中にある「石川無線」という城を、どんな嵐からも守り抜くことが先決だ。
「……いえ。石川さん、あの男が何を目論んでいるにせよ、あのようなタイプが嗅ぎ回っている以上、店はもう『ただのパーツ屋』としては見られていません。塩川社長の提案通り、防犯カメラとセキュリティ機器の導入、一刻も早く進めましょう」
誠の瞳に宿った、射抜くような鋭い光。
石川はその気迫に一瞬圧倒されたように目を丸くしたが、すぐに深く頷いた。
「ああ。分かってる。……あんな奴がうろつくってことは、俺たちもそれだけ『獲物』として脂が乗ってきたって証拠だ。舐められてたまるか。……誠、すぐに塩川に発注の連絡を入れてくれ」
「わかりました」
1996年、春。
穏やかな陽光の裏側で、巨大な経済の歯車が、破滅に向けて静かに軋みを上げていた。




