3.3_善玉菌と3月28日
1996年、3月28日。
ラボの隅に設けた仮眠室で、誠は午前六時に目を覚ました。使い込まれたパイプベッドが軋む音を聞きながら、習慣となったストレッチで体を解す。
この約2ヶ月、食事の多くを石川の妻、紀子が作る滋味深い弁当に頼っていたが、最近は申し訳なさもあり、自前で調達することも増えていた。石川無線とシステムバンクの出向社員という建前で、生活費名目の「現ナマ」を給料としてもらっているおかげで、食い扶持には困っていない。戸籍のない誠にとって、封筒に入れられた一万円札の束は、この世界で生きるための泥臭い生命線のようだった。
近所のコンビニで朝食を買い込み、事務所でパックを開けていると、車を店の前に横付けした石川が入ってきた。
「……おい、誠。お前、朝っぱらからまたそれか? 納豆に、キムチに、ヨーグルト。いつもそんな、発酵してるもんばかり並べやがって。鼻が曲がるぜ」
石川が鼻を啜りながら、ぶっきらぼうに誠の向かいへ座る。誠は苦笑しながら、納豆の糸を丁寧に切り、白飯に乗せた。
「石川さん、これ『腸活』ですよ。2026年の世界では、腸内環境を整えることが免疫力の向上や病気の予防に直結することが分かってきているんです。善玉菌を増やすのが、健康への最短ルートなんですよ」
「チョーカツだあ? 腹の掃除なんて、適当にメシ食ってりゃ十分だろうが」
「未来では、乳酸菌を効率よく摂れるタブレットや専用のスポーツドリンクまであるんです。それに……」
誠は言葉を切り、石川の顔をまじまじと見つめた。
「石川さんは47歳で、自分は45歳。二つしか違わないのに、自分の方がだいぶ若く見えるって、前におっしゃいましたよね? もしかしたら、この習慣の差かもしれませんよ」
石川の動きが止まった。鏡を見るまでもなく、自分の顔には年齢相応の「枯れ」と、不摂生な徹夜が刻んだ深い皺がある。対して誠は、不自由な生活の中でも肌に艶があり、何より姿勢が凛としている。
「……他にも筋トレや睡眠の質、あと、喫煙の有無も大きいですね。自分も昔は吸ってましたが、子供を迎え入れることを見越して38歳でやめました。タバコは肌の老化を早めますから」
石川は無造作に胸ポケットから取り出したセブンスターをじっと見つめ、口にくわえて火をつけようとした瞬間、誠の言葉に一瞬ためらった。カチッ、というライターの音が空しく響き、石川は忌々しそうに煙草を灰皿へ置く‥‥。
そんな奇妙な朝を迎えながら、誠はふと今日の日付を反芻した。3月28日。
(2026年の今日だったら……定時で切り上げて、外食でもして家族とお祝いをする。そんな日だな。)
だが、この世界では1996年の3月28日に「46歳の誕生日」を迎える自分は本来存在しない。誠は複雑な実存を飲み込むように、最後の一口の納豆を口に運び、その思いを心の一番深いところに仕舞い込んだ。
―――――――
その日の夕方。まだ陽は落ちていない時分。
「よし、誠。今日は解析も一区切りだ。ケリーも煮詰まってるみたいだし、たまには外で体を動かすぞ」
石川に連れられて向かったのは、近所のバッティングセンターだった。
カキーン、と小気味よい音が響く中、誠は「110キロ」の打席に立った。タイムスリップしてから本格的な打席からは遠ざかっていたが、週末のガチな草野球で鍛えた体は、バットの重みを忘れていなかった。
マシンがボールを放つ。
誠は鋭い踏み込みから、最短距離でバットを振り抜いた。
快音。
打球は完璧な放物線を描き、ネットの奥を直撃した。無駄のないスイング、軸のブレないフォロースルー。四十五歳の中年とは思えないそのキレに、後ろで見ていた石川の目が見開かれる。
「おいおい……お前、マジかよ。ただ若く見えるだけじゃねえ、バケモノか?」
石川もかつては短距離走で学校選抜されるほどの運動神経を誇っていたが、ここ十数年のデスクワークで体は錆びついている。目の前で躍動する「未来の中年」の身体能力を目の当たりにし、石川は本気で「誠の真似をして納豆を食うか」と考え始めていた。
続けてのボールも快音を放つ。
1球、1球のスイング、体の動きがまるで機械の様にぶれない。
「マコト! あなた、四十五歳でも大リーガーになれるんじゃないか?」
ケリーが目を丸くしてジョークを飛ばす。誠は息を切らしながら謙遜した。
「いや、自分なんて無名選手ですよ。未来には、もっと凄い猛者が山ほどいます。四十代、五十代でも体がキレキレの草野球チームがあちこちにある。それに、そう遠くない未来には、四十歳を過ぎてもメジャーリーグの第一線で活躍し続ける選手が何人も出てくるんです」
「……おっさんのたしなみ、じゃねえのか」
石川が感嘆の声を漏らす。「草野球」という言葉に持っていた、くたびれた中年がビール片手に行うレクリエーションというイメージが、誠の背中を通して塗り替えられていった。
一通り汗を流し、三人で銭湯の広い湯船に浸かって疲れを癒した後、一行は石川無線の店舗へと戻った。
通常、十九時までは営業しているはずだが、なぜかシャッターが半分閉まっている。
「……? 石川さん、泥棒ですかね。電気がついてます、中に人の気配がする。」
警戒する誠を余所に、石川は口端をニヤリと歪めた。
「いいから、入れ。お前が先だ」
誠が訝しみながらシャッターをくぐり、薄暗い店内へ足を踏み入れた瞬間――。
「お誕生日、おめでとう!!!」
パンッ、パンパンッ! と乾いたクラッカーの音が弾けた。
眩い明かりの下にいたのは、あずさ、かなっち、まなっち、そして美雪。さらには宗正憲までもが、場違いなほど高級そうなシャンパンを手に立っていた。
カウンターの中央には、26本のローソク――いや、1996年の誠の「実年齢」を考慮したのか、あるいは46歳を祝うのか迷ったような数のローソクが立てられた、見事なバースデーケーキが鎮座していた。
「お兄さん! おめでとう!」
あずさが一番に駆け寄り、誠の肩を叩く。誠は完全に固まっていた。
「どうして……誰にも言ってなかったはずなのに」
「忘れたか? お前が最初にうちに来た時だよ」
石川が背後から笑いながら入ってきた。
「赤提灯でよお、お前の年齢が45歳と聴いておれがビールを吹きこぼした時あっただろ。あの時、誕生日は3月28日だってボソッと言ったろうが。……あんまり寂しそうな顔して言うからよ、覚えてたんだ」
誠の胸の奥が、熱いもので満たされた。
2026年の家族とは会えない。だが、1996年のこの場所にも、自分の誕生日を覚え、祝ってくれる「家族」がいた。
「さあマコト、願い事を。未来へ帰る願いでも、巫女さんに会う願いでもいいぞ!」
ケリーがシャンパンの栓を抜く。
誠は深く息を吸い込み、皆の笑顔を見渡した。そして、1996年の春めいてきた東京の、少し埃っぽくて温かい空気と共に、ローソクの火を一気に吹き消した。
店の外には、秋葉原の夜風が吹く。それは冬の刺すような冷たさを失い、新しい季節の訪れを告げる、ほっこりとした湿り気を帯びていた。




