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1996.0渋谷のマッキントッシュ  作者: 代々木ノブ
第一章 from 2026 to 1996
2/15

1.2_1996年のアウトサイダー

テラスのベンチに深く腰掛け、誠は乱れる呼吸を整えた。


(落ち着け。これは、不測の事態におけるリソースの棚卸しだ)


自分に言い聞かせる。

まるでドラクエのプレイヤーのように。

「新しい土地では、まず装備と持ち物を確認する。基本中の基本だ」


身に纏っているのは、

マッキントッシュのコートに、ユニクロのミラノリブニット、Shipsのスタンドカラーシャツ。ユナイテッドアローズのテーパードパンツだ。足元は白のスタンスミス。

2026年なら「清潔感のあるビジネススタイル」だが、

1996年の東京では、シルエットの洗練されすぎた奇妙な異物に見えるかもしれない。


ビジネスキャリーの中。

一泊分の下着、無印良品のシャツとニット、歯磨きセット、電動カミソリ、整髪料、制汗シート。


そして、この時代には存在しないテクノロジーの塊たち。

腕にはApple Watch(2023年モデル)。

耳にはAftershocksの骨伝導イヤホン。

ポケットにはiPhone 15 pro。

ビジネスリュックの中には業務用iPhone SEと、

Surface Pro(Intel Core Ultra 7搭載、メモリ32GB)。

これら携帯やPCの充電器。


(Apple Watchの充電器は……キャリーの中か。よし)


手帳、ボールペン、会社や保育園のセキュリティカード。

そして、今の自分にはもっとも切実な「もう一つの鍵」――。


(……所持金だ)


震える指で長財布を開く。

2年前、妻からプレゼントされたボッテガヴェネタの長財布。

そこには、2024年に発行されたばかりの渋沢栄一が3枚、北里柴三郎が8枚。


(しまっ……これじゃあ、ただの「精巧すぎる偽札を持った不審者」だ)

1996年の日本で、この顔ぶれを知る者は一人もいない。

複数枚のクレジットカードや銀行のキャッシュカードも、この時代じゃ使い物にならない。

運転免許証も、ましてやマイナンバーカードも、身元を証明する証票になりえない。


誠は、週末の草野球の時以外は触れることもなくなった小銭入れを逆さにした。


(今は平成8年……。それ以前に発行された硬貨なら、使えるはずだ)


昭和59年から平成元年の100円玉が3枚。

平成2年から5年の10円玉が6枚。

平成3年と昭和58年の1円玉が2枚。

絶望的なのは、平成21年〜27年の100円玉が2枚と、令和5年の500円玉だ。


(くそッ、362円か……。この時代で、俺が持っている全財産はこれだけかよ)


高価なコートの下で、冷や汗が背中を伝うが悲観してはいられない。


(さて、どうする。)


警察に保護を求めれば、

所持している身分証や紙幣、通貨も怪しい中年男性として拘束されるだろう。

そして、強引な取り調べ。

「未来から来た」なんて言えば、精神科行きの特急券を手にするだけだ。


家族?

この時代の自分は高校生だ。妻も女子高生、娘に至っては影も形もない。


実家?

信州の松本まで帰る電車賃すらないし、数百キロを徒歩で行けるわけがない。

いきなり「30年後の息子です」と現れて通報されない保証がどこにある。


(だめだ……既存のシステムに頼る道は、すべて塞がっている)


誠は左手の指を額に当て、思考をビジネスの戦場へと引き戻した。


(‥‥今、俺の『競争優位性』は何だ?)


思考のフレームワークが、勝手にVRIO分析を開始する。

V(経済価値)、R(希少性)、I(模倣困難性)。 手元にあるデバイスは、1996年の技術水準からすれば「オーパーツ」を超えた神の啓示だ。

PC98が全盛で、Windows 95がようやく普及し始めたこの時代。

手元にあるiPhone SE一つでさえ、当時のスーパーコンピュータを凌駕する。


(VRIまでは揃っている。あとは、**O(組織・体制)**だ……!)


この遺物の真価を理解し、自分を支援してくれるパートナー。

「不思議な機械」としてではなく、技術的な「進化の極致」として正当に評価できる人間が要る。

S●NYやパ●ソニック?

いや、96年ですら大手企業。守衛室で追い返されるのが関の山だろう。


(電子機器に詳しい人達が集まる場所………あき…秋葉原!?)


そうだ、あそこなら。

96年田舎者だった誠のなんとなくのイメージでしかないが、

アイドル文化やオタク文化に飲み込まれる前の、まだ「電気街」としての牙を剥いている街であるはず。


(動け。動かないことには、何も始まらない)


誠は腰を上げ、渋谷駅の券売機に向かった。

昭和59年と平成元年の100円玉、平成2年の10円玉を投入する。

最新のテクノロジーを凝縮したiPhoneよりも、手垢に汚れた数枚の銅貨の方が、今の誠にとっては遥かに価値のある「自由への切符」だった。


運賃210円。

磁気式の切符を改札に通し、誠は山手線のホームへと滑り込んだ。


到着した緑色の車両――205系。

誠が知っている、大型液晶ディスプレイを備えた電子レンジのような最新車両ではない。

無骨なステンレスの塊が、金属の焼ける匂いを振りまきながら滑り込んできた。


ドアが開いた瞬間、誠は思わず怯んだ。

押し寄せてきたのは、2026年では決して味わうことのない、圧倒的な「情報の濁流」としての空気だ。


(……空気が、重い)


誠の記憶にある2026年の山手線は、徹底的にコントロールされた静域だ。

天井には目立たぬよう高性能な空気清浄機が埋め込まれ、ウイルスも微細な塵も、そして他人の存在感すらも無臭化されている。

冬でも夏でも、そこには乾燥した清潔な「無」が流れていた。

渋谷や新宿の喧騒でどれほど浮かれていた外国人観光客であっても、ひとたびあの車両に足を踏み入れれば、神域のような静寂に圧倒されて自然と声を潜めてしまう。それほどまでに、未来の車内は無機質だった。


だが、1996年のここは、どうだ。


まず鼻を突いたのは、染み付いた煙草の残り香だ。

駅のホームのあちこちに灰皿があったこの時代、人々のスーツや髪には、吐き出された煙の粒子が分厚く吸着している。

それに混ざり合う、湿った埃の匂い。

そして、強烈な「インクの匂い」。 向かいの男が広げる『日経新聞』、隣の男が貪り読む『夕刊フジ』、吊り革に掴まる若者が抱えた『週刊少年ジャンプ』。

数えきれないほどの紙媒体から放たれる生々しいインクの香りが、狭い車内に充満し、熱気を帯びて渦巻いている。


(空気清浄機なんて、概念すらまだないんだな……)


天井を見上げれば、無骨な扇風機が埃をかぶっている。

それは空気を浄化するためではなく、ただ「淀んだ熱」をかき混ぜるためだけに存在し、停止していた。


乗客たちの姿も、どこか野生的で「生」が剥き出しだった。

2026年の車内は、無機質な静寂が支配している。

誰もがスマートフォンの発する青白い光に顔を埋め、ワイヤレスイヤホンで外部との接触を遮断した、孤独な個の集合体。


しかし、この車両には「個」を隔離するシェルターがない。

あちこちで新聞をめくる「バサッ」という乾いた音が響き、ウォークマンのイヤホンからは「シャカシャカ」という特有の音漏れが、まるで耳障りな耳鳴りのように空気を震わせている。

つり革を握る人々は下を向かず、真っ直ぐに前を向き、車窓を流れるビル群、あるいは吊り広告の過激な煽り文句を凝視していた。


「……みんな、顔を上げている」


誠はマッキントッシュのコートの襟を立て、小さく身を縮めた。

スマホという逃げ場がない人々は、必然的にその視線を、現実の物理世界へと放流している。

だからこそ、ただ立っているだけで、他人の視線という「圧力」が肌に直接突き刺さるのだ。


隣に座る男の、脂ぎったスーツの質感。

吊り革を掴む手の、生々しい血管の浮き出た様子。

空調の吹き出し口から漂う、少しカビ臭い、それでいてどこか懐かしい機械の油の匂い。


すべてが、デジタルで補正される前の「解像度の高い現実」として誠に襲いかかる。


(孤独だ……)


自分だけが、この熱狂の先にある「静まり返った未来」を知っている。

この汗の匂いも、インクの香りも、紙をめくる音も、すべてがいつか「魔法の板」の中に吸い込まれ、漂白されていくことを知っている。

ポケットの中のiPhone 15が、まるで異世界の冷たい石のように、誠の太ももを冷やしていた。


電車が秋葉原駅に滑り込む。

プシューッ、という乱暴な排気音とともにドアが開いた。

誠は逃げるようにホームへ降り立ち、ハンダの匂いと排気ガスの臭いが混ざり合う、あの独特の電気街の空気を深く、深く吸い込んだ。


肺の奥が少し痛むような、その未完成で暴力的な空気が、

今の誠には唯一の道標。


1回表。試合開始だ。



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