3.1_1996年秋葉原の熱源
1996年、2月下旬。秋葉原。
万世橋を渡る風は依然として肌を刺す冷たさを保っていたが、電気街の路地裏にある『石川無線』の周辺には、季節を先取りしたような奇妙な熱がこもっていた。
事務所横の雑居ビル二階。
かつては売れ残った真空管や通信機パーツが積み上げられていた物置同然のフロアが、今や日本で最も「未来」に近い特区へと変貌を遂げていた。
室内を支配するのは、加熱された半田ごてが放つ独特の鉛の匂いと、いくつもの冷却ファンが回る乾いた音。そして、高価な測定機器が放つ電子的なハム音だ。
宗正憲から支払われた当座の「軍資金」を使い、石川は最新のデジタルオシロスコープや、当時の技術者が喉から手が出るほど欲しがったワークステーションを揃え、この「ラボ」を構築した。
「……おい、誠! ボサッとしてんな、こっちを見ろ。また正気を疑いたくなるデータが出やがった」
石川は顕微鏡の接眼レンズを覗き込んだまま、ぶっきらぼうに声を荒らげた。 彼はかつて大手電機メーカーの技術部長として辣腕を振るった男だ。組織の政治や空虚な会議に辟易し、純粋に技術の真理で勝負したいと脱サラしてこの店を開いた。
47歳。世間では落ち着き始める年齢だが、今の石川にはそんな枯れた気配はない。
「見てみろ。この『iPhone SE』とかいう薄板の中身だ。髪の毛よりも細い配線が、ナノ単位の精度で都市計画みたいに並んでやがる。1996年の技術でこれを作ろうと思ったら、基板だけでタタミ一畳分は必要だ」
石川は作業着の袖で額の汗を拭い、栄養ドリンクを一気に煽った。
「で、最大の問題はこれだ。内部のハードウェアは明らかに数十年先の代物なのに、システムクロックが、まるでこの世界の空気を読み取るように、律儀に『1996年』の日付を表示してやがる。ネットワークに繋がっているわけでもないのにだ。……こいつはただの機械じゃねえ。この時代に無理やり自分を適合させようとしてる、一種のバグみたいなもんだ。誠、お前がこの時代に紛れ込んだのと同じようにな」
石川の瞳には、かつて世界を相手に大型プロジェクトを率いていた頃のような、鋭く精悍な輝きが戻っていた。
新しいタスクが増えたことと連動して、山のように出来上がった領収書や書類を「ああ、忙しい! 全く、昔を思い出すぜ」と笑い飛ばしながら処理するその姿は、再び戦場へと戻った熟練の騎士そのものだ。
その傍らで、誠は石川無線とシステムバンク、二つの組織を繋ぐ「調整役」として奔走していた。
誠の正式な身分は「有限会社石川無線の社員」だが、対外的には「システムバンク経営企画部への出向社員」という肩書きも与えられている。2026年の渋谷で経営企画部長として培った、組織間の利害を調整するスキルが、ここで遺憾なく発揮されていた。
「……よし、これで業務報告書のドラフトは完了ですね。石川さん、機材のリース契約書もここにまとめておきました」
「おう、助かる。誠、お前は本当に仕事の段取りだけは一流だな」
誠は、胸ポケットにあるシステムバンクの社員証をそっと指でなぞった。
2026年から飛ばされてきた誠には、この時代に通用する公的な証票が何一つない。この世界に存在しない「透明な人間」である誠にとって、宗が計らってくれたこのプラスチック一枚の社員証こそが、唯一自分が「上條誠」としてこの地に立っていることを社会的に証明する実存の証票だった。
隣では、アルバイトのあずさが
「むー、この漢字なんて読むの?」
と唸りながら書類をファイリングしている。
誠は彼女の横顔を、複雑な思いで見つめていた。2026年の世界で、絶望の淵に立たされた自分を救い、巨悪に立ち向かってくれたあの敏腕女性弁護士の若き日の姿。彼女はつい先日、バイト先の居酒屋で店長のセクハラに耐えかね、その股間を厚底サンダルで思い切り蹴り上げて辞めてきたばかりだったが、今の石川無線での仕事には満足しているようだった。
「お兄さん、ここ本当に最高だよ。時給は前の倍だし、なによりみんながアタシをちゃんと仲間として扱ってくれるじゃん?」
あずさが機嫌よく笑う。
誠は心の中で
(いつか君は、たくさんの人を救う立派な弁護士になるんだよ)
と呟きながら、彼女の天真爛漫な笑顔を見守った。
―――――
三月に入り、一階の店舗『石川無線』は、異様な活気に包まれ始めていた。
ラボの作業や誠の出向業務が増え、あずさも学業の傍らで毎日いるわけではない。人手が足りなくなったため、あずさのギャル仲間二人がバイトとして加わることになた。
それが…
「秋葉の無線屋に、とんでもないギャルがいる」
「三連星が降臨している。石川無線と言うところに」
という噂が、瞬く間に広がった結果オタク達が集まり始めたのだ。
織田伽奈。
文学部史学科を専攻する古風な感性を持つギャルだった。彼女は厚底ブーツでカウンターに立ちながら、ボロボロのパーツカタログを、まるで解読を待つ古文書のように愛おしそうに眺めている。
「お兄さん、この1970年代のトランジスタの系譜、ヤバくない? なんかさ、平家物語の家系図読んでるみたいで感動なんだけど。この型番がこっちに分岐して滅びていく感じ、超歴史のロマンじゃん?」
そう言って、彼女は目を輝かせてオタク客に微笑む。小難しい技術論を戦わせようと意気込んでいた客は、その独特すぎる「歴史学的アプローチ」に毒気を抜かれ、「……はあ、確かにこれは……平家ですね」
と、いつの間にか彼女のペースに引き込まれていく。
経済学部の真柴茉奈。
冷静なコスト意識を持つ「商売の天才」だった。
「ねえ、お兄さん。このマザーボード、今ケチって安いの買うのって、結局『機会損失』じゃない? 三ヶ月後に後悔して買い直すくらいなら、今これを手に入れて三ヶ月分の『幸せの利益』を確定させた方が、費用対効果最強だと思うな。ね、まなっちを信じて投資しちゃいなよ?」
まなっちにそう諭された若者は、頭の中の経済学的な正当性に納得させられ、
「……確かに、投資ですね。これください!」
と、当初の予算を大幅に超えたパーツを、むしろ晴れやかな顔で買っていくのだった。
2人の参戦により、店の客足が更に伸びる結果となってしまった。
とはいえ、3人娘も毎日出勤できるわけでもない。特に週末は年頃の女学生。それぞれにも予定がある。
そのため、週末に、美雪も手伝いに入るようになった。女学生たちとは違い、週末暇であるという事は、石川も、誠も、女学生3人もあえて触れずに…。
ただ、美雪の登場により「石川無線」の客足に拍車がかかってしまった。
平日とは違った、オタク達の「真の戦場」として。
美雪はシステムバンクの怪物・宮川専務他幹部達を相手に堂々と渡り合い、その力量を認められた逸材だ。生半可なIT知識をひけらかしてマウントを取ろうとするオタクたちは、彼女の前に無残にも平伏した。
「そのプロトコル、論理矛盾を起こしていますよ。1980年代の古い規格に固執するのは、あなたの知的怠慢ではありませんか?」
冷徹な正論と圧倒的な知識量でオタクを沈黙させるその姿は、いつしか畏敬を込めて「アイアンクイーン」あるいは「ラスボス」と呼ばれるようになった。
週末の石川無線は、自分の知識の限界を試そうとする勇者たちが返り討ちに遭う「鉄の処女」の餌食の場と化していたのだ。
―――――――
そんなとある平日の午後。
店番をしていたかなっちが、自作PCの設定に悩む若者に、ふとこう尋ねた。
「ねえ、お兄さん。さっきから難しいこと言ってるけど……それって、幼稚園の子でもわかるように説明してほしいなあ? 難しい言葉ばっかりだと、アタシ、お兄さんと仲良くなれないじゃん?」
その瞬間、若者の思考が停止した。
彼は今まで、難しい言葉を操れることが「技術者としての誇り」だと思っていた。知識を積み上げ、一般人を寄せ付けない城壁を築くことがステータスだと信じていたのだ。
だが、かなっちの無垢な瞳に射抜かれ、彼は自分の心の奥底にある傲慢さに気づかされた。
(……俺は、誰かに伝える努力をしていたか?)
彼は必死に頭を回転させた。どうすれば、このギャルに複雑な仕組みを説明できるか。
「……ええと、つまり、レジにたくさんのお客さんが並んだ時に、誰から先に会計するかを決めるルールのことなんだ」
「あー、なるほど! 順番待ちね! 超わかる!」
かなっちが満面の笑みで頷いたとき、若者の胸に雷が落ちたような衝撃が走った。
(難しいことを難しく語るのは、単なる自己満足だ。誰にでも理解できる言葉に落とし込めてこそ、技術は魔法になる)
それは、後に世界を席巻するApple社の「iPad」や「iPhone」が掲げるコンセプトに近くも早すぎる、しかし確かな芽生えだった。
―――――――
賑やかな日々は続く。ただ、ある日の客足が少しだけ落ち着いた午後。
一人の男が店の暖簾をくぐった。
がっしりとした肩幅に、鋼のような肉体。
陸上自衛隊第一空挺団――最精鋭の落下傘部隊に所属する男。
上野の和菓子屋の長男。とある事情で、休暇を取りで秋葉原にやってきていた。
店の中を見回す彼は、あずさを視界に捉えた。
その瞬間、脳内では、自衛隊で叩き込まれた状況判断能力がフル回転する。
(状況:未知の高価値目標を確認。評価:容姿は派手な『ギャル』だが、部品を扱う所作に淀みがない。……待て、あの指先の動き、物の置き方。育ちの良さ(あずさは信州松本の呉服屋の長女だ)が隠しきれていない。利発な言動、そして風に乗って漂う微かな香水の香り……すべてが、自分の理想の射程圏内にある!)
心の中では理路整然と「一目惚れ」を分析できていた。
だが、肉体がその演算結果に追いつかない。
「あ、お兄さん。何か探し物?」
あずさが首を傾げ、至近距離で微笑む。彼は直立不動のまま、顔を真っ赤にして固まってしまった。
「あ、い、いえ、その……状況、確認……報告、なし……ッ!」
精鋭空挺隊員の喉から出たのは、情けない掠れ声だった。
「あはは、お兄さん面白いね。大丈夫だよ、また来てね」
あずさに優しく諭された瞬間、彼はあまりの幸福感と緊張の反動で意識が遠のき、膝から崩れ落ちそうになった。彼は一緒にいた非番の仲間に左右から抱えられ、引きずられるようにして店を後にした。
それからというもの、この自衛官は4日間の休暇中毎日のように店に現れた。相変わらず話すのは下手だったが、誠実さだけは全身から溢れていた。
誠はラボの入り口から、その光景を微笑ましく見守っていた。
(……わかるよ。俺も昔は野球一筋で、女の子と話すのが苦手だったからな)
ある日、あずさがいつものようにカウンターでモジモジしている自衛官に笑いかける。
「じゃあお兄さんさ、次来たときにちゃんとお話しできるように、まずはお名前だけ教えて?」
「あ、あ、し、し、しば……柴崎、かか、和夫です!」
その瞬間、誠の手からペンが落ちた。柴崎。それは、未来のあずさが名乗っていた苗字だった。2026年の世界で、彼女は仕事上は「降旗あずさ」を通していたが、戸籍上の姓は「柴崎」であることを誠は知っていた。
(……この男か。あずさの、未来の旦那さんは)
和夫は少しずつ心を開き、元々パソコンいじりは好きで石川無線の噂を聞いてやってきたこと、空から飛び降りる訓練の話や、父親が体調を崩したことで、3月末で退官し、実家の和菓子屋を継ぐことを語るようになった。
「親父の跡、しっかり継ぎたいんです。人を笑顔にするものを作りたい。」
「いいじゃん、和菓子屋のお兄さん。あたし、あんこにはうるさいよ?」
(…微笑ましい…でも、自分のいた世界ではこの二人はどこで出会っていたのだろう。あずさが石川無線を手伝う運びは、自分がここに来たからだ…)
少しだけ歴史が変わっていることを誠は自覚し、複雑な心境となった。
ただ、未来を救ってくれた彼女の、幸せのルーツを今目の前で垣間見ている。
(見守ろう。そうだ。少しだけ変わったとしても…この二人の未来は守らなきゃいけない。)
誠の胸に、「この二人の未来を、この時代で絶対に守り抜く」という決意が宿った。
そんな二人の歴史の胎動を見守っていたある日の午後。
秋葉原の雑踏を割り込むようにして、背の高い金髪の外国人が石川無線の門を叩く。
ヨレヨレのネルシャツを着たその男、
名はケリー・ジョンソン(ドイツ語名:クラウス・ヨハンセン)。




