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1996.0渋谷のマッキントッシュ  作者: 代々木ノブ
VALUES(’Kelly','Johnson’,'巫女')
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3.0_第三章プロローグ 冬空と朱の刻印

 1996年2月6日。

 東京の空は、冬の刺すような冷たさを、乾いた風が絡めとっていた。

 システムバンク本社の役員フロアは、都心の喧騒を分厚い複層ガラスで遮断し、人工的な静寂が支配している。


 専務取締役、宮川は、自室の重厚なデスクに向かっていた。

 デスクの上には、当時まだ「ペーパーレス」という言葉が空想科学(SF)の響きを持っていた時代を象徴するように、整然と積み上げられた書類の山がある。窓の外を見れば、日本橋方面へと続くビル群が、午後の陽光を浴びて鈍く光っていた。

 1996年の日本経済は、表面的には平穏を装っていた。しかし、その足元では、バブル崩壊後の不良債権という時限爆弾が、秒読みの音を少しずつ速めている。宮川はその不気味な「音」を聞き取れる数少ない男の一人だった。


 システムバンクという組織は、その荒波の中で、宗正憲という狂気じみた天才の直感をエンジンにして、猛スピードで膨張を続けている。宮川の役割は、その暴走しがちなエンジンの回転数を、法務、財務、そしてガバナンスという名の「冷却水」でコントロールし、組織としての整合性を保つことにあった。


「失礼いたします、専務。決済をお願いしたい書類がございます」

 秘書の静かな声と共に、赤い「至急」のラベルが貼られた革製の稟議フォルダが差し出された。宮川は眼鏡をわずかにずらし、そのフォルダを受け取った。


 フォルダを開くと、一番上に綴じられた一枚の稟議書が目に飛び込んできた。


『次世代移動体通信規格における技術調査費用の支出について』

 宮川は、そのタイトルを見ただけで、口元にわずかな苦笑を浮かべた。


(また始まったか、社長の『道遊び』が……)


 宗正憲という男は、時折、全社の戦略とは一見無関係に見える「点」を打つ。そしてその「点」が、数年後には巨大な利益を生む「線」となって、競合他社を絶望させるのが常だった。宮川は丁寧にその内容に目を通していく。


「委託先……有限会社石川無線。月額報酬、500万円(定額)‥‥」


 宮川の指が、その金額のところで止まった。

 500万円。

 秋葉原の聞いたこともないような小さな有限会社に払う月額報酬としては、あまりに破格だ。一流大学の教授陣を擁するシンクタンクならいざ知らず、街の無線屋に投じる金額ではない。


 だが宮川は、この金額設定に宗正憲という男の「体温」を感じ取っていた。


(社長が直接、起案を指示したな。……これは単なる契約料じゃない。相手を『独占』するための拘束料、いや、一種の敬意の表れか)


 調査内容の項目には、こう記されていた。 『有線通信から無線高速通信への移行における、物理層(レイヤー1)からアプリケーション層までの技術的展開課題の検証。および、未来予測に基づく独自の通信プロトコル解析』


 宮川は、その文面の「質の高さ」に目を細めた。

 使われている用語の選び方、論理の組み方、そして「未来予測」という不遜な言葉の置き方。そこには、1996年の並の技術者やコンサルタントには書けない、奇妙なほど「確信」に満ちた知性が宿っていた。

 宮川は、この書類の作成者が誰なのかを知らない。上條誠という男の名も、その姿も、宮川の記憶には存在しない。だが、この紙面から漂う「異常な解像度の未来」に、宮川はわずかな悪寒すら覚えていた。


 宮川の視線は、再び委託先の名称に戻った。

「有限会社石川無線……」

 その文字をなぞるように見つめているうちに、宮川の脳裏に、あの女性の姿が鮮やかに蘇ってきた。


 石川美雪。


 その時の彼女の印象を、宮川は忘れることができない。

 凛とした佇まい、深い知性を湛えた瞳、そして何より、96年の日本にはまだ珍しい、時代の最先端を静かに見渡しているような、澄んだ空気感。

 あの日、宮川の旨の鼓動を久しぶりに高鳴らせてくれた、装飾ではない未来の日本のITを支える至高の武器。


  (石川無線。……そして、某商社の美雪さんも石川だったな)

 宮川は、手元にある石川無線の登記情報の写しを見た。代表取締役は石川英吉。住所は秋葉原の路地裏だ。

 宮川は、石川英吉という男がどのような人物かも、美雪との正確な家族関係も、この書類の背後にいる「上條誠」という存在も知らない。

 ただ、この無骨でアナログな「無線屋」という名前と、あの洗練を極めたような女性が、同じ「石川」という符号で結ばれていることに、説明のつかない奇妙な巡り合わせを感じていた。


「なんだか、うちは『石川』という名前と縁があるものだなあ」


 宮川は、独り言を漏らした。

 社長が心酔している謎の予言者。その背後にいる石川無線という名の技術拠点。

 そして、その名前を冠する、美しくも謎めいた女性。


 これらの断片が、まだ宮川の中では一つの形にはなっていない。しかし、96年の日本という大きなキャンバスに、宗正憲が新しい色を塗ろうとしていることだけは、宮川の直感に鋭く突き刺さっていた。


 宮川は、手元に置かれた朱肉を丁寧につけ、稟議書の承認欄に狙いを定めた。  この判を押せば、月額500万円という誠を未来に還すための資金が動き出す。秋葉原という小さな「点」に、システムバンクの資本という名の「燃料」が注ぎ込まれることになる。


 トントン、と。


 静かな室内で、印鑑が紙を叩く乾いた音が響いた。

 鮮やかな朱色の円が、承認欄に刻まれる。それは、システムバンクという巨大な組織が、正式に「未知の未来」への投資を開始した瞬間だった。


「……はて、はて。またこれは社長が、とんでもなく面白いことを始めようとしているな。よほど価値のある情報が、秋葉原の路地裏には眠っているらしい」


 宮川は眼鏡を外し、稟議書を閉じて秘書に手渡した。

 秘書が会釈をして退室すると、宮川は背もたれに深く体を預け、窓の外を見上げた。

 冬の空は、どこまでも澄み渡っている。


 だが、その穏やかな青空の向こう側で、経済の、そして時代の「崩壊」と「再生」が同時に始まろうとしていることを、宮川は静かに予感していた。


(石川無線、か。……社長、せめて私の退屈を凌がせてくれるような、驚くべき『答え』を見せてくださいよ)


 宮川の問いに答える者は、まだいない。


 しかし、彼が今押した「朱の刻印」が、三十年後の2026年に続く一本の道を、1996年の大地に力強く刻み始めたことだけは、疑いようのない事実だった。

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